身代わり令嬢と銀の守護
ジュリアが皇太子の婚約者であるカレンの身代わりを務めることになった第一の理由は、髪色が一緒ということだった。
腰まで伸びた艶のある金髪。背丈も体付きもほぼ同じ。後ろ姿だけ見れば、ジュリアかカレンか咄嗟に判断が付かないかもしれない。
「君を危険な目に遭わせてしまうかもしれないが、どうしても助けて欲しいんだ」
一国の皇太子に頭を下げられて、断れる臣下がどこにいるだろう。
かくしてジュリアはカレンに成り代わり、“花嫁の宮”に入ることとなったのだ。
代々の婚約者は結婚式までの半年を、この宮で過ごすしきたりとなっている。ここにいる間に皇太子妃教育の最終仕上げを行い、体の隅々まで磨き上げられ、結婚式に備えるのだ。
また万に一つの間違いが起こってはいけないため婚約者の外出は禁じられ、式の当日まで宮は男性の立ち入りが一切禁止となる。婚約者である皇太子ですらも入ることは許されないのだ。
「やつらが仕掛けてくるなら、宮に入っているときしかない」
それが皇太子らの考えだった。
「結婚式まで半年。その間になんとかしなければ、奴らの野望は永久に叶わない。きっとなり振りかまっていられないだろう。だからジュリアには半年間、カレンの振りをして“花嫁の宮”で過ごしてもらい、その間我々の方で証拠を掴む」
ジュリアは無言で首肯した。
皇太子は心底辛そうな表情を浮かべると「すまない」と謝罪した。
「いいえ、よいのです。此度の計画はわたくしの方から提案したことですもの。お気に止まれませぬよう」
「しかし、今回の計画は君の身に多大な危険を及ぼす可能性がある。最悪の場合、命を落とすかもしれない」
「そんな危険があるのならなおさら、カレンを“花嫁の宮”に行かせたくはありませんわ。彼女はわたくしの一番のお友だち。カレンの窮地を救えるのでしたら、わたくしは喜んで囮になりたいのです」
ジュリアは花が綻ぶような、可憐な笑みを浮かべた。
そんな彼女に、皇太子をはじめ一同の顔が曇る。
子爵令嬢のカレンと伯爵令嬢のジュリアは王立学園時代のクラスメイトで、一番の親友だった。
家の格に多少の違いはあるものの、そんなことは関係なしいつも寄り添うように過ごしてきたのだ。
そんなある日、どんな運命のいたずらが起きたのか、カレンは皇太子であるクリストファーと恋に落ちたのである。
二人の恋愛を隠すため、ジュリアやクリストファーの側近らも常に行動を共にし、あたかも単なる仲良し集団であることを装った。
当時はまだ皇太子妃候補を選定中だったクリストファーは父である皇帝に、カレンを己の婚約者にしたいと直訴。そのための条件として、厳しい課題を提示されたのだが、彼はカレンを娶るため死に物狂いでそれをクリアした。
かくしてカレンは学園卒業と同時に公爵家の養女となり、クリストファーの婚約者となったのである。
しかし婚約者候補に挙がっていた貴族たちは、それに納得しなかった。
皇太子妃には子爵家の娘よりも、自分たちの娘の方が相応しいと皇帝に訴えたのだ。
だが皇帝はその意見を一切聞き入れることをしなかった。
怒った貴族たちは、ならば……とカレンを害することにしたのだ。
最初は脅し程度。しかし次第に手口は過激化し、一歩間違えば命を落としかねないような状況に陥ることも一度や二度ではなくなってきた。
これに怯えたカレンのために、クリストファーは卒業後領地へ帰っていたジュリアを呼び、婚約者の話し相手になってくれるよう要請。彼女はそれを喜んで承諾し、カレンの身を守るように、常に付き添い続けた。
そしてついに結婚式まで残り半年。
カレンが“花嫁の宮”に入る時期がやってきたのだ。
「奴らが恐らく、カレンが宮にいる間に何か仕掛けてくるだろう」
それは予感ではなく、ほぼ確信に近いことだった。
カレンのために厳重な警戒態勢を取りたい。しかし宮は男子禁制だ。腕の立つ兵士すら入れることはできない。
だからジュリアは言ったのだ。
「わたくしをカレンの身代わりとして宮に入れてください」――と。
