初の上陸、而して彼らの旅路
何と言えば良いのだろう、この感覚は。
私はこれを表す言葉を知らない。
彼が言うとおり、私は酷く悲観的なのだ。だからあの深い霧の中から抜け出せた後も、この船が陸へ辿り着けるとは思っていなかった。自分の行く道を信じることが出来なかったし、彼の言葉を信じることも出来なかった。本当に、本当に、何て浅ましい人間だろう。信じていないにも関わらず、ただ独りに戻りたくない一心で彼に縋りついたのだ。その結果、彼をも海に閉じ込めてしまうかもしれないと言うのに。私は我が儘を言ったのだ。
何て自分勝手で、卑しいことか。
そんな気持ちで漕ぎ出したせいで、本物を目の前に怖気付いているのだ。
「ほら! 岸が見えましたよ、トトー! ワタシの言ったとおりでしょう? 霧を抜けることも、陸に着くことも、不可能ではなかったでしょう? あの左手にある丘は見覚えがあります。確か付近に港町があったはず。もう少し北上してから岸に上がりましょう。トトー、船の向きを変えてください」
「………、はい…」
隣で彼が楽しそうに笑う。明るい声で、きらきらとした眼差しで、陸を見る。表情の左半分は呪符で隠されていると言うのに、私にはその半分すら眩しすぎて直視できなかった。
彼の話がただの音として耳を通り抜けていく。辛うじて聞き取れた『北上』という言葉に反応して、私は船首を北へ向けた。
海と陸の境が延々と続いている。本当に岸がある。幻ではない。岸の向こうは平地で、森の影がぽつぽつとあり、彼の言うとおり小さな丘も見えた。くるくると回っているのは風車だろうか? 草地に散らばる白い斑点は羊だろうか? 私は本当に海を抜け、再び陸を目にしているのだ。何とも信じがたい光景だった。実物を見てさえ、まだ信じられない気持ちが強かった。驚きと、戸惑いと、不安とが合わさって、有り得ないと頭が拒否しているかのようだった。
疑い深い心が闇雲に走り出す。これは、実は夢なのではないかと。いや、仮に現実だとしても、私のような亡霊は、陸へ上がった途端に不浄の者として消滅してしまうのではないかと。……ここで消えることが出来るのであれば、それも良い。けれども最悪、このまま陸に上がった場合、私は出会う人々に恐怖を与えてしまうかもしれない。人の形はしているものの、私の存在はもはや人ではない。私は人々を怖がらせたいわけでも、害したいわけでもない。だからやはり、陸へなど上がるべきではないのではなかろうか?
もしも、もしもが頭の中を埋め尽くし、私の不安が一層募る。
それは風に乗って届く土の香りが強まるにつれ、段々と大きくなっていった。
「トトー、この辺りにしましょう」
しかしそんな私に構うことなく、彼は港の陰が見えたところで停泊を申し出た。私は仕方なくガウディウム号を止め、心の準備が出来ないままボートで下ろされた。
水面が間近になり、その下に砂の海底が見える。茂る海藻が、逃げる魚が、動じない貝が、全てが近い。それらに目を奪われていると小舟は浅瀬へ到着し、彼が小さく水飛沫を上げて飛び降りた。
「さあ!」
黒い蝶のような指先が私を誘う。同じように続けと促してくる。私は勇気を振り絞って右手を持ち上げたが、臆病な左手はボートの縁を掴んだままだった。
怖いのだ。
陸に上がった自分、というものが想像できなくて。旅をする自分も、自由に出歩く自分も想像ができなくて。やはり霧の中で彷徨っているのがお似合いではないかと思われて、体が竦んでいた。ここまで来れたけれども。それでも。これ以上進めば何かに拒絶されるような気がして、怖くて堪らなかった。
嗚呼、嗚呼、だって、私が、陸に?
そんなことが許される?
今の私は海を彷徨う亡霊。
それが陸に上がるだなんて、分不相応な高望みなのではないか。
周囲の期待を裏切った私は永遠に罰を受けるべきで。
居るべきは霧に閉ざされた海の上。
こんなことは。こんな夢は。
許される?
