301.これが私の原風景さ
鮮血が舞う。
砕けた拳から血しぶきが飛び出してる。
辺りを彩る赤は業火の赤にも負けず劣らず鮮明で、どこか幻想的でもあった。
「っぐぁああああっ!」
小鬼の慟哭。ズタズタになった右手を庇うようにインガはよろめく。
「はぁーっ、はぁーっ……」
息を荒げながらも実感する――打ち勝った。あの恐ろしいまでの力を持った『因果拳』に、俺の『絶死拳』が勝ったんだ。
とはいえ体に傷がつかないっつー来訪者の特性に助けられたのは否めねえ。そうじゃなけりゃいくら竜鱗を得ていようと俺の拳だって砕けてた……いや腕ごと千切れ飛んでただろう。
それがちっとも考えすぎじゃねえってことは打ち合った俺がよくわかる。
そんだけインガ必殺の拳は強くて重くて硬くて、そして何より生き様がこもっていた。
こいつが全うするインガという命の生き様が全部、あれに詰まっていたんだ。だからこその『因果拳』。慈悲と送葬の拳――見送りの一撃。
それで俺に死出の花を持たせようとしたんだろうが、そうはならず。
逆にインガの拳がおしゃかになった。
「互角だった。そのせいで前提の違い、上位者とかいう奴の作ったシステムがこの差を生んだ。ほんのちょっとの優劣が大きく結果に現れたってわけだ。これも悪運と言えば悪運か……だが俺には必然だったと思えるぜ。インガ、てめーのその多くの命を奪ってきた拳が砕けたことはよぉ」
「――あっはァ、そうかもしれないね。壊すんだから壊されもする。殺すんだから殺されもする。言う通りたくさんの命を、たくさんの戦士たちをこの手で終わらせてきた。数多の血に濡れた拳の終幕としてこれ以上相応しい形もないだろう。……だがね」
「……、」
「勝ち誇るのはまだ早いんじゃないか? 右手はご覧の有り様だが、他はどうだい。私はまだピンピンしてんぜ。これなら五体満足も同然、戦闘にだって支障はないさ――出すもんかよ」
「いや……たった一箇所だろうとそんな大怪我を負ってんだ。そんなに血を流しちまってるんだ。お前はもう終わってんぜ」
「はっ、お生憎だが血の気は多いほうでね。このくらい出てってくれたほうがかえってスッキリするってもんだ」
「本当にそうかな? 【血の簒奪】発動」
「……っ!?」
がくりと、インガの膝が地面につく。それと同時にあれだけその身に燃え盛っていた火も幻のように消え去った。
へろへろのとこにこいつは相当効くだろう――体力奪取! インガの生命力は【血の簒奪】の効果によって俺のHPへと変換されていっている。
流血させるっつー発動条件をようやく満たすことができたぜ。インガのあまりの頑強ぶりに一時は使用を諦めていたほどだが、【遺産】にあったドラッゾの力で活路が開けた。
「こ、れは……私の血から! 命そのものから力を吸い取っているのか! ハハッ、なんていう陰湿なスキルだ……!?」
「なんとでも言いやがれ、これが死霊術師の戦い方だ……たぶんな。本来殴り合うほうがどうかしてんだ」
「く、くくくっ。そりゃ違いない……、」
インガの顔色が悪くなっていく。『因果拳』との激突で俺のHPも大概底を尽きかけてたからな。
前にも説明した通りこのスキルの吸収速度は相対的なもんで、全体HPと現状との落差で決まると言っていい。あくまで割合としては一定だが全体量が増えれば増えるほど奪う量も増えるし速くなるって寸法だ。
――インガの元気がなくなればなくなるほど俺は元気になってく。気持ちの問題じゃなく物理的にそうなるんだ。そのことを、インガももう理解している。
「ああまったく、本当に一筋縄じゃいかないんだからな……できれば使いたくは、なかったが」
「……!」
「スキルだってなんだって使わせて、あんたの土俵で戦って……そして勝ちたかった。だけどこうなっちゃ仕方ない、詰みってやつだ。オニ自慢の生命力をまんま吸い取られるとなっちゃ形無しだもんなぁ。だから」
