③ 捕縛の紐
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「お前の名前はリベだ」
⦅なんだなんだ、小僧の名前を考えていたのか。結局、好きも嫌いも執着には変わりがないか⦆
「……リベってなんです?」
「お前の目は嫉妬が渦巻いて見えた。そこでレヴィヤタンから取ろうと思ったんだ。でも折角だから俺の名前の要素も入れてやろうと思ってな、それでリベだ。気に入ってくれたか」
ひどく爽やかな笑顔だった。得意げに説明をしてくれる。
……何を言って……。
「……俺はナカトですよ」立ち上がって走り出す。逃げ出す。なんでこんな話になる?
「リーベ、お前を連れて行ってやる。一緒に来い。お前の存在自体が人間の悪性の証明だ。人間は自分の子供さえ愛せない、悲しすぎる……そんなの。だから、一緒に知らしめるんだ。人間のどうしようもなさを」
「それで一体……何になるって言うんです」
つかず離れず、一定の距離を維持して追ってきているのが判った。
「俺はべリアル。悪、無価値、きっとそれは人間の悪性と価値のなさを世界に示せってことなんだ。親が子供に無価値なんて名前、ただ付けるわけがないんだ。判るか、リーベ」
⦅リーベ、リーベか、ハ……⦆
……さっきからなんなんだよ。人の名前を勝手に……名前なんて一つで十分だ。
「お前の魂だけを切り出して、別の器に入れよう。難しいかもしれないがアズリエルにもできたんだ。俺にもやってやれないことはないさ。お前の今の体は人間の物だからな、おまけにアダムを思い出すんじゃあ……」
「あなたには着いていけませんよ。俺は帰るんだから」
⦅……さて小僧、上出来だ。そろそろ始まるぞ⦆
男は話すことに夢中になっていたが、遺跡からの輝きがそれを止めさせた。
「……アズリエルのデッドコピー、いやパチモンか……」
遺跡の上部、教会の直上、翼を丸めた真っ白なさなぎのような存在が、見えない紐に引かれるように深海の空に昇ってゆく。
あれが? まるで天使のようだ。でも翼の一対だけが上手く丸まっていない。少し他の羽と形が違うような……放熱板? そんな……天使に放熱板なんて……あるわけがない。
『小僧、ご苦労だった。これで詰みだ。いや、良いチームワークであった』
オーディン神に体を代わられる。もういいのか? ……疲れた。
『お前は偽物というがな、あれは中々のものだ。一つの用途にしか使えぬが、そこに関しては戦乙女よりも先鋭化されておる。肉体と魂を分けるだけではなく、さらに魂を細分化し焼くことまで可能になっておる。つまりベリアル、今のお前でも危ういということだ』
まるでなにか新製品を説明するようだった。……天使じゃないのか。
「ま、確かにな。癪だが逃げるさ。おっと勘違いするな。最初からそういう作戦なんだ」
⦅……やはり、戦乙女を引き出すことも予定の内か。だがもうどうにもならぬ⦆
『そうはいかん、その首だけ置いていってもらう。ウトナピシュティムとの約束もあるからな』
「ハ、逃げ回っていた奴が何を……今更。こっちも帰る前に、リーベの魂だけはもらっていく」
そう言うと彼はそばに落ちていた潜水艦の破片を拾った。握った彼の掌から血が垂れたが、すぐに止まる。
『その手、痛いか? そんなことはないのだろう。感覚を強固に繋げているわけではなさそうだな。いや……しかし泥のようだとは言っていたか。まあいい。もう終わりだ』
断言するように言った。わざと油断して見せた……逆に誘っている? もはや男から目を離して遺跡に浮かぶ翼の存在を眺めていた。
遺跡の上部ではアズリエルとも戦乙女とも呼ばれた存在が上昇を止め、体を守るように覆っていた翼を大きく広げた。露になった体は神経質なほどに白い布で巻かれていた。包帯のように。
気が付いたときには男が間近に居た。首元に破片が刺さるかというところで、なぜか動きが止まっている。また、動きは見えていなかった。男は顔に困惑を浮かべた。
「何だ?」
オーディン神は拍手をして彼を称賛した。
