551.私たちは『仲間』じゃない
上空二千メートルの高所に佇む影がふたつ。それは双方が共に来訪者であった。
翼も動かさずに宙に浮く白羽カスカ。
自身の張った糸の上に立つ砂川ハナ。
『天使』と『傀儡師』の職業を有する二人は、後続の第一陣を務めるべく闇ギルド連合と同じタイミングで転移を果たしていた。
当然、斬り込み部隊である連合が壊滅寸前である今、彼女たちもまた各々の役割に沿って動き出すときが迫ってきていたが……けれど両者の表情には作戦決行前の気負いなどなく、さりとて晴れやかさも一切なかった。
それもそのはず、第一陣に選ばれたのは二人ともに意味があってのもの。彼女たちが持つ能力に由来しての決定だ。そのことも踏まえて、ハナはまったくの無感動に呟いた。
「これはダメかも」
距離にして二キロ眼下の地上の景色を、カスカのスキル【遠見】で。そして音声をハナのスキル【糸電話】で拾うことで何が起きているかは仔細把握できている。まさに今クラスメートの階戸辺レンヤが絶体絶命の窮地にいるこの瞬間、しかしハナの気を引いたのは何よりも連合がそっくりそのまま消え去ってしまっているところにあった。
「【傀儡操作】で操る対象がなくなっちゃった。柴くんもひどいことをする……まさかわかっていてやったとか?」
尖兵として工夫もなくぶつけて消費したならず者たちを、ハナのスキルで再利用する。それは戦力の水増しでもあったし、生ける屍もかくやと動き出す四百の死体はただの増援よりも余程に敵方の士気を折る。そういうネクロマンサーが味方にいる際のような作戦が練られていたのだが、その操るべき駒が一人も残っていないのだからハナとしては困ってしまう。
『人の形をしていながら動かない物』。それを認識の定義としているために、死体という物体は言葉通りの人形と同じくらい、ハナにとっては操作しやすい恰好の『武器』であった。
ゼンタはこのことを読み切った上で習得したてであるらしい心象偽界を鬼札として切ったのか? 担任教師・長嶺タダシの前例があるために彼がこの場に死体を出すことを嫌ったとしても不思議ではないだろう。
ただし、それを嫌ったとて実際に対処できるかは別の話。四百を超える人員の全てを跡形もなく消滅させる。通常なら難題極まりないそのオーダーを事もなげにやり遂げてみせた彼は、だから凄まじい。
この時点でハナが第一陣に選ばれた意味はほぼなくなったと言える。故に、機動力と敵全体へのデバフを買われた相方たるカスカへと言葉をかけたわけだが、一向に返事が返ってこない。
そのことを疑問に思ったハナが【遠見】で拡大された地上の景色から目を離してみれば、なるほど。表情筋がまったく動いていないことを自覚できている己とは反対に、剥き出しの感情がそこにはあった。
カスカが浮かべるその感情の名は後悔。
無理もないことだ、とハナは思う。異世界においてゼンタとカスカの関係がどう変遷していったのかは彼女も承知している。初めは意見の違う級友として。次に頼り合う仲間として。最後には対立する敵同士として――ある種の覚悟を以ってこの場にいるはずのカスカの心境は故に、ゼンタの話を聞いて内心がぐちゃぐちゃになっているであろうことは想像に難くない。
砂川ハナは少しばかり、心の動き方が人とは違う。そのせいで共感能力に難があることは自分でも気付いている。けれど共感こそできなくても、人の心の機微というものを推察することくらいはできた。
カスカが抱く後悔の内実まではわからない。それは自身の選択や身の振り方に類するものかもしれないし、あるいはもっと別の何かかもしれない。だがしかし、いずれにしろその表情は現状に甘んじていられないが故のもの。
その点に関してだけは彼女も深く共感できた。
「どうしようか? 柴くんの言っていることが本当なら、私たちは結構危うい立場にいると思うけど」