顔は似ていないが、髪型や体形などは一瞬カレンと見間違える自分が宮に置き、カレンは誰にも知られないようどこかへ隠れ住んでもらえば、身の安全は計れるだろうと提案したのだ。
カレンやクリストファーはこれに反対したが、ジュリアの決意は固かった。
度重なる話し合いの末、一つの条件を出したうえで、ジュリアの宮入りを許可したのである。
とはいえ二人の顔は全く似通ったところがない。宮の中に敵の内通者がいた場合、一目で別人と見破られてしまうだろう。
カレンが宮にいないとわかれば、敵は血眼になってカレンを探し出そうとするかもしれない。そして見つかり次第、さまざまな悪意がカレン本人に向けられるのは、火を見るよりも明らか。
そのため顔に酷い湿疹ができたと偽って、宮の中でも常にベールを着用できるように手筈を整えたと、皇太子は話した。
「それから君に、従者を一人付けよう。侍女の名目で宮入りをさせるが、君の護衛を務めさせる。腕は立つから安心してくれ」
「……っ! そんなことまでしていただくわけには!」
「遠慮は無用だ。何かあったらこの者を頼るといい」
「本当に、よろしいのですか?」
「もちろんだ」
かくしてカレンに扮したジュリアは侍女を一人だけ伴って、“花嫁の宮”に入ったのであった。
**********
そして半年が過ぎ、明日はいよいよ宮を出る。
早朝には馬車に乗り込み、宮殿へと向かう。そこで密かにカレンと入れ替わるのだ。
――この半年、本当にいろいろなことがありすぎた……。
ジュリアは思わず深いため息をついた。
食事に毒を入れられることは、もはや日常茶飯事である。
毒味のために用意した水槽。その中に入れられた魚は、一体何匹命を落としたことだろう。
あまりの恐ろしさにジュリアの食欲は減る一方。次第に窶れ、儚さが増していった。
密かに差し入れられた食べ物がなければ、ジュリアはとっくに餓死していたかもしれない。
ほかにも階段に蝋が塗られていたり、頭上に物が降ってきたり、寝具の中で毒蛇がとぐろを巻いていたり……。
ジュリアの精神は限界に達していたため、この一日を乗り切れば無事に出られると思っただけで、肩の荷が下りる気がした。
「……それにしても本当に、ここにいるのがカレンでなくてよかったですわ」
ジュリアはそう言って安堵の息を漏らした。
大切な友人であるカレンが危険な目に遭ったかもしれないと思うと、ゾッとする思いだ。
「明日、カレンと入れ替わったら、わたくしの役目はおしまい。以前クリストファーさまは“花嫁の宮”を出たらどうするのかとお尋ねになられましたけれど……わたくしはこのまま領地へ戻ることになることでしょう。皇太子妃になったカレンとわたくしとでは、もう身分が違いますもの……」
そして親が決めた男の元へ嫁ぐことになるだろう。
ジュリアの顔に、寂寥の笑みが浮かぶ。
彼女の家は伯爵家とは言え、その末席にしがみついているようなもの。皇太子妃となるカレンとは、これまでのようにいられない……それは、カレンがクリストファーと恋仲になった当初からわかりきっていたことだ。
だからせめて、まだ対等な立場でいられる今、窮地に立たされた親友のために一肌脱ぎたい。
そう思った。
――それから、もう一つ……。
ジュリアが今日までの日々を耐えられたのは、ひとえに侍女の存在があった。
侍女に励まされ、支えられてきたおかげで、修羅のような日々を耐えられることができたのだ。
自分一人ではきっと、この地獄を乗り切れなかっただろう……ジュリアはそう追懐した。
――この半年間の思い出を胸に……私は嫁ぐことにしよう。
胸に宿った温かい思い出を胸の宝箱に仕舞って、新たな人生を歩むのだ。
そんなことを考えていたとき、静かな部屋にカタンと小さな音が鳴った。
その音に、ジュリアの肩がピクリと跳ねる。
――誰か、いる?
天蓋の外に意識を向けると、明らかに人の気配がする。
しかも一人二人ではない。
――来た。
最終日の夜。
もはや時間がないと悟った敵が、刺客を送り込んだのだろう。
予想していたこととは言え、恐怖で全身がガクガクと震える。
――怖い……!