脚に力を込めて、重々しくも立ち上がったインガ。
その表情と口振りにまさかと思い至った。
阻止に動く。おそらく間に合いはしないと頭のどっかで冷静な計算が働いたが、だからってぼけっと突っ立ってるわけにゃいかねえ。なもんで急いではみたものの。
血だらけの腕を億劫そうに持ち上げて……ボロになった手と無事な手、それぞれの甲を重ね合わせたインガのほうが、やはり俺よりも早かった。
「心象偽界――『陰骨雅月』」
「っ……!!」
ぐわりと小鬼を中心に広がる世界――書き換えられていく小世界。
足場の変化と体の変調で俺は足がつっかえて、つんのめっちまう。
なんとか無様にこけはしなかった。だが動揺を隠せてる気はしねえ。
「なんだ――これは、どこだ?」
初めて偽界を見たときと同じ言葉が口をついて出た。
心象偽界は文字通り偽物の世界。術者当人の心の中にしかない嘘っぱちの世界を、局所的に現実のものとする魔法の奥義にして極致。
俺ぁ運の悪いことにこいつを何度も体験し、目にしてきた。
エニシの『泥願羅生沼』。
スレンティティヌスの『スイスウルケイ』。
シガラの『異土戀天』。
マリアとユーキの『光来園』。
スオウの『厭魅悲恋歌』という偽界を開かない偽界。そんな例外中の例外を除けば、己が望む世界を持ってくるというだけあって誰しもがこの世のものではないと一目でわかる景色、異常な空間を作り上げていたもんだが。
ここは、違う。
インガの世界はこれまで見てきた偽界とは明らかに異なっている。
大地は草原、麗らかな風に揺れる草花が広がり。
空は晴天、雲ひとつない夜空に星と満月が光り俺たちを照らし。
遠景には湖、水面に浮かぶもうひとつの月が台地になってるこの場所からでもよく見える。
――美しい場所だ。現実世界にもありそうで、だからこそ忌憚なく綺麗だと思える風景がそこにはあった。
非現実感や威圧感ばかりに満ちていた他の連中の偽界とは……まったくもって雰囲気が違う。
「悪くない場所だろう?」
「!」
「これが私の原風景さ」
微笑むインガもまた、雰囲気が変わったか。
この感じはドラッゾとドレッダの戦いを眺めていたときのあの感じに近い。
遠い過去を懐かしむような、もう手に入らない何かに思いを馳せるような……。
「ここが、お前の偽界なのか」
「見ての通りだよ。大昔、この場所で私は一人の人間とやったんだ。仲間内での喧嘩や一方的な殺しじゃない、生涯初の『殺し合い』をね。その相手がまさか人になるとは昔の私は思いもしていなかったが――けれど楽しかった。夢のような時間だったよ」
「…………」
「思えばその縁か、私をわくわくさせるのはいつも人間だったな。人こそがオニの獲物であり天敵だった。とっくに仲間も失せ、ついに人はオニを忘れ、もはや思い出の地も私の記憶にしかない……諸行無常、時の流れは絶対にして残酷だ。だからお前たち人間は、必死に生きるんだよな。短い生を一生懸命に謳歌する。そのうえ、それを投げ打ってでも倒そうとする。守ろうとする。残そうとする――善く生きる。長命にして強大な力を生まれ持つ私たち魔族には、真似できないことだ」
「なのにそういうやつを殺すことが、てめーの生きがいなのかよ?」
「そうとも、だって……オニってのはそういうもんだろ? そうでもなきゃあ――いや。いいさ。別にわかってもらおうってんじゃあない。私はただ、今この時を。この戦いを目いっぱい楽しみたいだけなんだ。ついでにあんたにも、同じように楽しんでもらえたらそれが最高だ」
「……、」
「ふふふ、いいよ。言葉はいらない。気持ちってのは口より余程雄弁に拳が伝えてくるもんだ。私の偽界はそれに打ってつけの世界だよ――『陰骨雅月』は一切の能力を封じる偽界! あんたも私も裸一貫で! スキルも魔法も捨て去って! 最後の殴り合いと臨もうじゃあないか!!」
「何ぃ……!?」
りぃん、と天上の月が鳴った気がした。




