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361.闇と闇と闇

「ッ……!!」


 魔皇が生み落とした深い闇。


 混濁したその黒が見せた膨張の勢いは筆舌に尽くしがたいものだった。魔皇が何をしたのか――何をしようとしているのかを悟りながらも、理性よりも先に本能が反応し、咄嗟に回避行動を取ってしまったユーキを誰が責められようか。


 たとえそれが、なんの意味もなさない無駄な行動であったとしてもだ。


「しまった――」


 心象偽界から逃れることはできない。回避しようとしてできるものではないのだ。


 相手が開いたら最後、対抗の手段はこちらも偽界を開き一方的な蹂躙を防ぐことだけ。そこが偽界の何より恐ろしいところであり、偽界使い同士が迂闊にその展開に持っていけない理由でもある。


 ユーキの偽界は、まだ未完成だ。マリアの最後の手解きによって一段とその完成度は高まったものの、なまじ同じ偽界を持つ彼女が教師役だったためにどうしても比較を避けられず、その観点で言えばユーキは己の偽界を完成品とは到底称せずにいた。


 しかし現段階の出来がどうであろうと、偽界を使われたならこちらも使わざるを得ない。そして偽界に囚われたのが自分であるならユーキのやるべきこともひとつだった。


 魔皇の創り出した世界に咀嚼されてしまわぬよう、自らが創り出した世界で支配圏を確保する。

 それがどこまで上手くいくかは別としても、その行為の実行自体は然程難しいことではない。


 囚われたのが自分でさえあれば――。


「オレゼンタさん……!」


 思わず名を叫ぶ。しかし空に残されたのはユーキ一人。魔皇もゼンタもいなくなったそこでいくら名を呼んだところで、返事などあるはずもない。


 魔皇に攫われたのは、ゼンタのみ。ユーキは置いていかれてしまったのだ。


 まさか魔皇が偽界に引き込む対象を誤るはずもない……除外されたのだ、と彼女は確信する。二人まとめて偽界内で仕留めようとはせず、ゼンタを単独で呼び込んだ。


 その意図は明白だ。同空間に重ねるように存在する別世界をユーキは確かに感知している。偽界使いとしてその感覚は当然備わっている――が、その感覚もさすがに別世界の内側にまで届くものではない。内部で何がどうなっているかは杳として知れず、それはそこにいるはずの人物に関してもまた同様である。


 ゼンタの存在を、今のユーキには感じ取れない。


 隔絶された偽の世界。魔皇の偽界に閉じ込められた彼とのリンクは完全に切れてしまっている。二人一緒ではなくなった。それが意味するところは即ち。


「……っ、」


 ――魔皇と渡り合うための命綱たる【聖魔合一】、その強制解除をユーキは味わう。ステータス類の何を確かめるまでもなく、全身に圧し掛かる虚脱感によって重々とそれは知れた。


 偽界内ではゼンタも同じ状態になっているだろう。そして彼は魔皇の世界で魔皇と二人きりで対峙している。風前の灯。彼の命はそうとしか表現のできない危機的状況にある。


「心象偽界……!」


 一刻も早く助け出さねばならない。


 対象を限定し既に閉じてしまっている偽界をこじ開けることは、自らも偽界を使用できる者なら可能だ。だがそれには相手の偽界内で偽界を開くのとはまた違った技量が必要となり、難度としてはより高い。


 まだ拙い己の腕前で、魔皇の偽界に割って入るにはどれだけの時間を要するか。あまりに特殊な状況過ぎてまったく目途はたたないが、まずすんなりとはいかないだろう。同一空間で偽界を開くために返ってくる硬い手応えがそれを知らせてくる。


 しかし必要な時間を死に物狂いで短縮させる以外にユーキにできることはない。ゼンタを救うためにも、一分でも一秒でも早く。魔皇の世界に穴を空けねばならない。


 これが初の実戦使用。

 我が身に収めた紅蓮魔鉱石の魔力(MP)を用いて開く、彼女の偽界は――。


「『邂逅光来園かいこうこうらいのその』――!」



◇◇◇



 まただ。何度となく体感してきた、魂ごと引きずり込まれるようなこの感覚。


 小さな偽物の世界に落とし込まれるこの独特な感触は、いくら経験しても慣れるもんじゃねえ。


「ちっ……なんだぁこりゃ」


 膝をついたそこにあったのは、闇だ。泥みてーに滑ついているのに砂のように渇いた、奇妙な漆黒に俺の足元は占領されている。いや足元だけじゃねえ、見渡す限り闇は続いている。空までもが真っ黒だ。地平線はもはやこの世の終わりみてーな黒さで蠢いている……。


