489.ありがとう
「が、はぁ……ッ」
身体中から搾り出したような大量の血を吐き出しながら、少女は思う。
これでいい。こうなることは――読み通り。
ラハクウ戦でも見せた恐るべき加速からの突撃。この場面でそれをやってくることは、わかっていた。だから心の準備もできた。
と言っても避けようのない突撃に対してやれることはそう多くない。とりわけ今のメモリにとっては尚更に。避けるどころか守ることもろくにできやしない――。
なので彼女の行った準備とは、食らいながらも食らわせる。即ち、相討ちに持ち込むための備えだった。
「――!」
胴体を腕で貫かれたメモリは、傷付けられながらも外骨格の全体を牙に見立て尖らせ、その状態で自ら密着することで『屍蝋の王』の体に鎧の牙を深く突き立てた。
「づ、ぅ……、」
決して放さない。その決意の下に途切れかける意識をどうにか繋ぎ止め、メモリは鎧の牙だけでなく己が腕でも彼を抱き締める。
「――?」
まるで想い人同士のように熱く抱擁を交わしつつ。
自身の腕に串刺しにされている少女に対し『屍蝋の王』は疑問を抱く。
生と勝利への飽くなき執着、それは見事。しかし足掻くにしてもこれは悪足掻きが過ぎる……無意味に過ぎる。
少女は既に終わっているのだ。
敵を拘束しながら自身も拘束されているに等しいこの状況。『屍蝋の王』にとって体に食い込んだ牙などなんの痛痒にもならず、そして至近距離どころかひとつの物体のように互いが密着している今、少女にやれることはもうない。
それは腕を肉体の内側で抱え込まれ、全身で抱きかかえられた『屍蝋の王』とて同じだが、しかし両者には前提条件の違いがある。このままの状態がいくら続こうが『屍蝋の王』は困らない。対して少女は遠からず死ぬ――。
いや、遠からずどころではない。今にも燃え尽きんとしているメモリの姿を見て、異形は確信と喜悦に口を歪める。あと数秒もすればこの小さな命は我が腕の中で朽ちることだろう。それを間近で見られるのなら、この膠着状態は彼にとって歓迎すべきものである。
「……、」
「――、」
が、そこで。
『屍蝋の王』の笑みが固まる。殺意のみに生きる彼だから気付けた、その矛盾。既に終わったはずの少女が……最後の輝きすら消えようとしているはずのその命が。
まさに今、この瞬間にこそ一際の光となっていることに――!
「!!?」
どずり、と鈍い衝撃が体内に広がる。
痛覚の持ち合わせなどない彼だが、自分の身に何が起きたのかはハッキリとわかった。死角から刺されたのだ。首の裏から侵入してきたそれは、斜の軌道で脳部にまで達している。『屍蝋の王』をしても圧巻の殺意に満ちた攻撃……しかし、誰が? 何が己を刺したのか?
上手く動かない首を無理矢理に振り向かせ、背後を確かめる。そこにいたのは――否、あったのは。
宙に浮かぶ腕。
斬り飛ばされてそこらに転がっていたはずの、メモリの左腕の肘から先の部位だった。
「――、――」
もはや見慣れた手甲部からの刃。自身に致命の一撃を与えたのがどうやらそれであるらしいと悟った『屍蝋の王』の顔には、やはり笑みがあった。
彼は殺意を向けるのが好きだが、向けられるのも好きで。
殺すことが大好きだが、殺されることも大好きだった。
故の、満足。殺される前に殺してみせた腕の中の少女へ惜しみなき称賛を送る。彼らから初めて向けられた殺意以外の感情を、メモリもまたしかと受け取った。
「ありがとう……『屍蝋の王』」
謝意を込めて、左手を操作する。他の異形も含め自分のための儀式に付き合わせたことへの謝罪と、そして理想的な形で策に嵌ってくれたことへの感謝。
積極的な攻撃を仕掛けたのも、あえて敵の間合いから出ずにいたのも、全てはこのためだった。
意識の外にあるであろう千切れた左腕。それが動き出していることに万が一にも彼が気付いてしまわぬように、強く自分へと注意を引き付けた。攻めることだけに全力を出させた。そうやって刺し違えた――ように見せかけて、無防備な背中から本命を通した。
作戦としては非常に単純だが、成功への課題は多かった。
今のメモリは外骨格という骨の鎧を操作することで体を動かしている。ならば斬られた部位だろうと骨が纏われたままであるなら自由自在に動かせるのは道理である……と思われるかもしれないが、それがそもそもの間違い。ついさっきまでの彼女にそんなことはできなかった。
