⑦ 左目による乱闘
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夕飯の前に掃除をした。風呂、トイレ、玄関、自分の部屋。洗濯は……多分やらない方がいい気がする。まあ、人様の家のことあまり手を出すべきじゃないか。人様か……。
またみんなで夕飯を取る。体調が悪いから自分の分をみんなで食べてもらうように言った。するとカナがガツガツと食べてしまって、笑った。
夕食の後、皆が寝てしまうまでしばらく時間があった。こっそり靴を部屋に持ってきておく。荷物はない。みんなが寝たらすぐに出よう。そう思って畳の上で休んでいると、カナから自分の顔の絵を描いてくれないかと頼まれた。
昨日なんでも頼みを聞くと言ってしまったしな。
絵には自信がなかったけれど、とりあえず見たまま書いて、難しいところは漫画っぽく描いて誤魔化した。いい出来とは言えなかったけれど、喜んでくれたようで僕も嬉しかった。
彼女は腕時計を返すと言ったけれど、僕はその時計は防水性能がしっかりしている頑丈なモデルだから、川とか海、キャンプする時なんかに使うといいと言って受け取らなかった。自分でもあまり理由になっていないとは思った。
部屋へ戻るとき、鉛筆とノートを1枚借りた。
『お世話になりました。ご飯美味しかったです。
皆さんお元気で。親切にしてくださり、ありがとうございました。
嬉しかったです。
榛原支斗』
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そして――僕はまた逃げ出した。
「ハッ、ハッ……」
久しぶりにちゃんと呼吸している気がする。
(大した距離じゃない。門まで一気に駆け抜けられる。その後は、判らないけれど……)
もう少しで鳥居のような門にたどり着こうというところで、左目が人影を認識した。
(街の人、二人、いやもっとか……)
構わず走り抜けようとして、転ばされた。誰かが棒を持っていたらしい。脛に打撲、一回転して背中を打った。
せき込みながら、立ち上がろうとする。
大丈夫だ。早く立て、このくらいなら大したことない。全然走れる。
立とうとしたところに、ブン、と風を切る音がして腹に衝撃が加わった。膝が折れる。
吐きそうになるのを堪える。折角作ってくれたんだから。
【代われ】
そう命じられて、体から意識遠のく。自分が右目だけの存在になってしまったように、なにもできない。なのに勝手に体が動いている。
(なんだ、これ……)
さっきまで僕を取り押さえようとしていた人たちの肌に鱗が見えている。
『小僧を化かしておったのか……夢を見せてやっておったのか』
老人のようなしわがれた声が僕の喉から発せられた。腹をさすりながらゆっくりと立ち上がる。
街の人はしばらく様子を見ていたようだったが、また棒を打ち込んできた。
僕の体は最小限の動き、手の甲で棒の軌道を逸らし、棒が止まったところで手首を返しつかんだ。一拍おいて、こちら側へぐいと引き寄せた。流れるように相手の両手首をつかみ、体をさばき、転ばせ、手首を決める。奇麗な無刀取りかと思ったが、最後に倒れた相手の脇腹を爪先で蹴って、棒を奪った。
僕の体がやっていることだが、まるで実感がわかない。右目で見ているだけだ。
『……刃もついておらん。小僧を殺す気はないと……まだやらせることがあるということか』
右手の指だけで器用に棒を回し続けている。
『よくしてもらった様だが……しかし、あの遺跡には少々の恩はある。仕方がない。今回はこれで手打ちとするか』
回転させていた棒を親指ではじいて、門を通過させた。それに続くように泰然と歩き出す。
それを見て魚人たちが殺到した。それを望んでいたかのように、口が笑った。左目が熱い。
『そうかそうか、貴様らも遊び足りぬか。……ならばやむを得ぬな』
向かってくる街の人たちをいなし、転ばせ、囲まれぬように立ち回り、一人一人殴り、蹴り、投げ、巴投げしてみたり、関節技や締め落としもやりたそうにしていたがさすがにそこまで一人に時間をかけていればタコ殴りにされるのと思ったのか、決め切る前に相手を離していた。
とにかくやれることを全て試してみたいようだった。殴る蹴るにしても、ボクシングのようにフットワークを取ったかと思うと空手のようにどっしり構えたりもする。大人と子供たち、まるで相手になっていなかった。鱗の肌を殴ったり、握ったりするたび、手が切れて血がにじんだ。
けれど彼らの致命傷になるようなことを意識的に避けているようだったので少しだけ、安心していた。……お世話になったから。今はこんなだけど。
(……そろそろ止めてもらえませんか。もう、逃げることはできるはずです。これ以上は……やめましょう)
念じてみたが、伝わっているのかいないのか、返事はない。
『ハハハ、フ……。よい運動であった。ではまたな』
うずくまる人々を見下ろし、肩をもみながらそんなこと言った。門をくぐり外に出る。
(……以前よりはっきりと世界が見えている)
『ん、おや……なんだあれは。飼っているのか?』
(なんだウミユリ? 違う、蛇……か?)