ギュッと拳を握りしめて震えるジュリアを、侍女がソッと抱き寄せた。
片方の手で枕元に忍ばせてある剣を掴み、もう一方の手でジュリアの手をソッと包み込む。
「大丈夫。私があなたを守ります」
小さく呟かれて、ジュリアの緊張がほんの少しだけ解れた。
「私を信じてくださいますね」
そう言われて、コクリと頷いた。
――大丈夫。この方は約束を違えたことなどないもの。
この半年、何度も命を助けてくれた。
だからきっと、今回も大丈夫……!
バサリと大きな音を立てて、目の前のカーテンが開かれる。
その向こうに剣を手にした黒ずくめの男たちが見えた。
「皇太子を誑かした毒婦めっ!」
振りかざした剣が、天蓋の中にいるジュリアに向けられる。
しかし、ジュリアと侍女を見た男たちの動きがピタリと止まった。
「お前は……ルーカス・アンダーソン!」
剣を手にジュリアを守っていたのは、皇太子の側近中の側近、ルーカス・アンダーソン。
男子禁制の宮に彼がいたことに、闖入者たちは驚愕した。
「なぜ、お前が!?」
「この女、カレンではないぞ!」
賊らの間に激しい動揺が走る。
そのとき、背後のドアがけたたましい音を立てて開き、大勢の兵士が部屋になだれ込んできた。
「剣を捨てろ!!」
全面に剣の腕は帝国一と恐れられているルーカスを、そして背後に兵士たちに囲まれた男たちはもはやこれまでと観念し、剣を捨てて大人しくなる。
にわかに騒がしくなった室内で、男たちが縄で縛られていくのを、ジュリアは呆然と見つめた。
「大丈夫ですか? ジュリア嬢」
ルーカスが心配そうな顔で彼女を見下ろす。
「はい。皆さまのおかげで傷の一つもおわずに済みました。それにしても……なぜここに兵士が? しかも男性だなんて……」
「私同様、あなたを守るために皇太子殿下が手配されたのですよ」
ジュリアが半年間無傷で過ごせば、焦った敵は必ずや強硬手段に出るだろう。
そう思い警戒を強めていたクリストファーの元に、貴族の一人が荒くれ者にカレン殺害を依頼したと言う情報が入った。
そこで彼は皇帝に懇願し、秘密裏に兵を入れる許可を得たのだった。
「あれだけの人数、私だけでは対処できなかったかもしれません。兵を派遣してもらって本当によかった」
ルーカスは腕の中のジュリアを引き寄せて、その髪にくちづけを落とした。
「……っ!!」
突然の出来事に驚いて動きを止めたジュリアを見て、「ルーカス」と兵士の一人が声をかけた。
「なんてことしてるんだよ、お前は。ジュリア嬢が固まってるだろうが」
「申し訳ない、ジュリア嬢。けれどどうしても、あなたを想う気持ちが抑えられなかった。あぁ、そんなに頬を染めて……ダリル、お前はこちらを見るな。ジュリア嬢が減る」
「減るってお前な……俺とジュリア嬢で態度が違いすぎるんじゃないのか?」
「そんなことはない」
「ないわけがないだろう! ったく、さすが宮まで同行してジュリア嬢を守ると言い張っただけのことはあるな」
“花嫁の宮”に行くと言ったジュリアを、周囲は猛反対して止めた。
何しろ宮行きは、命の危険を伴うのだ。
しかし親友を思うジュリアの心根に感銘したルーカスが、「自分が護衛として付いて行くから」と、皆を説得したのだった。
だが宮中は男子禁制。そこでクリストファーが出した条件が。
「侍女の格好をして宮入りするなら許すと言われて、『わかりました』なんて即答するとは思わなかったぜ……」
「ジュリア嬢のためならば、女装だろうが全裸だろうが、どんな格好でも厭わない」
「お前って、本当にたまに凄いよな……」
ルーカスとダリルの会話を、ジュリアはいたたまれない思いで聞くしかなかった。
侯爵家に生まれ、幼いころから皇太子の側近として仕えていたルーカス。剣の腕はもちろん、帝国一の美男子として数多の女性を虜にしている彼が、まさか学園時代の一時を共に過ごしたというだけで、自分のために女装までしてくれたのだ。今振り返っても、信じられない思いしかしない。
「とにかくこれで全て片付いた」
「おい、待て。たしかに賊は捕まえたが、その背後にいる今回の首謀者たちはまだ捕まえていないぞ」
「それはお前の仕事だろう、ダリル。俺の役割はジュリア嬢の身の安全を守ることだ」
「手伝ってくれないのかよ!」
「俺はこれから、ジュリア嬢の心のケアという大事な仕事が残っているからな。あとは任せたぞ」
言うが早いか、ルーカスはジュリアを横抱きに抱えると、そのまま宮を出て馬車に乗り込んだ。
「あのっ、ルーカスさまっ!?」
静かに走り始めた馬車の中で、ジュリアは慌てるしかなかった。
なぜ自分は馬車に乗せられているのだろう。朝まで宮にいる必要はなかったのだろうか。
カレンとの入れ替わりは?
