3・心の無い人と、心優しい人で無し
きっと、私は長い間、仮死状態にあったのだろう。
同じように、トトもきっと棺桶の中で長い間眠りに付いていたはずだ。私が地下から上がって来た時、教会の床にはびっしりと厚く埃が積もっていた。
埃には一つの足跡さえも残っていなかった。
というか、そもそも地下室の扉は外から鍵が掛かっていたのだ。
私より先に目を覚ましたことに間違いはないはずだけれど、それから今まで、トトは地下室から出ていない。地下室には食料の類も、水も無かったのだから、彼女は起きてこれまで何も口にしてはいない。
人の身体を動かすためには、相応の“エネルギー”が必要だ。
エネルギー。もっと簡単に言うのなら、カロリーということになる。
それが無ければ、人の身体は十全に動くことはない。
例えば、今の私のように歩くだけでも息切れするし、手足に力が入らなくて、立っていることもやっとな状態になるはずだ。
けれど、トトは違った。
棺桶の蓋を素手で引き剥がし、地下室の扉を殴り壊した。
階段を上って息切れを起こすこともなく、そして極めつけはその回復能力。
さっくりと切れた彼女の皮膚は、あっという間に塞がった。
血の一滴も、零れない。
目を覚ましてすぐ、私は頬に傷を負った。
今もそれは、じくりとした鈍い痛みを発している。
つまり、私は人間だ。
ならば、トトは一体何だ?
「貴女、何なの?」
「んー? わたしは、わたしだよ?」
間延びした声でそう応えるトトという存在が恐ろしい。
人でない“何か”が、人のようにしゃべって、笑う。
「……死体」
そうだ。
死体だ。
彼女に触れた時、感じた肌の冷たさは、まさしく死体のそれだった。
血の通わない人のそれだ。
人の形をしていながら、人でなくなってしまった存在。
死体。
動く死体。
ゾンビとか、アンデッドとか、そんな風に呼ばれるソレが、トトじゃないのか。
足元に落ちていたガラスを拾う。
手の平が裂け、血が溢れた。
零れた血が床に赤い染みを作った。
震える手でガラスを掲げる。
木製の扉を拳で殴り壊すほどの怪力を持つトト相手に、何とも頼りない武器だ。
無事に生きてこの場を切り抜けられたのなら、何かしら護身用の武器を手に入れる必要があるかもしれない。
教会の外がどうなっているかは不明だが、トトのような“人外”の存在が他にいないとも限らないから。
そもそも、無事にここから逃げおおせるかも分からないけれど。
「ねぇ?」
「ぃっ……」
一歩。
トトが私に近づく。
その分だけ、私はトトから遠ざかる。
喉から零れかけた悲鳴を飲み込んで、私はガラス片を突き出した。
差し伸ばされたトトの掌を、ガラス片が裂く。
やはり血が零れない。
じくり、と。
肉が蠢き、傷が塞がる。
「来ないで……」
「え?」
「来ないで。トト……棺桶から出してくれたことには礼を言うわ。でも、それ以上近づかないで」
可能性の一つとして。
突然、トトが正気を失い私を襲うこともあるかもしれない。
トトが人でないと気付いて以降、脳の内で渦巻くこの恐怖心は一体どういうことだろう。
さっきまで、あれほどに頼もしかったトトという存在が、おそろしくて仕方がないのだ。
脳が、本能が警鐘を鳴らす。
私を構成している細胞の一つひとつが、トトという生き物に恐怖している。
「ごめん……。トト。ごめんなさい。でも、無理」
「……あ」
伸ばしていた腕を下ろして。
トトは、悲しそうな顔をした。
今にも泣きだしそうな顔をして、彼女は一歩、後ろに下がった。
それから。
それからトトは、何も言わずに背を向けて。
ゆっくりと、教会から出て行った。
彼女の背中が見えなくなるまで、ガラス片を掲げたままの姿勢を維持して、私はその後ろ姿を見送った。
トトの姿が見えなくなって、一体どれだけ経っただろうか。
手から零れたガラス片が、床に落ちて砕け散った。
その場に座り込んで、自分の手の平へ視線を落とす。
血に濡れた小さな手だ。
情けないぐらいに震えている。
私は、私の意志でトトを追い払った。
「やった。生き延びた……はは」
命の恩人を追い払ってまで生き延びた。
トトは泣きそうな顔をしていた。
彼女は、私を怖がらせるのが嫌で、この場を去っていったのだ。
それは、何て……。
「何て、当たり前な人の感情」
情けない。
情けない。
情けなさ過ぎて、涙が零れる。
「……ぅ」
血に濡れた手で口元を押さえ、私は嗚咽をかみ殺す。
零れる涙が、自棄に頬の傷に染みる。
「情けなさ過ぎて、泣けてくるわ……」
ポツリと零した震えた声が、床に落ちてどこかに消えた。