② 神隠しの噂
AM08:30
歯を磨いてTシャツの上に半袖のシャツを羽織る。ズボンは高校の時の黒いスラックスをそのまま使っていた。
昼は定食屋でバイト、午後からは潜水艇博物館の売店でバイト。潜水艇の博物館には、海底研究所が併設されている。
『榛原支斗 NAKATO HARUHARA』と書かれたバイト先(博物館の方)のIDカードをポケットに入れ、そこで買わされた人魚のイラストの入った水色の腕時計(人魚はその博物館のキャラクターで、時計会社とのコラボグッズだった)を巻いて身支度を済ませる。この2つは午前中は特に必要ないんだけど、忘れるのが怖いので朝まとめて準備することにしていた。
天気予報は1日晴れだったので、外に洗濯物を干す。母さんの写真に手を合わせて出かける。鍵をかけ自転車でバイト先へと向かう。
定食屋は近所にある。小さい店で時給は……ほとんど最低賃金だけれど、仕事はそこまで忙しくはない。親父さんと奥さん、それに自分だけでやっているからそれなりに頼られてはいる。……安い労働力として、かもしれないけど。11時の開店まで店の掃除、作っておける物を盛りつけたり、キャベツを千切りしたり、それが終わったらお客さんが来るまで店のテレビを見て時間をつぶす。
不審死、不況、紛争、領海侵犯、殺人、差別、事故、疫病、児童虐待、ニュースはいつもと変わらない内容を安定して提供していて、自分にはどうにもできない虚しさを感じる。勝手に虚しくなるくらいなら見なければいいと思うのに、つい見てしまう。なんでだろう。
毎日、何かがあって沢山の人が亡くなっていく。
テレビ画面が死者を悼む人々の様子に切り替わる。
(自分が死んだ時、誰か悲しむ人がいるだろうか。死を惜しまれる人々……その代わりに自分が死ねばよかったのではないか。馬鹿か……できるわけないだろ。代わりになるわけが……)
「……何考えてんだ」呟いて息を吐き、気持ちを切り替える。
(今度から物理の参考書持ってこようかな。店だと汚れるから、図書館で借りるんじゃなくて自分で買わないとな……)
AM11:30
「いらっしゃいませ」
ポツポツとお客さんが入ってくるようになる。近所の常連のおじさん、汗だくになった近くの会社の人、観光客のカップル、それから海底研究所の研究者っぽい外国人、その人に付き添うように軍人のような体格のいい人。
愛想笑いを作って注文を取りオヤジさんに伝える。外国人の人は日本語が判らないようで、身振り手振りと英単語を使って注文を取った。できた料理を運ぶ。開いた席のおぼんを下げて、テーブルを拭く。時間が空いたら皿を洗う。レジを打つ。その繰り返し。最近外国人のお客さんが増えてきて、ちょっとだけ忙しくなってきた。
なんでも近くの海底研究所が去年アメリカの会社に買収されて、それでアメリカから人が働きに来るようになったらしい。まあ……忙しくなってもやることは変わらない。毎日繰り返し。働き出した頃はレシピを盗んでやろうなんて気概もあったけれど、どうも自分には料理をさせてもらえそうにないことが判ると、ただ毎日、こなすだけになってしまった。いつも壁にかかった時計の針ばかりを気にしている。よくないことだけど。
PM02:00
昼の営業時間が終わって、有り合わせのまかないを食べさせてもらう。この食器の皿洗いが済んだら、今日は終わりだ。皿の水気を布巾で拭いて棚にしまう。帰ろう、と思ったときオヤジさんに声をかけられた。
「……ようお前、神隠しの話って知ってるか?」
オヤジさんは新聞を読みながら、こちらも見ずに言った。
「……神隠し? 不審死とは違うんですか?」エプロンをたたみながら聞く。
「ちげえよ。海から化け物が来て人をさらっていっちまうんだと。こないだ娘に電話したらよ。そんなこと言いやがんだ。都市伝説っつうのか?」
娘さんは去年就職で本土へ行ってしまって、その代わりに僕が雇ってもらえた。
「噂って……実際、誰か居なくなったんですか?」
「知らねえよ。まあ、とにかく気をつけろってこった。お前がいないと店が回らなくなっちまうからよ。……神隠しされる前に次のやつ見つけておいてくれよ」
親父さんはそう言って笑った。どこまで本気なのかは判らないけど。……まあ、あんまりいい気持ちはしないかな。
「まあ……はい」
帰ろうとした背中にまた声がかかる。振り返るとオヤジさんが親指でテーブルの上を指していた。ビニール袋に入った透明の食品パック。
****
PM03:00
中身は古くなったアジフライだった。1度家に戻ることにした。アジフライを冷蔵庫に入れる。次のバイトが午後5時から9時までだから、夕飯のおかずを作っておこうと思っていたのだがこれだけアジフライがもらえたのだから、今日は作らなくていいだろう。兄弟たちは勝手に食べるだろう。
干していた洗濯物を取り込む。
それからまた自転車に乗って、海岸の海底研究所に併設された博物館へと向かう。
(海から化け物がやって来るっていうなら、もしかしたら研究所の人たちが何か知っているかもしれないか? ……いやいや)
