2・名前は無いし、ここが何処かも分からない
竜巻に攫われ、少女と犬は見知らぬ国へと飛ばされた。
少女の名はドロシー。
犬の名はトト。
見知らぬ国から、両親の元へ帰還するため、ドロシーとトトは旅を始める。
それから……そこから先は、ページが腐っていて読むことは出来なかった。
「ねぇ、続きはぁ?」
彼女、トトはそう言った。
「さぁ? 続きは私にも分からないけど。知らないもの。もしかしたら、昔は知っていたのかもしれないけど」
残念ながら、目が覚める以前の記憶は一切残っていないので。
本の続き、腐ったページに書かれているはずの物語を紡ぐことは出来ない。
「そっかぁ。ねぇ、どうしてもお話の続きは読めない?」
「本がこの状態だもの。でもアレだ、ともすると此処から出たどこかに、それはあるかもしれないよ」
「じゃぁ、探しに行こう」
ほら、と。
そう言ってトトは、私の手を掴んだ。
冷たい手だ。
氷みたいに、冷たい手。
人の手の形をしているのに、まるで人の手じゃないみたいな、不気味な感覚。背筋が泡立ち、怖気が走る。
私は、この冷たい肌の感覚を知っている。
それが何かは分からないけど。
耐え難い悪寒と、恐怖を感じて、思わずトトの手を振り払っていた。
「うん?」
「あ、いや。何でもない。何でもないよ……うん」
少し休んだら外に出ようか、と。
誤魔化すようにそう言って、私はトトから視線を逸らした。
本の登場人物から名前を貰って、私はドロシーと名乗ることにした。
相棒である背の高い彼女はトトだ。
当面の目的として、私とトトは此処ではない何処かへ行って、十全に生活を送れる環境を手に入れることと定めることに決めた。
それから、本の続きを読むことも目的の一つ。
私とトトが居た部屋は、どうやら地下室のようである。
先んじて拾い集めたジッポと蝋燭、それから本と小型の情報端末。
それ以外には、私とトトが納まっていたらしい棺桶が二つ。
蝋燭に火を灯した後に、替えのオイルと湿気た葉巻を一本見つけた。
なんとはなしに葉巻に火を着け、煙を吸った。
乾いた喉に紫煙が染みる。
じわじわと、細胞や脳が煙に侵されていく感覚が心地よい。少しずつ、身体が毒に浸されていく。たぶん、記憶を失う前の私は喫煙者だったのだろう。
なんとなくだけど、そんな気がした。
「ねぇ、ねぇ、えっと……」
「ドロシーね、ドロシー。私はドロシー」
「あー?」
「トト、貴女……ちょっと無いぐらい物覚えが良くないね?」
「何にも覚えてないしねぇ」
「それは私もだけど」
葉巻を一本吸い終わってから、私とトトはやっと部屋を出ることにした。
分厚い木の扉は、外から鍵をかけられていたが、それはトトがパンチ一発で打ち砕いた。棺桶の蓋を引き剥がしたことからも察していたけれど、どうやら彼女は尋常でないほどに力が強いらしい。
蝋燭の明かりを頼りに通路を照らす。
私とトトが居たのは、やはり地下室のようだ。上方へ伸びる狭い階段を抜けた先、辿り着いたのは板張りの広い室内だ。壁に埋め込まれたステンドグラスの向こうには、朝焼けらしき白い光が見えている。
きらきらとした陽光に照らし出された室内には、規則正しくベンチが並べられていた。
「綺麗、だけど……きっちぃ」
一体、どれだけ私の身体は鈍っているのか。
階段を昇って来るだけで、呼吸は乱れ、筋肉は痛み、関節が悲鳴をあげている。
「教会? ってことは、アレだ。私、やっぱ死んでたんじゃん?」
生きたまま棺桶に納められていたとするなら、それはそれで大問題だが。
床板を踏むと、ぎぃと軋んだ音が鳴る。
歩くのに合わせ埃が舞った。
埃が積もる程度には、誰の出入りも無かったことが窺える。
「って、すっげぇ貧相じゃん、私の身体」
「んぇ?」
「トトが羨ましいわね、って話」
トトに適当な答えを返し、私は窓ガラスに映った自分の姿を凝視する。
長い黒髪。
凹凸の少ない貧相な身体。
背丈はそれなり。
顔立ちから察するに年齢は二十歳前後といったところだろうか?
鼻から頬にかけて散ったそばかすが目立つ。
「鼻は高いし、目元は切れ長。結構、クールな感じじゃない?」
「んー? わかんない」
「でしょうね」
同意が欲しかったわけではないので、トトの返答が適当なものでも何ら問題はない。
「まぁ、いいけど。私の顔が良かろうと悪かろうと、どうせトト以外に見る人なんていないみたいだし」
地下から出れば、誰か人がいるかもしれない。
そんな風に考えていたが、どうやらそれは希望的観測に過ぎたようだ。
人を探すか、それとも衣服や食料を探すか。
どちらにせよ、それはこの廃教会で叶うものではないだろう。
床に積もった埃や、足元に散らばる木っ端やガラスの破片から、この場所が放棄されて久しいことは理解できる。
素足のまま、進むことを躊躇う程度には足元の状態が悪すぎた。
そんな足場の悪状態を意にも介さず、トトはぽてぽてと歩み始める。
パキ、と。
彼女の足元で、踏みつけられたガラスが砕けた。
当然、それはトトの青白い足の裏を深く切り裂き……。
「ねぇ、トト。トトって、いつぐらいから起きてる?」
「さぁ?」
「でしょうね。ところで、トト。貴女、目が覚めてから、何か食べた?」
「うぅん? 何も食べてないよ。声をかけられるまで、ぼーっと、じーっとしてたもの」
「そう。それなら……ねぇ」
ガラス片によって切られたトトの足。
すっぱりと肉が裂け、その断面が覗いている。
血は……一滴さえも流れない。
じくり、と。
生き物のように肉が蠢き、あっという間に傷口が閉じた。
「貴女、自分が人間じゃないって自覚、ある?」
なんて。
ポツリと零した私の問いは、気のせいでなく震えていた。