375.誰にとっての正しさなのか
【不退転】は便利だが、不便なスキル。
これを持っていたおかげで何度か生き延びる経験をした魔皇の、過不足のない評価である。
言うなればHPがゼロになる際に1だけ残せる【食いしばり】スキルの類型だが、発動条件が特にない代わりに一度発動すれば再使用に丸一日以上かかるそちらとは違って、【不退転】は何度でも1のままで耐えられる。だがその代償として適用中は他の多くのスキルが使えなくなってしまうという重い制約がかかってしまう。
HPさえ残せるならとりあえず死にはしない。
それが来訪者というものだが、さしもの上位者のシステムで保護されている彼らも痛みや疲労とは無縁でいられない。
元の世界でただの人間をやっていた頃と比べればその双方に強い耐性を得てはいるものの、やはり殴られれば痛いし動けば疲れる。これらを完璧に克服しようとすればそれにもスキルが必要となるだろう。
残念ながら『拳闘士』や『修行僧』等の肉弾戦を得意とする職業なら比較的得やすいそういったスキルを魔皇は未所持である。
なので【不退転】の適用中とは即ち、HPがゼロ目前になるまで追い詰められてボロボロの状態で、かつその状況を打開するのに有用であるはずのスキルの大半が封じられたままで戦いを続行しなければならない。と、いうことになる。
蓄積した肉体的苦痛を抱えたままHPだけは残る、となればそれは人型のサンドバッグも同然に攻められ続ける悲惨な未来しか見えないが、来訪者にはレベルアップというスキルとはまた別の武器がある。それによって全快するはずのHPは恐ろしいことに【不退転】を使用していると1で固定されたまま変動しないが、痛みや疲労とはその瞬間におさらばできる。
そこからが勝負だ。【不退転】を解除し、万全の攻撃を繰り出す。一発貰ってしまうよりも先に攻めて攻めて敵を沈める。なんならそのタイミングは次のレベルアップを待ってからでもいいし、敵が無駄な攻撃を繰り返すことでへとへとになるのを見計らってからでもいい。
馬鹿げた作戦のようだが、死から逃れるために【不退転】を使ってしまえばこれ以外に勝ちはない――。
という諸々を考慮に入れての『便利だが不便なスキル』だ。特に今の魔皇は直前のマリア戦の影響で使用できなくなったスキルも多くあり、【不退転】の制約と合わさって手札は輪をかけて少なくなっている。なかなかに辛い。が、果たしてゼンタはどこまでそれを見抜いているのか。
【不退転】の効果を聞いても焦りも見せずにデメリットの存在を指摘した彼が、魔皇の窮状をどれほど正確に読み取っているか。
気にはなるが、是非を問わず。魔皇のやることに変わりはない。
ボーナスレベルに突入している関係で【聖魔混合】があろうとなかろうと元よりゼンタたちを相手にレベルアップを望めない彼は、故に【不退転】と【聖魔混合】の併用におけるリスクなどあってないようなものだった。聖魔がマリアの枷と【不退転】の制約、どちらにも引っかからないことも幸いだ。
強化スキルは【聖魔混合】と【孤高】。攻撃スキルは【武装】。今の魔皇にはこれくらいしか武器が残されていない。だが偽界と同化させた『無窮の鎖』を【収束】によって纏め上げ、装備した。手札は減ったが一枚の重みは増した……ということにしておこう。
「ふん、瀬戸際か……互いにな」
魔皇は冷静だった。限りなく細くなった勝利への道筋を未だ見失っておらず、その眼力もまだ衰えていない。
レベルアップしたてだというのに、既に肩で息をし始めているユーキ。蘇りがどう作用しているかまったくもって不明のゼンタはともかく、いくら彼以上の回数で攻撃を行なっているユーキと言えどあまりに疲労の色が出るのが早い。
【聖魔合一】も完璧ではないということだ――経験値のストップだけでなく、スタミナ減少が著しく早まるという欠点があるに違いない。
これは設定されたデメリットというよりもその強化幅が頭抜けている結果としての疲労の加速なのだろうが、特に【合いの刃】で斬撃スキルを結合させて放つようになった彼女にとっては一段とキツいはず。
