332.凶兆
「心を鎮めることです。痛みもなく一太刀で送って差し上げますので御安心を……」
「イひぃっ、いィいいいっ!」
聞こえているのかどうか。ナゴリは奇怪な悲鳴を上げながらひたすら這いずる。
両腕を失くし自制心もなくした様子の彼にはもう起き上がることもできないようだった。
しかし向かおうとする先が敵とは反対方向であることを思えば、正気を失いかけているとはいえまだ生きるために足掻こうとする意思自体は残っているのだろう。
そんな彼を、冷酷な瞳でモニカが見下ろす。今から命をなくす相手に対して――命を奪う相手に対しての憐れみはない。死にかけた虫けらが這いずっていても情に深い彼女は痛ましい目を向けるだろうが、彼女にとってのナゴリは虫けら以下。
なんの価値もない、どころか一刻も早く始末することが世の助けとなるようなマイナスの価値しかない生物だ。
いたずらに人命を弄ぶ輩に持ち合わせる慈悲などない。ナゴリに対して抱く感情は純然たる殺意のみだが、しかしどれだけ最低劣悪な存在だとしても、その最期にはせめてもの情けをかけるくらいのことはしよう。
全シスターの模範となるべき大シスターとして、相応しき振る舞いを。思うともなくそれを常に心がけているモニカは故に、ナゴリを苦しませるつもりはなかった。「一太刀で送る」というのはそういう意味での発言だ。
「いぃギっ、ィぎぃいいっ、いィいぃぎぃッ!」
もはやモニカの言葉が届いているかも定かではないナゴリは、口の端から泡を吹きながら芋虫のように床を這う。
懸命だ。踏ん張れずにつるつると何度も足を滑らせながらも藻掻き、なんとか前へ。おそらく考えての行動ではなく、本能だけが彼を動かしている。
それだけ生きたいと。助かりたいと。抗う術のない死から逃れたいという思いがあるのなら、どうして人から奪えるのか。悪行に手を染められるのか。
モニカにはまったくわからない――わかりたいとも思わない。時に人は教会員をどんな人物だろうと分け隔てなく救いの手を差し伸べる人種だと勘違いするが、そんなことはない。
救う側だからこそつくづく実感する。命の価値は平等ではないと。救われるべき命とそうでない命の区別は、必ずあるのだと。
当然ナゴリは後者。今どれだけ哀れな弱者のように振る舞っていようと、ここから逃げて力を取り戻せば彼は再び悪しき強者となる。
魔皇の命に従ってなんの躊躇もなく大勢を殺せる悪となる――そんな者を救おうとすること自体がナンセンス。それもまた罪に同じだ。
「…………、」
無言で『クロスオーガ』を掲げる。少々距離はあるが、射程の範囲内だ。光の魔力で刀身を覆い威力とリーチを増幅する『ホーリースラッシュ』は次こそナゴリの命を終わらせるだろう。
不変の悪徳には死こそが救いとなろう。
冷たくナゴリを見下すモニカが、トドメの一刀を振り下ろし……かけたその時。
――ドクン。
「……っ!?」
強烈な鼓動。己の心臓が異常なほどに高鳴ったことをモニカは自覚する。
その原因は強大なプレッシャーにある。突如として発生したそれは、まるで急に深海の底へ送り込まれたような極度の重圧感をモニカに与えたのだ。
(この異様な重みは……外からくるもの!?)
