530.かくも美しい
「ク、はっ……か」
心身を揺るがす極大なる衝撃――『灰』は。
拳の威力そのものよりも、それだけの威力を引き出せたことにこそ驚愕している。ここまで既にハードル走のように何度となく限界を飛び越えてきたゼンタではあるが。
しかしまだ、またしても、こんなにも高らかに飛ぶとは。
飛んでくれるとは。
「ク、――くくく」
自らの唇を伝うぬめり気が己の吐血によるものだと知った『灰』は、乱雑に口元を拭う。手の甲には赤い跡。――これが、俺の血か。初めて目にするそれに少女は何を思うでもなく口づけを行なった。そしてその手を放したときにはもう、純白を汚す鮮血はどこにもなかった。
その瞳に湛う煌々の深紅を除いては。
「ちっ……」
彼女のそんな様を眺めて舌を打ったのがゼンタ。
当然だ、これが最後の一撃。その気概で放った究極至高の新技『千極死拳』。確かに決まった最高の拳も『灰』を倒すには至らなかった。質の悪い冗談のように堅牢な身体から血を吐き出させるという空前絶後の快挙を成し遂げたはいいが、それすらも一瞬で「なかったこと」になってしまった。
血痕が消えただけでダメージは残っている。頭のどこかでそうわかっていても、笑う『灰』を目にしては感慨など得られようはずもない。多少の痛みがあろうがなかろうが倒せていない時点でそんなものは誤差だ。
「良い拳だった。掛け値なしにな。まだ打てるか? 一発一発がその威力なら、俺もけっこー対処に困る。そうじゃなければ――お前の戦い方もそろそろ味わい尽くしたところだ。いくらでもやり込められるぜ」
「……味わい尽くした、ね。つまり慣れたってことか」
嘘ではない。『灰』の言葉はただの事実だ、とゼンタにはわかる。
そもそも慣れるというのはゼンタの十八番だった。
古くは【集中】、今では【明鏡止水】の極限まで集中力を高める効果により、戦闘中の彼の観察力は並大抵ではない。最初は苦戦を強いられても、戦ううちに対応していき、やがては突破口を見出す。レベルアップによる回復・強化と合わせてどこまでも粘りに粘るその戦法こそが、彼が幾度も大物食らいを成し遂げてこられた素因となっている。
ところが。
『灰』を相手には不思議と、いつまで経っても慣れやしない。
初めはこちらに合わせて少しずつパワーを高めていく少女の余裕たっぷりの出し惜しみこそがその理由だろうとぼんやり考えていたゼンタだが、今の『灰』の発言と、これまでの戦ぶりを思い返すことで真の原因が判明した。
単純な話だ。学習能力においても、スキル持ちのゼンタよりも――『灰』のほうが上回っている。というだけのことである。
スキルを持たなくても、例えば『最強団』リーダーのリオンドなどはゼンタと同等以上のラーニングを実行できた。極まれば同程度の読みの力にはなるが、その初動で言えば圧倒的にリオンドの能力のほうが高い。この実例が示す通りたとえスキルを持たずともそれと似たような力を素で発揮できる者も、いることにはいる。
しかし。
言うまでもなくそれは人間としての、戦士としての最高峰。最高の才能を持つリオンドが弛まぬ研鑽を積んできたからこそ実現できたのであって、この例を人類全体に当てはめるのは無理があるだろう。ラーニングに限らずどんなスキルであっても、それと同等の力を得ようと思えば極上の才と素養と環境が揃わねば難しい。
そしてそれらは普通、ひとつでも持ち合わせていれば稀なものであるからして、来訪者でもないのに各々がゼンタを手玉に取れた『ストレングス』のメンバーがどれだけ常軌を逸しているかという逆説的な証明にもなるだろう――翻って。
人類の最高峰が最高の努力を積み重ねて得た、スキルと同程度の能力を、踏み付けてより高みに立つだけの力が。
生まれながらに『灰』にはある。
なんの努力もなく、才能も関係なく。
ただそうあれと造られたが故に少女はそうなのだ。
――【聖魔合一】でもれなく強化された【明鏡止水】がどんなにキリキリ働いたって、こいつには到底敵わねえってか。
「はあー……、」
大きく息を吐き出しながらゼンタはかぶりを振った。
今更そんなことがなんだ。全てにおいて。そう、どんな要素であっても全くの例外なく。自らの何もかもが『灰』より劣っていることは、出会った瞬間から察していたではないか。それでも戦うと――それでも勝つと決めたのだから、今になって【明鏡止水】の優位がないと理解したところで困ることもない。
死にさえしなければどうにかなった今までの戦いとは違う。
死んでもなんとかなった魔皇との戦いとも、決定的に違う。
克明に、明確に、確実に、実行しなければならない。
絶対に勝てない相手に勝つ。絶対に負けないようにと神が造りし存在に――敗北を与える。
『灰』より上に立つ。
レベルアップやスキルの成長によってではなく。
自分自身の成長だけでそこまで至らなければ、このテストに終わりはない。
「どこまでも……お膳立てのクセが染み付いてると見えるな。管理者さんよ」
「……!」
「その涙ぐましい努力に必ず応えてやっから、てめーも準備しときな」
「ほー……そりゃなんの?」
「もっとド派手に血反吐を吐いて――地ィ舐める準備に決まってんだろ」
――もっと打てるか、だと?
