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第1話 安らかな死か、惨めな生か


 あれから何日が過ぎたのだろう。昼も夜も、目を閉じていても、目を開いていても、変わらぬ闇に捨て置かれたのはいつのことだったか。


 両腕を壁の鉄鎖に繋がれて、横になって眠ることもできない。最初の数百回は、腐った残飯が出された回数を数えていたが、もうやめてしまって久しい。

 糞尿を垂れ流したまま、犬畜生以下の扱いで飼われている。恨みや怒りなどは、とうに擦り切れて、どこかへ消えてしまった。誰でもいいし、何でもいい。ここから外へ!


 もはや声の出し方も忘れて、無言で、何百回か何千回目の叫びをあげた。今回も何者にも届かないと思えたが、蝶番の軋む音とともに、ひどくゆっくりと、鋼鉄の扉が開いて、久方ぶりの光に、ぎゃっと呻いた目に映ったのは、小さく揃えた〈血まみれの聖母〉の両足だった。


 よく生きていたわね。と、冷たい声が聞こえる。首をあげる気力もなく、その足元だけを見ていると、ばらばらと、いくつもの足、足、足。狭い牢獄がいっぱいになる。


 ヘッ、クセェな。生きてんすか、これ。


 ふぅん、これが〈狼の皮〉ねぇ。痩せっぽちのガキンチョじゃないか。


 にゃはは、意外と可愛いじゃん。


 何人もの軽薄な声が、新鮮な空気に混じって響く。自分で見なくてもわかるくらいには、いまにも死にそうな囚人を前に。人でなしどもの集まりなのだろう。


 続けて、頭から冷たい水をぶっかけられた時には、本当に心臓が止まるかと思った。そのまま、わしわしと体を洗われて、鉄鎖の鍵を外された。

 体を支えるものがなくなって倒れ込んだ先で、〈血まみれの聖母〉に受け止められた。華奢な見た目と違って、思いの外、肉感的で力強く、軽々と持ち上げられた。まだ臭いわね、とのつぶやきが聞こえ、それを最後に気を失った。


 目がさめると、獣臭い厩舎にいた。


 鉄鎖から解放されても、まだ満足に体が動かない。無造作に、馬草の上に転がされていた。馬の匂いと草の匂い、その息遣い、また落ち着きなく歩き回る足音、鼻を鳴らす音。静かで落ち着いた場所とは言い難い。

 仰向けに倒れたまま目だけを開く。それに気付いてか、〈血まみれの聖母〉が近付いてきた。目が覚めたのね? 覗き込むように顔を寄せてくる。真近に迫った唇からもれる、あたたかい吐息を感じる。


 ゲヘヘ、こいつ勃起してやがる!


 〈血まみれの聖母〉の手元から、下卑た笑い声だ。それを聞いた〈血まみれの聖母〉は、ふっと笑いながら立ち上がると、そのモノを踏みつけ、さすが〈狼の皮〉ね、と吐き捨てるように言う。


 ゲヘヘ、そう言ってやるな。獣は死ぬ前に子孫を残そうとするものさ。オレが人間なら、おまえみたいなイイオンナを放っておきゃしないぜ。

 修道服なんぞ脱ぎ捨てて、獣欲に溺れてみろよ。目の前に、いいオモチャがあるんだからよ。


 〈血まみれの聖母〉は、手にした大剣を持ち上げ、地面に突き立てた。それは、まだ下卑た笑い声をあげている。小柄な身体に見合わない大剣で、戦場では歓喜の笑いを振りまき、軍団を壊滅に追いやった。喋る魔剣〈忿怒の遺産〉だ。


 魔剣をそのままに、〈血まみれの聖母〉は、修道服の胸元を無造作に大きく広げ、こぼれ落ちそうな胸の膨らみの間から、ロザリオを取り出した。


 このロザリオを覚えているな?


 厳しい口調で問いかけてくる。もちろん、覚えているとも。初めての略奪品だったのだから。その後、ずっと身につけていた。


 覚えていることを、すべて話せ。


 そう促されて、どのみち選択肢などないのだから、ロザリオを手に入れた時のことを洗いざらい話した。むしろ、本当は、誰かに聞いてほしかったのだと思う。

 話している間、〈血まみれの聖母〉は、ずっと顔色を変えることもなく、冷たく、蛇のような目をしていた。ただ、元の持ち主の最期を話した時だけは、その目に怒りの火が宿り、一瞬、燃え上がったと思うと、すっと消えていった。


 聞き終えると、〈血まみれの聖母〉は不意に立ち上がった。大剣を持ち上げる。


 ああ、これは死んだな。一思いに殺してくれるなら有り難い。また穴蔵へ放り込まれるよりはいい。


 目を瞑って慈悲の一撃を待っていると、意外な問いかけを受けた。


 おまえには、2つの道がある。ここで、いますぐに死ぬか、同胞の裏切り者として、私の犬として生きるか。これ以上の説明はしない。待たない。妥協もない。安らかな死か、惨めな生か。どちらでも、好きな方を選べ。


 選ばず、無言のままでいても断罪の刃は落ちてくるだろう。だが、迷わずにはいられなかった。同胞の中でも忌避される〈狼の皮〉として生きてきて、生に価値があるとは思えないのだ。

 同様に、安らかな死に、価値があるとも思えない。生も死も、等しく価値がない。説明はしない、待たない、妥協しないという〈血まみれの聖母〉に聞くことではないのだろうが、死ぬ前に、あるいは、生きる前に、これだけ教えてくれと願った。


 ロザリオの持ち主は、あんたの家族だったのか?


 答えはなく、〈血まみれの聖母〉が大剣を構え直した。それが振り下ろされようとした時、ゲヘヘと笑い声が聞こえた。


 その通りだ。こいつの妹よ。つまり、おまえは妹の仇というわけさ。喋る魔剣〈忿怒の遺産〉が笑い立て、だまれ! と叫ぶ声を無視して続ける。こいつの犬として生きてみろよ、きっと愉快だぜ。


 その時には、そうすることを決めていたが、まだ、死ぬなら死ぬで構わないという気持ちもあって、図々しくも条件を出した。いつか犬としての働きを認めてくれることがあれば、ロザリオを返してくれと。


 〈血まみれの聖母〉から返事はなかったが、代わりに、ゲヘヘという笑い声が響いた。いいじゃないか、認めないと言い張れば返す必要もないんだからな。


 ……いいだろう。おまえは、私の犬だ。


 そう言うと、〈血まみれの聖母〉は、持ち上げた大剣をそのまま振り下ろした。激痛を感じ、首から血が吹き出る。


 ゲヘヘ、何ヶ月も牢獄にいたわりには美味い血じゃないか。いいか、これで、おまえはこいつの犬だ。このオレが一度でも血をすすったからには、いつでもおまえを殺せる。


 笑う魔剣を鞘に納めると、〈血まみれの聖母〉は、手当てをしてやれと言いおいて去っていった。


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