いつの間にか正面には、胴が一つなのに、首が10ほどもある蛇が存在していた。口を開いてこちらを威嚇している。首の動きが早く、数も数えられない。その後ろには街の人たち。
膨らんだ胴から枝分かれし、人の頭をちょうど丸のみにできるくらいの口の大きさの蛇が生えている。絶えず回転し、口を開けて威嚇し、鎌首をもたげ、それぞれが独立して動いている。
……間合いがよく判らない。今にも貪り食われてしまうような気がした。
(ダニエルから聞いたことがある。……確かヒドラ)
『ほお、ヒドラか。だがアナンタ、オロチの類やも……いや、アナンタにしては首が少ない。そもそも小さすぎるか。オロチならば……酒だな。酒……』
(飲みたいんだろうか。でも18になったばかりだし……、いやそんなこと考えている場合か。あれ? 考えが通じているのか)
『ヒドラであれば毒に留意せねばならぬが、この体は仮死と大差ない。呼吸は暫く止めても問題なさそうだな。噛まれればまずいか、さて……』
周囲を見回す。
『……刃のついたものはないか。素手で絞めるのは、流石にこの体では無理だな。危険もある。……だが小僧を生け捕りにする気ならば毒は使ってこないか。いや、判らぬな……』
暫く考えていたようだったが、面倒になったようだ。
『面倒だな……丸焼きにしてしまうか』
左目に『く』のような文字が浮かんで見えた。ウトナに見せられた数多くの言語の中で観た覚えがある。これはルーン文字……。
『カノ』
何でもないことを呟くように放たれたその言葉は、けれど確かに世界に作用した。まるで世界にそうするよう命令したようでもあった。
ヒドラの全身が一瞬で炎に包まれる。けれど……焼けたままこちらに、尋常ではない速さで蛇行して向かって来る。俄かに目前に迫る存在に、けれど自分の体は物怖じせず、次の言葉を唱えた。
『ニィド』
ニィドという単語に反応して、火勢が強まる。炎の玉の中からは肉の焦げる音、黒い煙が立ち昇る。火に近いせいで、頬が熱かった。
(カノ……意味は松明、ニィドは欠乏)頭に自然と意味が浮かぶ。
ゆらゆらと揺らめく焔の塊を前に、自分の体は顎を撫でて笑った。
『だが、オロチの方がよかったな……尾には名剣が収まっていると聞くからな。丸腰では心もとない。ここの連中にヒドラとくれば、次はおそらく……』
言いかけたところで体が急に平衡感覚を失って倒れる。急に暗くなり、ヒドラの周囲を覆っていた炎が消えたのだと判る。振るい落とすように、首を振り回す音が聞こえた。
パキパキと、音がして火傷した部位が剥がれ落ちていくのが見えた。
ドスン、とうつぶせに倒れた背中に打撃を受けた。ヒドラの首だろうか。それとも街の人たちだろうか。先ほど僕の体にやられた仕返しをしようと思ったのだろう、皆が集まって袋叩きにされた。
左目が見えなくなっている。体に力が入らないが、なんとか亀のようにうずくまり、体を守ろうとする。
右目だけの視界に誰かの背中が映った。多分、同い年くらいの女性。
(あ……あれ、ちょっと何してるんだよ……)
誰かがこの暴力を止めようと、皆に何か言ってくれている。その優しい人を押しのけてこちらに来た男に腹を蹴り飛ばされ、嘔吐してしまった。
(ふざけんなよ。くそっ、吐いちまったじゃねえか。折角、カナと母さんが作ってくれたのに……)
……頭に来てうずくまったまま、右目だけで睨みつけた。
その人を止めようと誰かが再び、間に入ってくれた。
いいって。危ないって……君……僕平気だから。
(そんなことしなくていい。僕は、全然大丈夫だから)
僕たち、兄妹じゃないでしょ。
だからもう演技しなくていいよ。
……こういうの普通じゃないよ。
普通って兄が妹を守るものだ。
だから、いいって……もう。
誰かの、鱗のある左手首にはターコイズブルーの腕時計が見えた。
IIII,人魚 / Can I dream ? Leave it to your creation. 【終わり】




