139.『邪智煩悩』のエニシ
大急ぎで駆け上がった階段の先。
だだっ広くて何もないそのフロアは、壁の一面だけが大きくくり貫かれて外がよく見えるようになっていた。
建物に入る前に確かめたときはこんな構造じゃなかったはずだが、壁の一部が開閉する仕掛けにでもなってたようだ。
そこから外を見ていた白衣の女が、ゆっくりとこちらへ振り向く。
そいつは息を切らしながら立つ俺を一目見て、妖しい微笑を浮かべた。
「あらあら。貴方だけが来たのねぇ。そういう展開も想像していたけれど、意外と言えば意外。あのエンタシスは貴方を捨て駒にしたのね……私をどうしても足止めしたいがために」
くすくすと吐息を零す女は、一見すれば無邪気な美人。だがその本性――嗜虐的な性根ってやつが、俺にはよくわかる。
「まあ、選択としては正しいわ。あまり待たされるようならルーちゃんに乗ってここを離れようかとも考えていたもの」
言いながら、女は自分の横に佇む首の長い鳥のような化け物を撫でた。気持ちよさそうに鳴くソレが、ルーちゃんとやらか。もう一方の横手にはマントヒヒみたいな頭を持つ筋骨隆々の猿の化け物まで控えているぞ。
ひとしきり怪鳥の毛並みを整えた女は、呼吸を整える俺に視線を戻した。
「ふふ……皆、盛り上がっているわよ。ペットたちの目を介しての観戦もまあまあ楽しめたわ。シュルストーとナキリちゃんの対決も、時期こそズレたけれど概ね予定通り。本当はもっとナキリちゃんが強くなってからのほうが良かったんだけど……そこはエンタシスが加わったぶん、逆にシュルストーが劣勢ねぇ。貴方の目にはどう映ったかしら?」
「委員長とスレンさんが勝つ。そして元のナガミンせんせーを取り戻すさ」
「あはは! そうなってほしいっていうただの願望じゃないの! 誰もそんなことは聞いていないんだけど――でもいいわ。貴方らしい。破竹の勢いで冒険者ランクを上げていく新参パーティ『葬儀屋』……私の網から聞こえた通りの人間性。期待通りのお答えとも言えるわね」
「俺たちを知ってんのかよ」
ある疑惑を強めた俺だが、女の返答はそれとは少し違うものだった。
「ええ。ここは貴方の拠点であるポレロとそこまで離れていないもの。中央都市にはまだアンダーテイカーの名も届き切ってはいないでしょうけれど、近隣地方には十分知れ渡っているわよ。当然、ユニフェア教団の信徒。つまり私のペットの耳にも入ってくる」
網とはそういう意味か、と信徒をペットと宣う女の言い分に顔をしかめた俺に、それを読んだようにますます嗜虐的な雰囲気を強めながら。
「でも貴方の懸念は、至極正しい。網の調査を抜きにしても私たちには浅からぬ関係がある……だからこそ。貴方たちがそうだと気付いたからこそ、私はここで待っていた。そうでなければ適当にペットをばら撒きながらとっくに逃げていたわ。エンタシスの相手なんて面倒くさいだけで、現状メリットなんてないもの」
「そうかい、そいつぁお待たせしちまって悪かったな。んで? 浅からぬ関係ってのが何を指すのかも教えてもらいたんだが」
「あらぁ、わかっているくせに……『死の呪文書』。盗ったでしょう、貴方たち。それだけじゃないわ。私のロウちゃんも殺したわね。せっかくあれだけ育ったのに、酷いことするじゃない」
「!!」
ネクロノミコン……! ここでその名が出てくるってこたぁ、そういうことなのか。
「あの山みたいに馬鹿デカいムカデ! ロウちゃんってのはあいつのことを言ってんだな!?」
「ええそうよ。あの子も私のかわいいペット……シュルストーと同じ主力の一匹だった。ネクロノミコンを回収させて、ついでに街のひとつも壊させるつもりだったのに、まさか返り討ちに遭うだなんて計算外だったわ。私の力を発動させて元気に暴れているかと思えば、突然ぷつりとリンクが切れてとっても驚いたのよ? しかも最後のやられ様もなんだか不可解で……でも、その謎も解けた。貴方のお仲間の子。随分とネクロノミコンを使いこなしているようね」
目を細める女は、俺を見ながらも別のどこかを見ているようにも感じた。おそらくペット越しに下の階層で戦ってるメモリのことを眺めているんだろう。
「うふ……私から奪ったアイテムで威勢のいいこと。ドーントレスホロウの養殖場を壊して、ロウちゃんまで奪って。手隙だったらまずポレロへ向かったことは間違いないわ。でも、ほら、わかるでしょう?」