 ひたすらに暗い闇と闇と闇の世界。


 一筋の光すらないこの場所で俺がどうやって辺りを見ているのかもわからんが、とにかく見えはする。


 マジで闇以外に何もない、偽界としても異様過ぎるこの空間をはっきりと目にできる――。


「そうやって立ち上がることすら、ままならないはずだがな」


「!」


 振り返れば奴がいた。魔皇だ。腕を組みながら野郎は俺を興味深そうに眺めている。


「いくら『死霊術師ネクロマンサー』でもこうはいくまいよ。この闇は耐性などお構いなしに触れた者を沈めるようとするのだからな……ということは。さては貴様、【偽界】のスキルを持っているな? 上位者かみめ。俺にはついぞ寄越さなかったくせに随分と大盤振る舞いをしているじゃあないか」


 ユーキは――いない。どこを探してもそれらしい影は見つけられねえ。


 見晴らしだけはいい場所だ、見落とすこたぁしねえ。それに【聖魔合一】が勝手に解けちまってることもその証明になる……魔皇は俺だけを偽界へ招いたってことのな。


 俺との一対一。

 それが魔皇様のお望みってわけだ。


 けっ、まんまとやられちまったな。そりゃあ偽界の用心ぐらいはしてたさ。インガから貴重な証言も得られたことで追い詰められれば魔皇はほぼ確実に偽界を使ってくるだろうってことは予測できていた。


 こうやって分断にもうってつけなこの術は、【聖魔合一】の維持のためにもコンビで戦わなくちゃならない俺たちに対する妙手でもある。


 偽界の内と外で分ければ【聖魔合一】を封じられる、と魔皇にだって確信があったわけじゃあねえだろうが……試す意味でもまずはサシにしてみるのは当たり前だ。奴からすりゃそこに無駄はねえからな。


 っつーわけで俺も気を付けてるつもりだったんだが、しっかし魔皇の偽界を開く速度の速ぇのなんのって。


 言っても今まで阻止できたことは一度もないっちゃないんだが、他の偽界使いと比べても魔皇のそれは格別に洗練されてた。まるで何十回何百回……や、それどころじゃねえな。何千回何万回と練習を重ねてきてるような感じがしたぜ。


 偽界の性質や使いどころを考えると、そんだけ発動できるとも、そんな機会があったとも思えねえんだがな。


 そこらは謎だが、ひとつ確かに言えるのは……俺はうまいこと偽界に閉じ込められたってこと。

 あとは割といい具合に戦えてたさっきまでとは一転、かーなりのピンチに陥ったってことだけだな。


「こいつぁマリアさん用の偽界とは、別か」


「!」


「これがお前本来の偽界ってことか? 魔皇」


「……それもインガか。どこまでお喋りなんだあいつは……まあ、いい。ここは確かにマリアのためだけに開発した偽界とは別物だ――『常夜神隠法とこよかみかくしのほう』。大仰な名だが実態は極めてシンプル。術者以外の存在を、ここに広がる永久の闇が食らう。ただそれだけの能力だ」


 ひとつ認識を正すなら、と魔皇は付け加えた。


「俺本来の偽界、という言い方は間違いだな。元の持ち主は先代の魔皇であり、俺はそれを譲り受けた立場なのだから」


「そういやインガもそんなこと言ってたな……この偽界も【併呑】がなけりゃ使えるこたぁなかったと」


「ご名答。悲しいかな先代魔皇ほど使いこなせてはいないのだが、しかしこいつを元に『獄吏開譚ごくりかいたん』が産まれたのだと思えば、その役割は甚だ大きいと言える。そちらにも逢魔四天の手を借りたがな……ふ。まったく良い部下を持てたものだよ、俺は」


 静かに語る魔皇に、俺は眉をひそめる。なんだか気味が悪いぜ。


 この落ち着きっぷりは、俺とユーキを見下しまくっていた最初のあのムカつく態度ともまったく違うように見える。


「上位者がついぞ寄越さなかった、ってことはてめーは未だに【偽界】のスキルを持ってねーってことか」


 それなのにふたつも偽界を手に入れてることに呆れちまうが、いま重要なのはそこじゃねえな。


「だけど残念だったな? せっかく【併呑】で掠め取った偽界も、俺には効きが悪いようだぜ。こちとらてめーご自慢の逢魔四天と散々戦り合ってきたことで、それなりに【偽界】のLVも上がってるもんでよ」


「ふん――そのようだな。だからこうする他ない。初の使用にして実践・・。多少の博打は否めんが」


 気取りや強張りのない、ごく自然な笑みだった。

 言うなればそれはそう。


 わくわくとした表情。


 そんな顔付きをしながら、魔皇はそれを発動させた。


「【併呑】を発動……『陰骨雅月いんこつががち』」


 システム封じにしてスキル殺し。

 来訪者殺しの、その力を。


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