291.忘れはしない
見ることしかできねえってのは……そう決めたのは自分のはずなのに、思った以上にもどかしいもんだった。
「グラウ!」
「この……しつ、こい!」
苛立ち混じりの拳がドラッゾに突き刺さる。その衝撃に揺れながらもドラッゾは負けじと自分も拳を返した。冷気のオーラを纏っているドラッゾの攻撃は全て氷属性が上乗せされている。
だがそれを加味しても、一撃の威力はドレッダのほうが上のようだった。
「――こんなもの!」
「グラッ……、」
ドレッダも返しの一発。重い。ドラッゾのそれより確実に。竜としても竜人としてもあいつにほうがドラッゾより上だってのは間違いねえみてえだ。背丈で勝っていて、身体の使い方も堂に入っている。そんな相手と殴り合いをするのは無謀なんてもんじゃねえ、が。
ドラッゾにだって負けてねえもんがある。
「グゥ、ラウッ!」
「っ、がは……!」
決して引かない。何発、何十発、何百発殴られようとも。
ドレッダの拳に顎を打ち抜かれて沈んだかに見えたドラッゾだが、そこからなんと殴り返す。ボディブローを食らって歪むドレッダの表情はもはや苛立ちよりも恐怖のほうが色濃い。
これだぜ、まさにドラッゾの強さってのは。
体格でも技術でも劣る。だが何がなんでも勝ってやるっつー決意。それだけはドレッダの拳よりも何倍も重いんだ。
覚悟が生むド根性。
しこたま殴られても殴り返せる秘密がそこにあった。
「な、何故こうまで……! とっくに死んでいるはずなのに、どうして……!?」
俺にはその理由がわかるが、ドレッダにはわからない。記憶をなくした今のあいつじゃ、それは解きようのない謎だ。だから恐怖する。恐れる。
自身の敗北に怯えている。
いかにもゾンビって感じに粘るドラッゾの奮闘でドレッダのほうも体力の底が見え始めている。まぁ、暴れぶりで言ったらあいつのほうが凄かったからな。縦横無尽に素早く飛び回ってドラッゾを滅多打ちにしたあの技は観戦してるだけでも寒気がしたほどだ。
そいつを三度も食らった結果が今のこの状況だ。
疲れ果てて機動力を失った二人は、もう自在に空を翔けることはできない。
宙に浮いたままではあるがやってるこたぁ地上で足を止めて殴り合うのと何も変わらねえ。
格闘戦に一日の長があるのはドレッダのほうだが、だが得意らしいドッグファイトができなくなったってのは、そんだけドラッゾにとって戦況が優位になったってことでもある。
ただまあ、ドラッゾ本人はどっちが優位云々なんざ端から頭にねーんだろうがよ。
「あり得ない! 私が、あなたに……あなたに負ける訳には!」
恐怖を振り払うように繰り出した一撃。それはしっかりとドラッゾの顔面を捉えたが。
「ッグァ……、グラァ!」
「っ……!」
首が捥げるんじゃねえかと言うほど押されながらもすぐに姿勢を戻し、反撃。そしてそれだけじゃ終わらねえ、続けざまに二発三発とドラッゾの殴打が決まった。
「か、はっ……、」
「グラァ……グラウッ」
ドラッゾは泣いていた。冷気によって一瞬で凍り付いちまうんでわかりにくいが、確かにやつは涙を流してる。
そりゃこんだけボロボロになってたら涙のひとつやふたつくらい出るってもんだ。けど、たぶんそうじゃねえ。泣いてんのは体の痛みなんかが原因じゃねえはずだ。
殴られて痛いからじゃねえ。殴った痛みが涙を呼んでるんだ。
傷付いていくドレッダの痛みを、悲しんでいる。
そうさせなくちゃいけねえ自分の弱さを嘆いている。
勝負の最中だってのに泣きべそをかくくらいに。
しかしそれでもやると決めたからにはやり遂げる。ドラッゾには一人の男として――いや、気高き一匹の雄として。そして夫としての矜持を見失っちゃいなかった。
「っがぁ……!」
「グラッ……!」
互いの拳が交差し、ぶち当たる。竜虎ならぬ竜竜相打つクロスカウンター! あれはどっちにもとんでもなくキくぜ。そう思った俺の読み通り、あんだけ休みなしで打撃の応酬を繰り返していた二人が、そこで初めて動かなくなった。
「く、そ……、」
「グ、ラゥ……」
両者ともに相手がへたれてる今が好機と感じている様子だが、肝心の自分もへたれちまってるからな。
何もできないし、何も起きない。
ただ見つめ合うだけの時間だ。
いよいよもって訪れた限界。この一呼吸の間で先に回復したほうが絶大なチャンスを握る。
「ふ、ふふ――」
「!」
笑みを零すドレッダ。必死に敗北を遠ざけようとしていたさっきまでとはまるで違う表情。その意味は、大きく腕を引いたあの体勢を見りゃ嫌でも伝わってくる。
やはり地力の差がでけえのか。あいつのほうが先に一発分の体力を取り戻しちまった……!
