滴
冷たい滴が顔に当たった。
見上げても何の変哲もない天井があるだけだ。雨漏りか水漏れだろう。
見回しても誰もいない。いかにも重厚なドアがあるだけで、それ以外には窓すらない狭い部屋の中心に立っている。
どうにも記憶が判然としない。ここが自宅のような気もするし、職場のような気もする。ここに来るまで何をしていただろうか。
また滴が当たった。わずかに不快を覚える。
わざわざ滴の当たる場所に留まる理由もない。一歩横に移る。私が何故ここにいるのかは思い出せないが、こんな安普請からはさっさと離れたいところだ。
滴が当たった。私を嘲笑っているように感じられ、苛立ちが募る。
そういえば、何かでこんな拷問だか刑罰だかがあると見た覚えがある。
まさか、私に恨みのある者の仕業だろうか。記憶が曖昧なのも、何かの薬品を使われたせいかもしれない。
私はどんな競争にも勝利してきたが、ことさら非合法な手段を取ったことがあるわけでもない。私に敗れ、結果として落ちぶれた人間もいるだろうが、それはただ私が優れ、彼らが劣っていたからで、当然の帰結ではないか。
滴が当たった。怒りがこみ上げる。このような仕打ちは逆恨みもいいところだ。
ドアに駆け寄り、強く叩く。重く鈍い音が部屋に響いた。
「おい! 誰かいるんだろう! 私がいなくなったと知れたら、すぐにこんな場所など見つかってしまうぞ!」
何の反応もない。部屋は静まり返ったままだ。
滴が当たった。私を無視するとはいい度胸だ。
「聞いているのか! 今ならこのことは黙っておいてやる! さっさと解放しろ! これが最後の忠告だ!」
反応はない。私の厚意を無下にするとは。いいだろう。捕まってから後悔するがいい。
滴が当たった。下らん手口だ。防ぐ方法など幾らでもある。
着ていた背広を頭から被る。拷問するにしても、体の自由を奪わないなど、とんだ馬鹿もいたものだ。
滴が当たった。上にばかり注意していたが、別の場所に仕掛けでもあるのだろう。随分と無駄な努力が好きらしい。そんなことだから私に敗れるのだ。
背広で顔を全て覆う。これならどうにもなるまい。
滴が当たった。
たかが水滴だ。対応するまでもない。今頃は部下が必死に私の行方を探している。馬鹿が捕まるのも間もなくだ。
滴が当たった。
「何が望みなんだ! 私に出来ることなら何だってしてやる! ここから出してくれ!」
滴が当たった。
「頼む! ここから出してくれ! 私が悪かった!」
滴が当たった。
「出してくれなくてもいい! せめて、滴を止めてくれ!」
滴が当たった。
「止めてくれ。お願いだ」
滴が当たった。
「止めてくれ」
滴が当たった。
滴が落ちた。
ドアが開かれ、二人の男が部屋に入ってくる。二人は横たわる老人の横に立つと、一方は目を閉じて合掌し、もう一方は老人の顔を見つめた。
「案外時間は経ってないみたいっすね。それにしても、凄い顔っすね。よっぽど苦しかったんすかね?」
老人の顔を見つめていた男は首を傾げ、合掌を続ける男に視線を向けた。
「先輩。この人、何かで見たことありません?」
先輩と呼ばれた男は目を開くと何も答えずに仕事を始める。尋ねた男はもう一度、老人の顔を食い入るように見つめた。
「思い出した! 一昔前に叩かれまくった人っすよ。詳しくは憶えてないっすけど、何か相当あくどいことをしてたとかで」
老人の顔に滴が落ちた。男は濡れた天井を見上げる。
「悲惨なもんっすね。ガキでも知ってる会社の偉いさんだったのに、最期は独り。しかもこんな水漏れするような部屋っすか」
男は何か思い付いたように口の端を上げ、「これがホントの」と言いかけたが、先輩に睨まれると笑って仕事に取り掛かった。
老人が運び出され、薄く安っぽいドアが軋んだ音を立てて閉ざされた。
滴が落ちた。