③ 馴染めない少年
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アレクサンドラと呼ばれた女性の後をついていこうとして、扉に頭をぶつけた。遠近感が判らないとかそういう問題ではなく、彼女は壁をすり抜けていったが僕にはそんなことはできなかったからだ。頭を押さえて困惑していると、彼女は顔だけ扉から出して言った。
「あなたには肉体があるの?」
そう聞いて、首を傾げた。
「そう……ですね。……逆に、皆さんにはないんですか?」
なんとなく顔だけ出ている彼女と会話するのが嫌で、扉を開けて外に出た。
「私たちは魂だけの存在なのよ、ウトナとあの方だけは違うそうだけど」
「……あの方って、あの美人の方ですか?」
「そう、アンナさんね」
ウトナ……アンナ……、なんだろう。聞いたことがあるような、そんなわけ……。
歩いていく彼女の背を追う。
「これって、夢ですかね?」
「もし夢の登場人物がいたとして、これは夢ですって言うと思う?」
……言われてみれば、そうか。
「ここって天国……ですか?」
「一時的に魂をとどめておく場所だと、聞いているわ」
「……それは、天国とは違うんですか?」
「皆、もうすぐ復活して、不老不死を得られると聞いているわ。もうすぐもうすぐと聞かされて、もういったいどのくらい待っているのか判らなくなっているのだけれど」彼女は歩いたまま笑ったが、僕は足を止めた。
「……え?」
宗教の話だろうか? もしかしてそういう所に来てしまったのだろうか。自分は葬式仏教で、ちゃんと何かを信じているというわけでは……ないんだけど。最近新興宗教が多いし、いやでもここは現実? 多分夢ではないから……。だったらこの人の言っていることはあってるのか? 思考がごちゃつく。駄目だ……よく判らない。
置いていかれそうになって、急いで追いつく。
「みんなに挨拶しましょう。あ……そういえば大事なことを聞いていなかったわ」
そう言って彼女は足を止めこちらを向いた。
「私はアレクサンドラ。あなたの名前は?」
「榛原支斗です。……ナカトが名前です」
「……そう、ナカト。これからよろしくね。ナカト」
彼女は右手を差し出した。握手だろうか。でも……。僕も右手を出す。お互いに触れることはできず、僕の手は彼女の手をすり抜けた。
……やっぱりそうなるのか。彼女は気にせず続けた。
「それと楽器は何かできる? もしくは歌が得意だったりする?」
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それから広場のような場所で皆の前で挨拶をした。といっても何を話していいのか、まるで分らなかった。挙動不審になっている僕をそれでも彼らは優しく受け入れてくれた。
彼らは人種、国籍、老若男女様々な人たちだった。服装もまるで神話に出てきそうな白い布だけをまとった人もいるかと思えば、アレクサンドラはワイシャツにロングスカートに分厚いロングコートと言った近代的な出で立ちをしている。住んでいた地域や時代さえ超えて色々な人の魂が集められているとのことだった。
言葉の違いは先ほどの自分のようにウトナに処置をしてもらっているそうだ。彼ら曰く、ウトナは最初期の言語を知っているから、それを教えることもできるのだそうだ。……それでも原理はよく判らないけれど。
もっと言えば信じていた宗教さえ違うとのことだったが皆、この状況を受け入れて仲良く暮らしているようだった。皆、とてもいい人たちだった。
(教会のような建物の中には長椅子とピアノしかなかった。ここの神様ってどんななんだろう?)
自分はどうにも半信半疑のままだった。もしかしたらそれは、信仰心がないからなのかもしれない。ここにいる人たちはともかく、リーダー格のようなウトナさんとアンナさんは、少なくとも僕を歓迎していない。それはそこに原因があるのかもしれない。
でもあの二人以外は皆、優しい人たちばかりだ。現実よりも……。当たり前に僕と話してくれて、当たり前に微笑んでくれる。……でもここには猫も現実でかかわっていた人たちは……いない。逆に言えばそれだけが未練か。
……それだけ、か。たった、それだけならこれで良かったんだろう、きっと。
だよな?
そう思っているのに、どうして僕は今日も遺跡の斜面の階段あたりでぼうっとしているんだろう。現世で海を見ていた時と変わらない。結局みんなの輪には入れていなかった。いや、入ろうと思えば入ることはできる。彼らは拒絶したりしない。ただ、勝手に僕が彼らの輪に入るべきではないと思っているだけだ。根拠はない。でも迷惑になるんじゃないかという予感がある。
(……退屈だ)
ここに来てからしばらく経った。誰も使っていなかった家を与えられた。天井はなくなっていて、扉もないけれど、暮らすには十分すぎる。ここの人たちが悪さをするとはとても思えないし。
生理現象は止まっていた。食べなくても平気。体もかゆくならない。眠らなくても多分大丈夫なのだけど、なんとなく何も考えず目をつむり時間をつぶした。生きていたころはいつも休みたいと思っていたのに。いざ何もしなくていいとなると、これはこれでとても辛かった。
腕時計も止まったまま。
……これでいいのか?
階段に腰かけ、遺跡の外を見ていた。相変わらず左目は見えないままだった。平面的な世界。
左目には外傷がない。なのに見えない。形だけ取り繕っているような。あの時、撃たれたのが死因? なのか……。よく判らない。
時折、巨大な白蛇の姿が目に入った。彼はここを守っているのだろうか。いつも遺跡の周りを見張っているようだった。
「よお、暇そうだな。ナカト」
声がして振り向く。そこにはダニエルという白い服を着た中東風の男性が立っていた。
日に焼けた肌、癖のある黒髪が額にかかっている。まなざしは強く、目が合うと見透かされそうで少し苦手だった。彼は遺達観していてどこか物事に覚めているように思えた。冷笑的ですらあるように感じることさえあった。遺跡には絵に描いたような善人が多いのだが(僕にとってそれはとても喜ばしいことなのだけれど)彼は少しだけ違うように見える。でもぶっきらぼうな所があるが、面倒見の良さが隠しきれていない。
いや、面倒見がいいと思われるのが嫌で、わざとぶっきらぼうに振舞っているのかもしれない。
「こんにちは、ダニエルさん」
彼はうんざりだという目をして
「ダニエルでいいと言っているだろう」と呆れたように言った。
(……さん付けは止めるか)
「……まあいい。それよりちょっと来い、仕事をやる。働け、そっちの方がお前もいいだろう。体ももう慣れただろうしな」
【続きます】