第2話:恋は更新通知よりも早く
翌週の月曜。会議室のドアを開けた瞬間、心臓が“社内チャットの未読マーク”みたいに光った。
——いた。
プロジェクターの前、涼しい顔でスライドをめくる原牧。あの春巻きが、今は資料の中でKPIを語っている。
「本日の目的は、現状分析と次フェーズの方向性を——」
淡々とした声。週末に「青のり現場主義」で笑い合った人とは思えない。
私は平静を装いながら席につき、メモを開いた。いや、開いたフリをした。
「水瀬さん、昨日送った資料、確認いただけました?」
「え、あ、はい。春巻き……じゃなくて、は、はい!」
瞬間、室内の空気が凍りつく。
「……?」
「すみません、昨日食べた夕飯が春巻きでして」
脳が捻出した最悪の言い訳。しかも昨日は焼きそばだ。
原牧は口角をわずかに上げて、「なるほど」とだけ返した。あの微妙な笑い、覚えてる。アプリの絵文字と同じ温度だ。
会議が終わると、同僚の美紅が肘でつついてきた。
「ねえ、水瀬さん。あのコンサル、イケてない? なんかさ、無駄に声がいい」
「無駄って言わないで」
「てか、あなたタイプでしょ?」
図星。
「まさかね。仕事の人よ」
「そう言ってるうちは、恋が始まってる」
彼女の発言はだいたい間違ってるが、たまに当たる。
私は自分のスマホを見た。週末以降、“春巻”からの通知はない。業務時間内にメッセージが来たら、それはもう社会的にアウトだ。けれど、“来ない”ことでちょっとだけ寂しい。
通知のない午後。私は報告書を開き、数字の羅列を見つめた。まるで恋の進捗率が0%のまま凍結しているみたいだった。
夕方、休憩室で缶コーヒーを開けたとき、背後から声がした。
「現場主義の女神、発見」
振り向くと、原牧が紙コップを持って立っていた。
「コーヒー、ブラック派ですか?」
「ええ。KPIより苦いのが好きなんで」
「名言ですね」
沈黙。自販機のモーター音が、やけに大きく聞こえる。
「週末は、楽しかったです」
「私もです。青のり、まだ家に残ってます」
「じゃあ、次は使い切りましょう」
「どこで?」
「……提携カフェ、リサーチしておきます」
社内恋愛ではない。でも、社外恋愛でもない。業務提携に恋が混入してる状態。最も危険で、最も面白いライン。
彼はコップを傾け、少し笑った。
「ところで、次の会議資料、レビューしてもらえます?」
「もちろん」
「じゃあ、送ります。アプリじゃなく、メールで」
わざとらしい区別。その“メールで”が、微妙に甘い。
夜。帰宅してシャワーを浴び、リビングの灯りを落とした。スマホが光る。
〈件名:資料レビュー(仮)〉
本文の最後に、一行だけ。
〈追伸:青のり、現場主義。〉
笑って、ため息をつく。
メールの送信元は“h.haramaki@consulting...”
そのドットの数すら愛おしいと思ってしまう自分が、もう完全に恋の予算オーバーだった。
翌日、アプリを開くと、“春巻”のアイコンはグレーになっていた。
アカウント削除。
そうだよね。仕事と恋が交差した瞬間、彼は正解を選んだ。大人って、だいたいそういうもの。
でも、削除されたはずのアカウントに、“既読”の感覚が残る。
私は思った。
恋は更新通知よりも早い。気づいたときには、もう心のOSが上書きされてる。
だから、今日もメールを開く。
件名は——「打ち合わせ日程調整(春巻件)」。
やっぱりこの人、ルールを守りながら遊ぶ天才だ。
そして私も、守られながら破りたい天才かもしれない。