んなこたぁ聞くまでもねえだろうが、とゼンタは憤る。
『千極死拳』は限界のラインを三つか四つ、あるいはもっと。とにかく幾線も飛び越えて実現した、ゼンタ自身何故打てたのかわからない無茶苦茶な技である。
その反動は【聖魔合一】の助けがあっても無視できないほどに重く、ただ持ち上げただけで右腕は今にも破裂してしまいそうだった。痛い、どころではなく、痛みすらもう感じられなくなっている。ただただ無事ではないという感覚だけが伝わってくるのだ。
つまり。
「いくらでも打てるってことだ!!」
「そうこなくっちゃなァ……!」
詰めるゼンタの左腕に『極死』のオーラ。そこに宿る力が先の一撃に等しいものだと見抜いた『灰』は、あえて回避には入らず。
「力比べといこうか!」
「!」
自らも構え、腕を引く。身を守るのではなく攻める。力で力に対抗することを決めたのは、高い学習能力、あるいは備わった戦術勘がそうさせたのではなく……単に彼女がそうしてみたいと思い付いての行動だった。
――せっかくだ。これだけの拳にぶつける己が一撃が、無名の拳じゃ味気ない。
「無為無双――」
「千連極死――」
「『灰撃』!!」
「『千極死拳』!!」
「「ッッッ…………!!!」」
極大の力が衝突し、鐘を鳴らす。
神域の果てまでを震わすその音色は、ただの振動の伝播でありながらもまるで福音の如き清廉で厳かな響きを持っていた。単純な力であっても極限まで高まれば、かくも美しい。多様な色味の光に包まれながら拳を引いた少年少女はしかし、そのどれにも目を向けない。耳も傾けない。彼と彼女は今この時、互いの姿のみを目に移し、互いの呼吸だけを耳にしていた。
まさしくここは二人だけの世界――。
「千連と千連!!」
「!?」
ここにきて両腕に『極死』。しかもそのどちらもが同じく――まさか、と『灰』が瞠目するよりも早くにそれは放たれた。
「二重『千極死拳』!!!」
「『灰撃』!!!」
左右同時に打ち出された拳を『灰』もまた殴打で迎え撃つ。『千極死拳』を両の手で放つという荒技に触発されたように『灰撃』もその威力を更に高めていたが、この激突ではゼンタに軍配が上がった。
「ッぐ――!?」
自分が力負けするとは。打ち破れた右腕にビキリと嫌な痛みが走る。が、その事実はより『灰』を喜ばせた。
「はっはは……!」
「っが!?」
加速する『灰』の挙動、その反撃がゼンタの追撃よりも先に炸裂。胸を打たれたことで息が詰まり、思考が止まる。けれど少年は無我のままに殴っていた。
「グハ……ッ、」
ノータイムで突き出された拳に上体を仰け反らせる『灰』。
次の一瞬で彼女はまた殴打を返し、そしてまた殴打を貰う。
そこでどちらともなく予感する。
もう間もなく、この勝負は幕を閉じることになる――。




