エピソード その9
母は、ようやく延々と引いていた荷台から解放されたのだろう。
来年で64歳を迎えるはずだった旅立ちは、些か早いとも思うけれども、父に先立たれてからの実家での孤独な生活からようやく解放されたのだし、ぼくはそのこと自体はあまり悲しいことではない気がする。
でも、水面ちゃんは違う。
何故、彼女にはお見舞いにくる人もいないのだろう?
何故、彼女はいつも明るいのだろう?
何故、彼女は話せないのだろう?
何故……ぼくは、次第に彼女のことが好きになって来たのだろう。
たまたま女性の顔がまともに見れないぼくの中に入って来たからだろうか。彼女という存在に興味を持ったからだろうか、時々一緒にいるとホッとするからだろうか、時々、微笑ましいからか、時々、可愛くて背が高いなと思ったからだろうか?
昨日の夜に、余命幾ばくもない彼女の寝顔を見ていたら、ぼくは彼女の寝顔が頭に焼き付いていた。もう、ぼくの頭から彼女が離れることはないのだろう。
――――
今朝になって、水面ちゃんがぼくの肩を叩いてきたので、ぼくはハタと起き出した。顔をカアっと焼けたように赤くするも。
なんのことはない。水面ちゃんのベッドに脇で椅子に座ったまま寝ていたぼくを、彼女が床にそのまま崩れ落ちたり、水面ちゃんのベッドに倒れ込んだりと、危ういなと思っただけなのだろう。
窓の外はまだ薄暗かった。
開いた窓からの微風が冷たくて気持ちがいい。
「あ……昨日から座ったままで寝ていたみたいだね。水面ちゃんは良く眠れた?」
ぼくは、水面ちゃんに照れ隠しに上機嫌に話し掛けていた。水面ちゃんはいつものように、どこか力なく微笑んだ。それから、朝食の時間までぼくは水面ちゃんの機嫌を伺いながら、自由に話すことにした。
上司の係長が、素敵な女性だったこと。
いつも仕事の帰り道に牛丼屋さんで、ビビンバ丼を食べていること。
出勤の際。雨の日は決まって傘を忘れること。
時折、水面ちゃんは微笑んだり、興味深いのか顔を近づけて聞いてくれたりと、表情がコロコロ変わることに気が付いた。ぼくは女性の顔がまともに見れないなんて嘘になった。