『いや流石だ、ベリアル。惜しいな……貴様なら至上のエインヘリアルになるであろうに。グレイプニルの長さを調節して、罠を張っておいたのだ。蜘蛛の巣のようにな。もっと余裕をもった所で止まるようにしておいたのだがな。いや、想像以上の力だった』
そう言って首元をさする。動けなくなった彼を横目に悠々と歩き潜水艦のタラップを掴んで艦橋に登り、胡坐をかいて座った。
『痛覚を鈍くしていたのが仇となったな。今、もうグルグル巻きになっておるのだが気づいているか。感じられているか? 小僧との話す貴様は実に楽しそうだったな。なかなか微笑ましかった』
「……グレイプニル? ジジイ、解け!おい、リーベ!」
『貴様の力でもほどけぬであろう。それはグレイプニルだからな。力でどうこうできる代物ではない。フェンリルすら縛り付けて置いたものだ。小僧、この紐が何でできているか判るか』
(……判りません)
『猫の足音、魚の魂……他にもあるが、要するにどうにもならんものを縒り合わせて作られている。だから……どうにもできん。抜け出せんよ。魂もな』
遺跡の天使がぎこちなく、両腕を高く掲げる。両腕の先と翼の先から世界に根を張るように、枝が伸びていくように、輝きが伸びてゆく。
「クソがッ」
遺跡の存在を一瞥して、彼の背中から黒いものが噴出して広がった。向こうとは対照的な1対の漆黒の翼が形成される。ゆうに人間の体を覆い隠すほどに大きい。一度の羽ばたきで大きく空へと登っていく。羽ばたきで吹き飛ばされそうになるが艦橋にも紐を巻いていたのか、突風を耐えることができた。
『よい。強く、また美しい。大烏の翼をもつ慈悲深き至高の天使よ。哀れな儂らを救い上げてくれるのか……』
両腕を掲げて美しさを讃え、紐で縛られながらも羽ばたく彼を見つめ、吟じる。
もう一度大きく羽ばたく、さらに昇っていこうとして、ある点でピタリと止まった。彼の動きに合わせて潜水艦が引きずられていくのが判った。2隻の潜水艦にも紐を這わせておいたのだろう。その重さが彼の飛行を阻害する。
だがそれでもまだ彼の方が強い。昇るのを止め、水平方向へと向きを変えここから逃れようとする。
2隻の潜水艦が互いに紐に引き寄せられぶつかり、衝撃が体に伝わる。艦橋のタラップに捕まりながらぶらぶらと揺れる。黒い翼の天使を見上げる。
『重いかベリアル? お前の殺した人々が、お前を引き留めておるのだ。優しいお前のことだ、放ってはおけんだろう。一緒に行ってやってくれ。導いてやれ』
遺跡の存在が伸ばした光の枝から、実がなるように無数の顔が現れるが、その顔には二つの目しかなかい。その目がカメラのレンズのようにピントを合わせていく。何かを補足するように、探し、見つけ焦点が合うと、瞼を閉じた。ただそれだけのことでバタバタと、遺跡へと向かっていた人たちが次々倒れていく。
(……見てはいけないのか。あの時の水牛のように目になにか力があるのか)
『貴様の言うように確かにあれは模倣されたもの。が、その機能は十全にある』
「さっきからうるせえ!」
と彼は空中からこちらを一瞥した。黒い瞳が輝く。
オーディン神がそれに気づき潜水艦から飛び降りる。僅かに遅れて、座っていた箇所が爆発した。艦橋が吹き飛ぶ。潜水艦が揺れた。
衝撃を殺すように砂浜に転がり、いつの間に拾っていたのか左手には一角獣の角を握っていた。
『痛覚の曖昧なその体、けれどこの角で刺された傷は痛そうだったな。……いささか心許ないが、足止めには十分だろう』
左手に力を込めて、ただ下から上に放り投げた。
一角獣の角は真っすぐに、大きく広げた黒翼へと吸い込まれるように昇って行った。そして翼に穴が開いた。
彼は空中でバランスを崩し、真逆さまに墜落していく。落下の最中、こちらを向いたその顔は微笑んでいるように見えた。
「リベ……またな」
断末魔とは思えない、あまりにも爽やかな物言いだった。
同時に、ヂヂヂヂ、と何かが焼き切れる音がした。遺跡の天使の伸ばした顔の一つが、彼を捕らえた目を閉じたのだろう。
彼の体は炎に包まれて墜ちていった。紐に持ち上げられ、浮いていた潜水艦もまた砂浜に落下していった。
【続きます】




