5・人は火を炊く生き物なので
喉の渇きを潤して。
眠って、起きて、雨の音はしなかったけれど、辺りは未だに真っ暗だ。
時間はきっと、朝方近く。
日が昇る少し前といったところか。
「んぁ?」
寝起きで回らない頭。
煙草が吸いたいという小さな欲求。
喉の渇きは、唾液を飲み込むことで無理矢理誤魔化した。
「あれ……」
窓の外に視線を向ければ、少し遠くに炎特有のオレンジ色の明かりが見えた。
身体にシーツを巻き付けたまま、私は夜明けの道路を歩く。
視線を僅かに上に向ければ、暗がりの中にオレンジ色の小さな光が見えている。どうやら、十階建てぐらいの大きなビルの上層階で、誰かが火を炊いているようだ。
知恵の無い獣が火を炊くことはない。
暗くて寒い夜に、炎で明かりと暖を取ろうと考えるのは、知恵のある生き物特有の行為だ。問題は、火を炊いている何処かの誰かが、私に友好的な存在か否か、という点か。
勢いのまま、部屋を飛び出してしまったが、さて……私はこれからどう行動するのが正解だろうか。
どう、と言っても極端な話、選択肢は二つしかない。
行くか、行かないか。
ただ、それだけだ。
「…………」
火の炊かれているビルの真下へ辿り着いた。
脚を止め、ビルを見上げる。
暗い夜に、ほんの少しだけオレンジ色の光が揺れた。
迷ったのは、一瞬だけ。
右も左も、自分の名前も分からない私が情報を得るためには、誰かに頼るほかに手はない。そのためになら、多少のリスクも許容すべきだ。
何も知らない、ということは“何も出来ない”ということだ。
限られたリソースを有効に利用し、益を得るためには“知っている”ことが大切だ。
例えば、私の場合で言うとリソースとはつまり、私の体力ということになる。
そして、得るべき“益”とはつまり、衣食住のどれか、またはそれら全てだ。
幸いといっていいのかどうかは不明だが、この街には人の住んでいない家屋が山ほど存在している。
衣食住のうち、住はどうにでもなるだろう。
そして、残る二つから優先順位を付けるとするなら、まずは食だと私は考えている。直接的に食えるものを、或いは、食料を継続して得る手段を模索する必要があるのだ。
その点でいうと、これから出逢うであろう誰かは、ともするとそれを持っている人物かもしれない。
ともすると、私と同じようについ最近になって目を覚ましたという可能性が無いでもないが、その時はその時。協力して、生き延びる術を探すという手も取れるかもしれない。
けれど、もしも……。
もしも、これから逢う人物が、トトと同じような“人の形をした人でない何か”だったとしたら、その時私は、素直に協力関係を築くことが出来るだろうか。
少なくとも一度、私はトトに恐怖し、追い払ったという前例がある。
思い出すたびに。情けなくて泣きそうになるが……否、今優先すべきは、私の抱える後悔についてではなく、これから逢う誰かについてだ。
今度こそうまくやる。
次にトトに逢ったら、その時はちゃんと謝る。
今のところは、それでいい。
火を炊いていたのは、どうやら小柄な少女のようだ。
アンダーリムの赤い眼鏡に、色素の薄い茶色いショートカット。派手な色のパーカーを纏い、ショートパンツに包まれた細い脚には、不似合いなコンバットブーツを履いている。
年齢は、たぶんだけれど私とそう変わらない。
私は私の年齢を知らないけれど、二十歳前後だろうと予想している。
少女は焚火に枝をくべ、鉄櫛に刺した何かを焼いて喰っていた。
くるる、と私の腹が鳴る。
その音を聞きつけたのか、少女は素早く私の方へと視線を向けた。狐のように細い瞳に見据えられた私は、さて、これからどうするべきだろう?
パーカーの懐に手を突っ込んだ姿勢のまま、少女はじっと私の出方を窺っている。
そして私も、少女の動向を窺っている。
沈黙。
薪の焼ける音だけが、やけに大きく聞こえている。
「あー……」
言葉を発しようとした、その瞬間だ。
くるる、と。
再び、私の腹が悲鳴をあげた。
「何? お腹減ってんっすか?」
警戒は微塵も緩めぬまま、少女は自棄にザラっとした声でそう言った。
ハスキーボイスというには、些か濁り過ぎている。
喉が悪いのか、まるで錆び付いた声帯を無理やり震わせて話しているような印象を受けた。こほん、と小さく咳払いをして少女は自分の喉に手をやる。
その間も、狐のような細い瞳は私を捉えて離さない。
「あー、アレだ。まぁ、お腹、減ってるんだけど……」
「そっすか。何の備えもないまま、廃墟に来たんですか? ちょっとお姉さん、不用心過ぎない? ってか、そんな様でどうやってここまで……」
「んん? 来たっていうか、目覚めたっていうか……」
「あぁ、先客っすか。ここを拠点にしてたんすかね?」
「いや、拠点とかは無いけど、先客ったら先客なのかもね」
「はぁ?」
「えぇ?」
何か知っているらしい眼鏡の少女と、何も知らない半裸の私の微妙に噛み合わないやり取り。
再び落ちた沈黙を、打ち破ったのはまたしても私の腹が鳴る音であった。