魔皇の見識上【合いの刃】で発生する負担は、スキルを連続発動させた際を遥かに超えたものになることはほぼ間違いがない。
入手したてのソラナキの『常夜技法』――本人命名はナンセンスにも『ブラックターボ』だったか――を常に発動させているゼンタも、ユーキほど色濃くはないが疲れが滲み出ている。
表情や息遣いの僅かな変化も魔皇は見逃していない……それと同様に、向こうからも事細かに観察されているという自覚もあったが。
押されているのがどちらかと言えば、確実に自分だ。二人合わせても自分の半分のそのまた半分も生きていないようなガキを相手に、大いに苦戦させられている。それは事実だ。
ただし言うほど状況は一方的ではない――天秤はまだ傾き切っていない。危うい均衡を保っている。命の羽根はまだどちらにも落ち得るのだ。
なんにせよもう魔皇に奥の手はない。新たにやれることもない。【不退転】の札を切ってしまった以上は、後はひたすらに我慢比べだ。
そう、HPの問題ではないのだ。
どちらの心が折れるか。折らせるか。これはそういう勝負。
負ける気は、まるでしなかった。
◇◇◇
顎の高さに両拳を上げて構えた魔皇。その落ち着いた所作は、まるで一流のボクサーみてーだった。
俺の目からするとそれは習って身についたもんじゃあなく、独自で編み出したスタイルに見える。殴り主体で隙のねー構えとなるとまあ似通るってもんか……だがなんだか笑えてくるな。
あんだけばかすかと地形を変えるド派手な攻撃をやってきたこいつが、最後の最後に立ち返るのがこんな限りなく人間らしいファイティングポーズだとはよ。
最後の、最後。
そうだ、これで最後になる。
ころころと戦法を変えやがる奴なんで絶対とは言い切れねえんだが、少なくとも俺の感覚はこれが最後なのだと告げてくる。鎖と一緒に偽界中の闇を魔皇が吸いこんじまったここには、もう何もない。本当に何もない。俺たち三名がいるだけの空間だ。
闇っていう一皮を剥いじまうとこの偽界がここまで真っ白で、平穏な場所になるとは、思いもしなかったぜ。雰囲気だけならマリアの偽界にもよく似ている。
真逆のもんだと感じてたふたつがこんなにもそっくりだってのは、なんの皮肉かね。
もしかすっと光と闇ってのは本来、同じものなのかもしれねえな。
そんな風に思えるのはそれが真実だからか、それとも【聖魔合一】を発動させている今だから勘違いをしちまってるのか。
わからねえが、しかし。これはマリアと魔皇にも重なるもんがあるぜ。つまり正反対なのにそっくりだっていう点が、この二人にも当てはまるような気がしてならないわけだ。
政府長ローネン・イリオスティアは人間の社会を、享受する平和を白だと言った。そして魔皇軍を、平和に影を差す脅威を黒と言った。
実はこの世界を真に操っているのが白黒どちらにも属さない『灰』だっていうのはこれこそ皮肉にもならねえ戯言だが、ともかく。
俺は本当に白にいるのか。魔皇は本当に黒にいるのか。そうやって二分することが正しいことだとすれば、それは誰にとっての正しさなのか。
考えるだけ無駄なそれらに形だけの決着をつけるために、俺たちはこうして戦っているのか――。
「――なぁっ!」
最初に動いたのは俺だ。とりあえず最短で戦斧をぶつけてみたが、魔皇はパンチングでそれに対応した。
軽い当たりの拳だったが刃を思い切り弾かれちまった。俺が反撃を貰う、前に続いてきてたユーキの刀が差し込まれたが、魔皇はダッキングでそれを躱して入れ替わり様にボディへ一発。やはり軽いように見えたその殴打はユーキをくの字に曲げるだけの威力があった。
――強い。
魔皇と戦いながら何度も抱いたその感想が改めて俺と、ユーキの胸にも浮かび上がったはずだ。
しかしこれまでとは一味違う。
化け物めいた強さだったさっきまでとはまったく違う――今の魔皇は。
等身大の人間さながらに、けれど卓越して強かった。
「っし――、」
魔皇の追撃がユーキを襲った。