腕を広げる女。自分を見せて、そしてこの建物を見せる。
「私もこれでけっこう忙しいのよ。盗人なんかにかかり切りにはなれない。だからひとまず放っておいた。……ふふ、それがまさか、こんな形でご対面とはねぇ」
「おう、俺だって意外だぜ。お前がネクロノミコンの前の持ち主で……あの迷惑なムカデを差し向けた元凶でもあって。そして! こんなくそったれな宗教なんぞで人を食い物してるのもてめえだってことに……! 俺ぁド頭にきてるぜ、腐れババア!!」
もう我慢の限界だ。ちょっと話しただけがそれでもこいつのことはよくわかった。自分の犯行を知る人間を前に一切悪びれないこの態度。むしろどことなく自慢げですらある始末――こいつは終わってる。
方向性は多少違うが、この異質な感覚はインガから放たれるそれと同質のもんだ。
つまりは絶対悪。
自身の価値観こそが最上位にあり、それに沿ってさえいれば何をしたっていいと思ってる。
道徳心なんてお偉いもんは欠片たりとも持ってねえ……こいつはそういう女なんだ。
「【武装】、『不浄の大鎌』……かかってこいよ外道。俺がてめえに相応しい地獄を見せてやる」
スレンや委員長の加勢を待つなら少しでも会話を引き伸ばすべき。
そう訴える理性も頭のどっかにはあったが、んなこと無理だ。
インガだけじゃねえ、こいつもまた――俺がぶっ飛ばさなきゃならねえ奴だと本能が叫んでやがるからなぁ!
「ふ――くく――あはぁ――あははっはっはは!」
本気の殺意を抱く俺に、しかし奴は大笑する。
「心地いい殺気じゃないの、坊やぁ! かわいい顔してその眼! 面白いわ、俄然貴方個人へ興味が湧いてきた!」
けれど勘違いしているわ、と女は引き笑いをしながら告げる。
「かかってこい? ノンノン、ナンセンスよ坊や――ゼンタ・シバ。冗談にもなっていない。かかってくるのは、貴方のほう。私にその刃を届かせたければ……持てる全てを捨て去る気で挑んできなさい。その眼だけを力強く最期まで輝かせて、そして私の手の中で息絶えてちょうだい。敗北と無念の汚泥に包まれた貴方の躯は、安心して、私がちゃぁんと有効活用してあげるから。爪の先から髪の毛一本に至るまで。余すことなく玩具にしてあげるからねぇ!」
ドボドボドボドボドボドボドボドボドボドボ!
興奮しながら広げられた奴の白衣。
その内から泥の塊みてーなもんがいくつも落ちる。
べちょりと音を立てて地を転がったひとつひとつは手の平サイズで小さいそれらが、ぼごりと膨らむ。
明らかに元の質量とは比べ物にならないサイズにまで大きくなり、そしてぐにょぐにょと見えない大きな手にこねられるように形を変えて――それぞれが人間大の化け物の姿となった。
ざっと十数体の異形たち。
ただの魔物とも違うそいつらは全員、涎を垂らしたり唸り声を上げたりしながら俺のほうを見ている。
しかも、女の横の怪鳥と怪猿ものしのしとこちらへ近づいてきた。
「これはゲームよ。私が楽しむためのゲーム。貴方にとっては命懸けの死亡遊戯……ふふ。結末の決まった勝負に、それでも貴方は気高く挑めるかしら? その正義の心に従って、ね」
ペットに守られてご満悦の女。その顔を真っ直ぐ見返しながら俺は鼻で笑ってやる。
「あらぁ? 何がおかしいのかしら」
「正義の心なんてワードがよぉ、どうにも笑えんだよな。お前のほうこそ勘違いしてやがる」
「……聞かせてほしいわね。私がいったいどんな勘違いをしているのか」
「簡単さ。こっちは正義なんかで動いてねえってこった。俺は単に生かしてたってこの世に害しかねえゴミみてーなお前を。潰して掃いてゴミ箱へ捨てるだけ。そのつもりでここにいんだよ。――自分が正義のヒーローに倒されるような大層な人物だなんて思い上がってんなよ、ブスが!」
「ふ、ははは! いいわね、イラつかせてくれるじゃないの。ますます貴方の絶望が楽しみになる!」
ばさりと白衣をはためかせて、女は初めて俺だけを見た。
「名乗りましょう。魔皇様が配下、逢魔四天が一人『邪智煩悩』のエニシ。種族はアカシコネよ」
「Bランクパーティ『葬儀屋』のリーダー、柴ゼンタ。てめえを倒す人間だ」
逢魔四天との勝負が、始まった。