少し早く着いたので自転車を駐輪場にとめて、施設の裏にある船着き場のあたりを散歩する。
風の強い防波堤に座って海の波が揺れるのを眺めていると、小さく足音と鳴き声がした。振り向くと、茶色いトラ猫がこちらに向かって走ってきていた。この島では地域で猫を飼っていた。もちろん、個人で飼っている人もいるけれど。
猫は隣に来ると香箱を作ってこちらの様子を窺っていた。……多分、膝に乗りたいのだろう。頭を何度か撫でて、毛並みを整えてあげると
「にゃあ」
と鳴いてから胡坐をかいた膝の上に飛び乗り、もぞもぞと収まりのいい体勢をさがして、暫くしてから寝息を立て始めた。ゴロゴロと喉を鳴らして胸を上下させている猫を起こさないように静かになでる。
フウ、と深呼吸する。こうしているときが一番いい。目の前には海があって、膝には猫がいる。波のはじける音、生ぬるい風、強い日差し。
でも……流石に暑い。トラが可哀想だ、僕はいいとして。
腕時計で時間を確認する。もう少ししたら行こう。
「よーお、ナカト。若いからってそんな所にずっといたら駄目だぞ。熱中症になるし、年取ったらシミもいっぱいできるぞ」
アクセントのついた日本語。声に疲れが出ていた。振り向くとアダムスさんが立っていた。膝の上の猫が急に起きて、アダムスさんの足元へと向かっていった。
まあ、ちょうどよかったと、しびれかけていた足を延ばして立ち上がる。
「トラは君の膝が好きだからな。……猫が熱中症になったら可哀想だろう?」
「気をつけます」
僕らは木陰へと歩きだす。足元には猫も一緒に。
アダムスさんは本名をヨハン・アダムスという。金髪を横に広いおでこに左右に分けている。ガッチリとした体格で身長は僕よりも少し大きい。国籍はアメリカ人だけれど日本人の祖母がいるそうで日本語が上手かった。去年、海底研究所がアメリカの企業に買収されてからこちらに送り込まれた人員で、研究チームのリーダーをしていると自慢げに語っていた。
詳しく知っているけれど、別に彼に根掘り葉掘り聞いたというよりは勝手に話してくれたという方が正しい。僕は昔から海辺で猫と遊ぶのが好きだった。その猫にアダムスさんは引き寄せられてきて、僕らは知り合った。
要するに彼は猫好きで、話すのが好きで面倒見のいい人なのだと思う。だから僕のような人間とも仲良くしてくれているのだろう。高校の勉強もたまに教えてもらっていた。最近は研究が忙しいようで会うことは少なくなったけれど。
海を眺めていてふと、定食屋で話していたことを思い出す。
「あの、アダムスさん。神隠しの噂って知ってますか?」
一瞬の間。彼は、クマのできた目を隠すように手で覆った。
「ん……ああ、あれだろ。河童っていう日本のモンスターが現れて。さらって行くっていう……」
河童? 河童のことなのかな。ん……河童って海にいるのか? いやそもそも……。
「まあ、海辺は危ないよ。君はいつも海辺にいるからな。落ちないかヒヤヒヤしてるんだ。猫たちは君の所に行きたがるしね、落っこちないかって。それに君、島育ちなのにあまり泳げないんだろ」
「……いえ、得意ではないですけど、人並みには泳げますよ。溺れた猫を助けられるくらいにはなるよう練習しましたから。アダムスさんこそ……泳げないってませんでしたっけ」
少し、言い方が生意気だったかなと反省する。彼は気にせず二カっと笑って、左腕にまいたダイバーズウォッチをこちらに向けた。シルバーで文字盤の青い腕時計、回転するベゼルの4分の1だけが赤い。
「違う違う、泳ぐ暇がないって言ってたんだよ。僕がどこで働いてると思ってるんだ? 海底研究所だぞ。そんなところで働いてる奴が泳げないわけがないだろう。そんな奴がいたとしたらモグリだね」
「……もぐり……?」僕が呟くと彼は話題を変えた。
「あー、あのさ。ところで君って明日はここのバイトはないよな?」
前も聞かれたな。明日7月20日は休みにしていた。定食屋も博物館の売店も。……何かあるのかな。
「ええ、明日は休みにしてます。……何かあるんですか?」
「あー、いや、そう、ちょっと実験があってさ。まあ責任者を任されてて、もちろん責任持ってやってるわけなんだが、もしも仮に漫画みたいに実験が失敗して爆発とかして……それに君を巻き込んでしまったらちょっとよくないなと思ってさ」
「な……なんです、それ?」
それに爆発が起こるというなら、僕だけ逃がしても……。
アダムスさんはばつが悪そうに腕時計のベゼルを触ってもごもごとごまかしていた。
「冗談ですよね。海底の研究してるんですよね? 爆発ってそんな……研究所で……」
「冗談に決まってんだろ! とにかく明日君はいないんだよな。そこだけ確認したかったんだ」
子供がすねたような言い方をして腕時計で大げさに時間を確認して立ち止まった。
「じゃあ、休憩時間終わりだから。またな、ナカト」
「ええ、また。アダムスさん」僕はすねに頭を擦り付けている猫を撫でながら挨拶をした。
「……そうだ。君のレポート、次会う時までには読んでおくから。講評はそのときだな」
アダムスさんが手を振ったので、僕も手を振り返して別れた。
【続きます】