頭の中は疑問符でいっぱいだ。
「もう大丈夫ですよ、落ち着いて」
ルーカスはジュリアを宥めるようにその背を撫でたが、そんなことで落ち着くはずがない。そればかりかどんどん心拍数は上がっていく一方だ。
「あの、これからどこへ行くのですか?」
ひとまず行き先と、今後についてを確認しなければ……。そう思って尋ねたジュリアだったのだが、ルーカスの「私の屋敷に参ります」と言う言葉に、目を見開いて絶句するしかなかった。
「私の家へ行くのはお嫌ですか?」
「い、いえ……と言うかなぜ、ルーカスさまのお屋敷に?」
「だってそうしなければ、あなたは領地へ帰ってしまうでしょう?」
「それは……そのつもりですが……」
「けれど私はあなたを絶対に逃がしたくないのですよ」
「え……?」
「あなたは知らないでしょうが、クリストファーさまがカレン嬢を見つけるきっかけを作ったのは、実は私なのですよ」
それは彼らがまだ学園に通っていたころ。
園内をカレンと談笑しながら歩くジュリアを、ルーカスが見初めたことから始まった。
「あなたのことを洗いざらい吐かされまして、挙げ句に相手をこっそり見に行こうとなったのです。そして物陰からあなたたちをこっそり見た瞬間、クリストファーがカレン嬢に一目惚れをして」
その後はジュリアもよく知るところである。
皇太子とその側近たちに突然声をかけられて、緊張のあまり固まるジュリアとカレンだったが、彼らは身分など関係なしに気さくに接してくれて、気付けばクリストファーたちの友人というポジションに収まっていたのだ。
その後クリストファーはカレンに愛を告白。
ついには皇太子妃の座に納まることになったのだが。
「卒業後はあなたもカレン嬢と共に帝都に残るのかと思っていました。それなのに誰にも告げず、一人で領地へ帰ってしまうなんて……あのときの私の気持ちがおわかりになりますか?」
「い、いえ……いっこうに……」
「慎ましやかなあなたに合わせて、ゆっくり事を進めようと思っていましたが……それでは駄目だと気付きました。だから再び帝都に来たあなたを、もう離さないと決めたのですよ」
「それはつまり……」
どう聞いても愛の告白にしか聞こえない。
しかしジュリアはそれを受ける勇気がなかった。
侯爵家子息で将来有望なルーカスと、しがない伯爵家の令嬢であるジュリアとは、身分が違いすぎると思ったのだ。
「拒否するだろうことは、想定済みです。だから私の家で心ゆくまでゆっくりと話し合いをさせていただこうかなと思って、ご招待したのですよ」
「ご招待って……」
これは絶対に違う……! そう言うジュリアの言葉を、ルーカスは聞き入れようとはしなかった。
「もしもあなたが私に対して、友情以外の気持ちを持たないのでしたら、私もスッパリと諦めます。……どうですか。私たちの間にあるのは、本当に友情だけですか?」
そう言われて、ジュリアは黙るしかない。
本当はジュリアも学生時代からずっと……それに彼はこの半年間、ずっとジュリアを支え続けてくれた人。
友情が恋心に、恋が愛情に変わって行ったのは、仕方のないことだろう。
黙り込んだジュリアを見てルーカスは満面の笑みを浮かべて
「私たちのこれからについて、語り合いましょう。幸い時間はたっぷりあります。その間に私がどれだけあなたのことを想っていたか、全て知っていただきますから、ご覚悟くださいね」
ルーカスのそんな言葉と共に、馬車は屋敷の中へと消えていったのだった。