発生源は本館外部。離れていてもこれほど重く苦しいプレッシャーを与えてくるような存在など、モニカにはたったひとつしか思い浮かばなかった。
「……っく」
「!」
「くっくぅくくくくかっかかかかかかっか!!!」
ナゴリも同様の重圧を受けている。が、その受け取り方はだいぶ違った。
息苦しさと不安ばかりを覚えるモニカとは正反対に彼にとってこのプレッシャーは非常に心地の良いものであり、乱れ弱り切っていた心に光明と活力をもたらしてくれるものでもあった。
「来たッ! 来たんだ! 来てくれたぁ! 魔皇様! 今すぐにオレもそちらへ!!」
「……っ、」
影の噴出。それによって今の今まで死にかけていたとは思えないような勢いでナゴリが遠ざかっていく。
想定外の事態にモニカの対応は一歩遅れる。目の前に広がった影を大鋸で切り払ったときにはもう、ナゴリの姿は見えなくなっていた。
「こ、こんなことが……!」
まさかもまさか。打つ手なしのはずだったナゴリがあそこから逃れてみせるなどとは夢にも思わなかった。
モニカの目には確かに彼の限界がはっきりと見えていたのだ。
これを騙されたとするのは少々酷というものだろう。
真実、ナゴリに打つ手はなかった。魔皇来訪の気配を感じるその時まで彼は確かにまともではなかった――死に怯え心が折れてしまっていたのだから。正気と一緒に最後の力を取り戻し、それを振り絞った結果がこれだ。
重圧がモニカとナゴリが包み込まなければ確実に終わっていたはず。
「くっ……、」
なんという折の悪さ。そして幸先の暗さか。
このプレッシャーが本当に魔皇のものであるというのなら、それが意味するところはつまり――聖女の敗北。
それこそまさかと思いたい。聖女マリアが負けるなどあり得ない。そんな場面はモニカにとって想像することすら難しいものだ……だが魔皇はここへやって来ている。聖女はそれをさせないために動いていたはずだというのに。
彼女の気配は、まったく感じ取れないというのに。
「……!」
出し抜かれたにしろ、戦って負けたにしろ。おそらく無事ではいまい。どんなに認め難くともまずはそれを認めなければならない。聖女の助けは、きっとないのだと。
その覚悟を決めておかねばここからの苦境は乗り越えられないだろうから。
魔皇がいて、聖女がいないこの状況は。
人類の今後を左右するまさに岐路であり分水嶺となるのだろうから――、
「なっ――!?」
激震。
大きな揺れなら先ほどから何度も体験しているが、今度のそれは今までとは何もかもが異なっていた。揺れたのは建物でもなければ地面でもない。言うなれば空間そのものが蠕動したかのような。世界そのものが壊れようとしているかのような、そんな大いなる不吉を孕んだものだった。
外で良くないことが起きている。
そう確信するに十分な凶兆。
「っ!」
瞬時にモニカは駆け出す。来た方向へ戻っていく形で逃げ出したナゴリを追いかける。
逢魔四天を魔皇と合流させたくなかった。それにナゴリも魔皇の下へ――おそらく最大の激戦地となっている中庭へ――最短で急ごうとするはず。だとすれば捕捉して以降初めて見失ってしまったとしても再補足はそう難しくないだろう。
いくら活力を取り戻したと言っても体力の限りは変わらない。あの勢いがいつまでも続くとは、とても思えない。ならば追いつけるはずだ。そして今度こそ仕留めきれるはずだ――そう考え、本館内の構造を思い出しながら走るモニカの表情は非常に厳しかった。
淡い希望だ。
いくら本館が巨大な建造物であり迷路のような内部構造になっているからといって、外へ出るためにかかる時間はそう大したものではない。
最後っ屁のようなナゴリの勢いが保ったまま脱出が叶う可能性も十分にあるだろう。
そして仮に脱出を阻止できたとて。
既にボロボロの逢魔四天の一人を魔皇と合流させなかったところで、それがなんの役に立つというのか。
聖女に匹敵する実力を持つ魔皇は、単身で人類すべてを相手取れるほどの脅威だ。魔皇と比べてしまえば逢魔四天であっても大した戦力とは呼べなくなる。広い山の中にある、他よりは少しばかり大きめの石くれひとつ。精々がその程度だろう。
無為である。
ナゴリの逃走も、モニカの追走も。
強大過ぎる一個人の前には何もかもが等しく価値を持たなくなってしまう。
それを薄々わかっていながら、それでもやれることをやるしかない。だからモニカはせめてとばかりにナゴリの命を終わらせるのだ。
たとえそれが、魔皇にとって虫けらが虫けらを殺す程度の意味合いしか持たずとも。