まずもって『無尽屍』も『屍細工』も装備された骨を操作する死霊術。
身体から離れてしまえばそれは単なる骨になってしまうし、更には『身纏法』という新理論で組み上げた術によりその側面は一層強調されてもいる。
この運用法の着想と実現が直近であったことも合わさって、本来ならどれだけの工夫を施そうと切り離された左腕の操作など不可能であるはずだった。
が、しかし。
限界の近い体で、限られた手札で、殺意を全開にした『屍蝋の王』と向かい合って――それでも勝利を目指すためには。
不可能を可能にする必要があった。
だから、やった。
メモリにとってはそれだけのことだった。
「…………」
遺憾なき天才性の発露。しかし、少女に己の限界を打ち破ったという感慨が今ひとつ薄いのは……それを自分だけの力で成し遂げた気がちっともしないからだろう。
彼女の見えない目に、見えるものがあった。
『屍蝋の王』の背中越しに、亡き父と母の優しく微笑んでいる姿があった。
二人はメモリが思い描いた通りに骨の剣を動かしてくれた。ぐっと押し込む。その切っ先が脳天から飛び出たと同時に、ビクンと全身を震わせた『屍蝋の王』は……それきり力を失くしてまったく動かなくなった。
終わった。そう思った瞬間、見えていた幻も消え去った。元の真っ暗闇の視界に戻る。ぬくもりすら感じられそうな現実感ですぐそこにいた両親はもう、影も形もない。
「……、」
違う、とメモリは頭を振った。影も形もあるのだ。心には両親を亡くした痛みという影が常に差している。両親の遺骨が与えてくれた外骨格が形となってここにある。そして何より――この胸には二人との温かな思い出が残っている。
いつもいつまでも、ずっと。
「うっ、……」
腹から『屍蝋の王』の腕を引き抜く。それ自体は大した抵抗もなく取り出せたが、そこには当然ぽっかりと穴が空いている。もはや無意識で操作し、鎧で覆い直すことで傷口を閉ざしたが、これでは根本的な治療にはならない。出血を塞き止めただけだ。ひとたび術を解いて鎧が消えれば左腕の傷と共に多量の血が流れ出すだろう……だが、それももう問題ではない。
倒れ伏した『屍蝋の王』の体が崩れていく。彼だけではない。全ての死したる異形たちの肉体が、少しずつ消えていく。
メモリは数匹残っているシデムシの視界を頼り、それを確かめた。あの門だ。異形たちを吐き出した異界に通じる例の門が、今度は異形たちの残骸をひとつまたひとつと吸い込んでいく。
「……!」
飛び散った血も臓物も綺麗さっぱり呑み込んだ門は、またしても空間に溶けるようにして消えた。その結果、さっきまで凄惨極まりない絵面となっていた訓練場に残されたのは途切れ途切れになったメモリの血痕と……それからもうひとつ。
一冊になった『死の呪文書』だけだった。
「……――、」
認められた。
完全体。『真書』となったネクロノミコンの所持者として受け入れられた。
ようやく成し遂げたのだ。と、そう理解した少女の意識はそこでぷつりと途切れた。
討つべき異形は、もうどこにも残っていなかった。
◇◇◇
――完了したよ。
再び現れた門が何もかもを片付けてからまた消えて、グリモアはそう呟いた。それを耳にした途端に俺の体は動いていた。スキルを発動させ、腕を振り被る。
「『燐光』――『極死拳』!」
グリモアの解除を待ってられず、拳で『死重層壁』を叩き壊す。左右のどっちからも驚く気配が伝わってきたが、んなもんに構ってる暇はねえ。
邪魔な壁をぶち破った俺は一目散に走る。
とにかく一瞬でも早くにメモリの下へ駆けつけたかった。
「おっと……!」
ふらりと倒れ込もうとしたメモリの体を抱き留める。よかった、間に合ったぜ。限界なんてとっくに超えてるってのは、見ていても明らかだったからな。
何度「今度こそ止めよう」と思ったかわからねえ――だがメモリはやり遂げた。ネクロノミコンの調伏に成功したんだ。
「よくやった。よくやったぜメモリ……サラ!」
「は、はい!」
俺に続いて駆け付けたサラの体が、既にぴっかぴかに光り出している。でかい『ヒール』をかける準備はもうできてるようだ。
どうか無事に目を覚ましてくれよ。
妙な鎧みてーなもんを着てても驚くほどに軽いメモリの体を抱きかかえながら、俺はいつかの日の既視感とともに、そう心底から天に祈った。