このままローネンの指示に従うか否か。従うのだとすれば、レンヤの敗北が喫した瞬間に二人は戦場へ突撃しなければならない。だが、そうしたところで何がどうなるのか。
「白羽さんはともかく、私があそこへ飛び込んでいく意義は薄いよね。できれば戻りたいけどな」
如何にも迷っているような口振りでハナは言う。それはあたかもカスカの判断次第で行動を決めんとしているかのようであったが、実際のところ彼女にそんなつもりはさらさらなかった。仮にここでカスカが作戦の断行を選んだとしてもそれに続こうという気は既にない。やりたいなら一人でどうぞ、だ。
本当なら行きと同様、すぐにも転移で連れ戻してもらいたいところなのだ。自分たちが見聞きしているものは『灰の手』本陣にも届いている。ローネンも現場の状況は把握しているはずで、ならばこれが尋常の事態ではないこともまた理解できているはず――なのに未だに撤退の合図が送られてこないのはやはり、あちらはあちらでゼンタの言葉に動揺しているからなのだろう。
「もう無理でしょ。ローネン・イリオスティアもここからは沈んでいくだけ。階戸辺くんは別の選択をしたみたいだけど、私たちまでそれに倣う必要はないんじゃないかな」
「……砂川さんは、いいの? 一番最初に『灰の手』に入ったのはあなたじゃないの。それをあっさりと裏切ることができるの?」
「これ、裏切りって言うかな? そもそも淘汰の対象にならないために誘いに乗っただけだから……白羽さんとはちょっと事情が違う」
「…………」
「柴くんのところを裏切っておいて、また裏切るなんて。そういう風に躊躇っているんだとすれば、それはナンセンスだと思う。私たちは『仲間』じゃない。ただ利害が一致していただけ。たまたま乗り合わせた泥船が沈み出したんだから、慌てて他所に飛び移ることを責められる謂れはないよ。お互いにね」
冷徹であり、しかし正鵠を射た発言だった。
そう、彼女たちは志を共にした仲間ではない。偶然同じ陣営に寄り添っただけの非共同体。もしも何かが起こればすぐに分裂してしまうようなごく浅い関係性でしかない。そしてその何かがまさにこうして起こってしまったのだから――これはもはや必定の成り行きだと言えた。
「そもそも上位者の意思に従うと決めたことが『灰の手』入りの理由だよね。だったら、ローネン以上の『神の駒』になった柴くんとの敵対を避けるのは当然じゃないかな」
現在の立ち位置だけに拘るのでは本末転倒だ、とハナは言う。
それはその通りだとカスカも思う。けれど、理性と感情は時として強く反発し、まったく人を身動きさせなくしてしまうものだ。
カスカはまさにそういった状態にある。と、唇を噛み締めるその姿からそう結論したハナは。
「【糸巻】・【傀儡操作】」
「え……!?」
事前通告なしのスキル発動。それによって、まるで無防備だったカスカはただ驚愕の声を上げるだけでなんの抵抗もできずに簡単に操り人形と化してしまった。しかし彼女も来訪者であり、極めて特殊な生態を持つ『天使』である。辛うじて操作できているが、この状態はそう長く続かないだろうと繋げた糸の感触でハナは悟った。
遠からず【傀儡操作】は解ける。だがそれでいい。離脱のための時間さえあればそれで十分だ。
「やれやれ。世話が焼けるよね」
ここでカスカが馬鹿な選択をして、究極命を落としたとしても。それをハナは惜しいとも悲しいとも思わない。既に選択を終えた様子のレンヤを毛頭助けるつもりがないのもそれが理由である。だが。
消える命を仕方ないの一言で済ませられる彼女とて、ただの言葉ひとつ、行動ひとつで死なない命があるのなら。それを救うことに否やはなく、また迷わずに救う側の人間でもあった。
そこが彼女の複雑さの象徴であり、だからこそその独特のメンタルを見込まれて真っ先に『灰の手』へと勧誘されたのだが――。
そんなことなど一切合切どうでもいい少女の形をした空虚は、今日も今日とて保身と興味を第一に行動する。
「さて。まずはヨルちゃんたちと合流かな」




