2 真琴 猫のクロと出会う
私と小谷野は現場周辺の聞き取り調査を行った。当たり前だが地道で空振りの多い捜査だ。
近所の目撃情報、店の防犯カメラを一つ一つ当たっていく。気が遠くなるような作業だが、疎かにはできないことだ。
その日もめぼしい情報は得られず、一旦、署にもどることになった
気づくと例の変死体のあった現場のそばにいる。
「おい、袋寺。どこへいくんだ?」
「ちょっと現場をもう一度見て来ます。」
「先に帰っているぞ。」
そう言い残して、小谷野は署へ足を向けた。
軽くため息をついて、西日を背中に受けながら現場に赴くと、先客がいた。
例の青年だ。
足元に黒猫がアスファルト路面を盛んに探っている。
青年はその様子を黙って眺めていた。
私はなぜかその青年に興味を抱き、そばへ近づいた。
「ここでなにをしているの?」
私の言葉に、青年は初めて私に気づいたような顔をして、振り向いた。
黒猫も私の方を見上げた。
「散歩ですよ。」
か細い声で答えた青年に表情はなかった。
私の中で疑惑が湧き上がった。
「名前を聞かせてくれる?」
その問いに青年は軽く首を傾げた。
「あなたはだれなんですか?」
「警察です。」
そう言いながら私はポケットから警察手帳を取り出し、相手に見せた。青年はちょっとびっくりしたような顔をした後、すぐに無表情にもどった。
「職務質問ってやつですか?」
「とにかく名前と住所を教えて。」
「名前は田中博。住所は…」
青年はスラスラと答えた。私はそれを手帳に書き留める。
「それでここで何をしていたの?」
「言ったでしょ。散歩だって。」
「今言った住所から?ずいぶん遠いと思うんだけど。それにここが事件現場だっていうのは知っているわよね。そんな場所に散歩?」
「事件現場だから来たんですよ。興味があって。」
「それで猫を連れてきたってわけ?」
そう言いながら私は相変わらず路面を探っている黒猫に視線を落とした。
「そうですよ。黒猫も興味があるようでしたから。」
そう答えると黒猫が一鳴きした。
私はまた黒猫に目を向けた。緑色の目が印象的な黒猫だ。この間のように妙にこの猫には惹かれる。
しばし、黒猫と私は見つめあっていた。
「刑事さん?」
田中の声に私は我に帰った。
「もう行ってもいいですか?」
「ええ、いいわ。ごめんね。引き留めて。」
「いいえ。」
軽く頭を下げるが、やはり無表情だ。
そのまま歩き始めた田中は、ついてくる黒猫を抱え上げ、無言のまま立ち去った。その腕の中で黒猫が私の方へ顔を向けた。
その目が笑ったように私には見えた。
署に戻った私を主任が出迎えた。
めずらしいと思いながら私は会議室に置いてある湯呑を取り上げ、ポットからお茶を入れた。
「ふくろこうじ、何かわかったか?」
「ぜんぜんです。明日はもう少し範囲を広げようと思っています。」
「そうか。」
気のない返事をして丸目は、机の上の写真を眺めていた。
私は何気なしに近寄り、その写真を主任の肩越しに眺めた。
「この写真は?」
「集めた防犯カメラに写っていた人間を印刷したものだ。」
納得する返事をしながら湯呑に口をつけたとき、私の目の端に気になる写真が映った。いや、正確には写真に写りこんでいる人物が気になったのだ。
あの青年が写っている。もちろん、黒猫を抱えて。
「これは…?」
それを取り上げ、じっくり見つめた。
「現場付近のコンビニの防犯カメラに写っていたものだが、どうした?」
「今日、変死体のあった現場にいました。」
「なに?」
「本人は散歩だと言ってましたが…」
「信じたのか?」
丸目が非難めいた目で私を見た。
「いえ。ただ、否定する証拠もないので住所と名前を聞いて別れましたが。」
その言葉に丸目はため息をついた。
「そうか。ま、確かにただ現場にいただけでは、引っ張ってくるわけにもいかないからな。」
「明日、また尋ねてみます。」
そう言った翌日、言葉通り私は田中の住まいを尋ねた。
市外の閑静な住宅地の一角にカフェがある。そこが目指す住所だ。
あまり目立った店構えではないが、中に入ると割とこざっぱりしており、好印象を受けた。しかし、客は誰もいない。
流行ってないのかと思っていると、田中が奥から出てきた。
「いらっしゃい。刑事さん。」
相変わらずの無表情だ。
「いいお店ね。」
「そうですか?どうぞ、お好きなところにお座りください。」
無表情のうえに、取ってつけたような返事に少しムッとしながら私は傍らの椅子に座った。
「何か飲みますか?」
「そうね。せっかく来たんだからコーヒーでももらおうかしら。」
田中は返事もせず、カウンターに入った。そのカウンターの上にはあの黒猫が佇んでいた。
緑色の目がまた私を捉える。
「その猫、名前はなんて言うの?」
「クロです。」
「クロ?ずいぶんありきたりの名前ね。」
それには答えず、田中はコーヒーを運んできた。
「それで今日はどんな要件でいらっしゃったんですか?」
コーヒーの香ばしい香りを楽しんでいた私に、田中は不愛想に尋ねてきた。私はそれを無視するようにコーヒーに口をつけた。
そんな私の様子をじっと見つめたまま、田中は傍らに立ち尽くしていた。私が答えるまでいつまでも待っているつもりのようだ。
「3日前、あなた現場にいたわね。」
唐突な問いに田中はあきらかに戸惑っていた。しかし、表情は相変わらずだ。
「3日前?なんのことです。」
「しらばっくれてもダメ。防犯カメラに写っていたのよ。あなた、3日前の夜の10時頃に事件現場にいたでしょう。」
「…」
しばしの沈黙が流れた。カウンターでは黒猫があくびをしている。
「何も答えないのね。」
「あ、すみません。ちょっと考えていたもので。」
「考えていた?言い訳でも?」
私はあきらかな疑いの目で田中を見た。しかし、それに対しても田中は無表情だ。
「3日前、確かにあの場所にいました。」
「認めるのね。それでどうして?」
「散歩です。」
その返答に私は一瞬、言葉を失った。あまりに馬鹿げた答えだからだ。
「あなたね。あの時間に、ここからかなりの距離のあるあの場所に散歩に行ったというわけ?」
「それが真実ですから、そう答えるしかありませんね。」
田中は悪びれず、淡々と答えた。
「ちょっと署まで来て、詳しく話を聞かせてもらわなければならないわね。」
私は立ち上がりながら高圧的に言った。
「いいですよ。」
田中はあっさりと承諾した。私は肩透かしを受けた感覚を覚えた。
「ただ、条件があります。」
「条件?」
「クロを連れていくということです。」
「あの猫を?」
私は黒猫に目をやった。
「預ける人がいないので連れていきたいんです。」
「…」
私が返答に困っていると、その黒猫がカウンターから飛び降り、私のそばに駆け寄り、私を見上げながら一鳴きした。
私は思わず、黒猫を抱き上げた。