1・空は灰色、煙草が美味い
空を覆う厚い雲。
湿った風が黴と埃と死臭を運ぶ、そんな朝。
季節は春と夏の間。
六月も半分が過ぎた。
雨上がりの濡れたアスファルトから独特の臭いが漂っている。
「ねぇぇ? ドロシー? これ、食べられると思う?」
私の前を歩く少女は、地面にしゃがんでそんなことを問いかけた。
ところは路地裏。
左右にはコンクリートで出来た灰色のビル。
人の気配は近くにない。
「緊張感のない人ね」
「んー? 緊張って何?」
なんて、言って。
道の端に積み上げられた木箱の隙間に手を突っ込んで、彼女……トトが取り出したのは、茶色いパッケージの小さな紙箱だった。
「お? アレじゃん。煙草の箱じゃん?」
「食べられる?」
「いや、無理だけど」
「じゃ、いらない」
ぽい、っとトトは煙草の箱をこっちへ放った。それを受け取り、私は手早く封を切る。
ビニールの包装を剥がし、口を開ければ漂って来る甘い香り。バニラの香りのするそれを唇に加え、ポケットから出したジッポライターで火を着ける。
すぅ、とひと口煙を吸えば、口内に広がるバニラの香りと微かな苦み。
「やっぱり食べ物?」
「いや、食べ物ではないけど」
「でも、美味しそうな顔、してたよね?」
「まぁ、美味いっちゃ美味いけど」
例えば、甘いケーキを食べたときに感じる“美味い”と、煙草の煙を肺いっぱいに吸い込んだときに感じる“美味い”は別ものだ。
前者は味覚が、後者は脳みそが“美味い”と感じるという違いがある。
あ、いや、ケーキを食べてそれを“美味い”と感じているのも、結局のところ脳みそか。
「ねぇ、一つ聞きたいんだけど、トトってば“脳みそ”も無いのに、どこでものを考えて、どこで“美味しい”って感じてるわけ?」
ジジ、と煙草の燃える音。
灰を地面に落としながら、私はトトへと問いかける。
「んえ?」
こてん、と可愛らしい仕草で首を傾げて、トト……私の相棒である死体の少女は、目を丸くした。
トト。
身長はおよそ百八十センチほど。
細い体を、ゴシック調のドレスで包んだ綺麗な死体。
薄紫色のウェーブがかった長い髪と、青白い肌が特徴的な彼女に“トト”という名前を付けたのは私だ。
彼女と私が出会ったのは、今からだいたい一週間前。
この荒廃した世界で、私が目覚めた直後のことだ。
黴の臭いと、真っ暗闇。
私の最初の記憶がそれだ。
自分がどこにいるのかも分からず、自分の名前も分からず、自分の性別も分からない。
暗闇の中でも感じる圧迫感や、背中と腕に感じる感覚から狭い箱の中にいることだけは理解できた。
たぶん、材質は木材だ。人が一人、ぴったりと収まる程度のサイズ感。
これは、まぁ……アレだ。
棺桶なのではないだろうか?
「おぉい、誰っ……えほっ、げほっ!?」
蓋がしっかり閉まっているので、私一人ではここから脱出することは出来ない。外に助けを求めるべく、叫んでみたが、瞬間私の喉が悲鳴をあげた。
「……こりゃ、アレだ。結構、長い間、眠っていたと見える」
喉は乾いているし、腕や脚には碌に力も入らない。
叫んでみたが、思ったよりも大きな声は出なかった。掠れた、肺から空気が零れるような微かな声が漏れただけ。
けれど、私の声はどうやら誰かに届いたらしい。
「んぁ? だぁれ? わたしのこと、誰か呼んだ?」
なんて。
どこか間延びのした女の声が、私の耳朶を震わせたのはそれから少し後のことだった。
バキ、と。
乾いた音が鳴って、棺桶の蓋は引き剥がされた。
拍子に跳んだ錆釘が、私の頬を掠めて小さな傷をつける。
頬を伝うぬるりとした血の感触。それを拭って、身を起こす。
「って、外も暗いのか」
圧迫感は消え去ったが、外も暗かった。
真っ暗闇だ。
夜なのか、それとも窓の無い室内……例えば、地下室のような場所にいるのか。
鼻腔を擽る黴と埃と、それから淀んだ空気の感じからして地下室だろう。
私と、それから……。
「貴女、名前は?」
真っ暗闇の中、姿も見えない女に問うた。
棺桶の蓋をあっさりと引き剥がして見せた辺り、なかなかの怪力の持ち主のようだ。なんとなく、暗闇の中に感じる気配から、それなりに背が高いのではないかと思う。
「名前ぇ? あぁー、名前?」
「そう。名前、私は……」
私は、私の名前が思い出せない。
そして、それは彼女も同じようだった。
自己紹介もままならぬまま、私と彼女は、暗い部屋で無言のままにじっとしていた。
暗い部屋を探し回って手に入れたのは、ジッポライターが一つに蝋燭が一本、それから本が一冊と、小型の情報端末が一つ。
蝋燭に火を灯してやっと、私は恩人の顔を見ることが出来た。
青白い肌に、薄紫色のウェーブがかった長い髪。黒い下着を着ただけのほっそりとした身体。にへら、っとした緩い笑みが、大人びた容姿に不似合いである。
身体は妙齢の女性のようだが、いざ会話してみると、その精神性は思ったよりも幼いらしいことが分かった。
それから、どうやら彼女もまた、私と同じで記憶を失っているらしい。