「よくやったものだと、よくぞやってくれたものだと少しは褒めて差し上げましょう。煤払いなどとんでもない。ドラッゾと言いましたか……あなたほどの強敵はいませんでした」
「……!」
「過去の私やあなたのことは知りませんが。今の私は、今のあなたを忘れはしないでしょう。この勝負、この一時、この瞬間を。そして――決着のこの一撃を」
竜鱗が、震える。
それは筋肉の膨張、だけじゃなくありとあらゆる力を一本の腕に集中させたことで起こっている。そう、ありとあらゆるものをだ。腕力や魔力だけじゃない。そこにはきっと、勝負の始まりにはなかった特別な感情も込められているんだろう。
「――『竜撃』!」
「ッグラ――……、」
いくらドラッゾが疲労困憊の極みだからって、ああも無防備に食らっちまったのは目を奪われてたからか。
ドレッダのその一撃。
嫁さんの放つ至高の一撃に。
死んでも蘇って取り戻そうとするほど嫁バカのドラッゾなんだから、そりゃあ見惚れるのも当然っちゃ当然かもしんねえな。
「終わってみれば。苛立ちこそしましたが、なかなか楽しい時間でもありましたよ――」
二度とご免ですが。
呟くドレッダはもう、己が勝ったものと思い込んでいる。そんだけ絶対的な手応えがあったんだろうよ。
あんなもんを真正面から受けてドラッゾが持ち堪えられるはずはねえ。味方の俺だってそう確信するほどだ……でもな。
そんな常識的な予想なんか覆してくれると俺は信じてる。
なあそうだろ――ドラッゾ!!
「グ、ラウ……ッッ!!」
「なっ――!?」
まるで俺の心の声援が届いたかのようにドラッゾが息を吹き返した。
ぐったりと落下し始めていたところから一転、意外なほどの俊敏さでドレッダに組み付く。その姿はまさに映画に出てくるゾンビさながらだ。
さっきまでみてえに殴り返さなかったのは、それができなくなってるからだろう。持ち堪えてはいても持ち直せてはいねえ。ドラッゾにはもう殴れるだけの力すら残されていねえんだ。
へとへとになるまで喧嘩してみりゃわかるが、体力が底をついた状態で出すパンチやキックのどんだけキツイことか。ましてやあんなに傷付いた身体じゃいくら根性があっても無理なもんは無理だろうぜ。
だがドラッゾはクリンチに逃げたわけでもなけりゃ時間稼ぎをしてるわけでもねえ。
あくまでもあいつはやり返すために。
自分の手で決着をつけるためにああすることを選んだんだ。
「グラァ――グッッラァウ!!」
「っ! あなた、まさか……?!」
殴りたくても殴れねえし、飛びたくても寄りかかってなきゃ浮いてもいられねえ。そんなドラッゾにできることと言えば、落ちることくらいだ。――だったら落ちればいい。
ドレッダもこのまま巻き込んで、夫婦一緒に思い切り落ちちまえばいい!
「グ、ラァ――!」
「……!」
組み付いて抱き着いてしがみつく。そして天地をひっくり返してのダイブ。
決死のその策にドレッダは抗うすべを持たなかった。
取り戻した体力はトドメのつもりで放ったあの一撃で使い果たしている。
あれじゃ抵抗したくてもできやしねえだろう。
だけど。
死に物狂いのドラッゾの最後の攻撃をすんなり受け入れたように見えたのは、本当に疲労だけが理由だったのか。
墜落の直前、ドレッダの両腕がそっとドラッゾを抱きしめ返したようにも見えたのは、引き離そうとしたのを見間違えた俺の目の錯覚でしかないのか。
俺にはどっちもわかんねえ、が。
きっとドラッゾならわかってるはずだと、なんとなくそう思えた。
――二人の竜人の戦いは終わった。