いや、いいや……。
「トトー!」
「え? ひゃ、あああっ、……うッ!」
勢いよく水飛沫が上がる。真っ暗だった視界が一転、私は頭から浅瀬に突っ込んだ。驚きながら突っ張った手の先が、大粒の砂に埋もれた。
「あっはっは! 何て声! ふふ、どうせまた考え事をしていたのでしょう? 熟考するなとは言いませんが、そこで足を止めて動かなくなってしまうのは貴方の悪い癖ですね。悩んで結論が出ないときには動くしかないのですよ。ほら、立って。貴方はもう陸に上がったのです。手に砂を掴んだでしょう? 足の下に地面の固さを感じるでしょう? 分かったら立ちなさい。ここから町まで歩くのですから」
「う、うう……もう少し、お手柔らかに願います…」
無理矢理に顔を洗われたような、強引な手段によって、私は目が覚めた。彼に引き起こされ、砂の上に立ち上がる。足の裏に久しく忘れていた地面の固さを感じた。全身ずぶ濡れの状態だったが、私は何にも拒まれることなく、そこに立っていた。
清々しい潮風が頬を撫でていく。
「………本当に、私…」
先程までは少しも感じることの出来なかった喜びが、じんわりと胸に浮かんできた。私は今、海に漂うのではなく、海岸に立ち海を眺めているのだ。砂と石ころの大地を踏みしめ、打ち上げられた流木や貝殻に触れ、陽光に照らされて輝く海面に目を細めることが出来たのだ。
私は岸からガウディウム号を見た。あの頃には最新鋭だった、オールとマストを兼ね備えたガレー船。私とともに、沈むことも叶わず海を彷徨い続けた幽霊船。
彼の手を命綱のように握りしめたまま、私はガウディウム号を愛惜しんだ。
「玉霊、船はどうするのです? ここに泊めたままでは騒ぎになりませんか?」
「え? ああ、そうですねえ。すっかり忘れていました。いつもは売り払っていたのですが……あれは売れないでしょうし。貴方、何とかなりません?」
「何とかって……雑な…」
ふと気になって尋ねたものの、彼の回答は無責任なものだった。思わず呆れてため息が出る。けれどもそのいい加減さは今に始まったことではないので、私も彼に倣って適当に声を掛けてみた。
「ガウディウム、私はしばらく陸を行くので、貴方は霧の中へ戻っていてください」
すると不自然な程に霧が立ち込め、一陣の風とともに船が消えた。こんな事が出来るとは思ってもみなかったので、私は隣にいた彼と一緒に目を丸くしてしまった。
「やれば出来るじゃないですか」
「……いつも、願えば動いてくれるので。試しに言ってみただけなのですが…」
「ふふふ。貴方、自分で思っているよりずっと色々な能力を持っていますよ? ちゃんと自覚をして使いこなさないと勿体ないです」
「私の能力…なのでしょうか、これは……」
波が跳ねるだけになった海を後に、私たちは町へ向かって歩き出した。
***
素っ気ない海岸が続いている。
私はなぜか、彼と手を繋いだまま歩いていた。
最初は私の方が握っていたのだが、陸にも慣れて手放そうとしたとき、逆に、彼に握られてしまったのだ。妻以外とこんな風に歩くだなんて、想像したこともなかった。握られてみると、妙な気がして落ち着かない。けれども彼は驚くほど頑なだったので、仕方なしに付き合っていた。
潮の香りと、草の香りの間を歩いて行く。家畜も人も通らず、閑散とした静けさが続いている。途中、道際まで迫った森の横を通り抜けようとしたとき、バーンッと銃声が上がった。驚いた鳥たちが木々の間から飛び去っていく。
それを聞いて彼は足を止めた。
「おや、誰かが狩りをしているようですね。丁度良い。換えの体が欲しかったのです。ちょっと寄り道をしますよ」
「換え?」
「ええ。誰かさんが寂しさ余って切り刻んでしまったので、ボロボロなのですよ、この体。ふふふ」
「…あ……」
彼のセリフが、はっきりとは覚えていない、ぼんやりとした心当たりに突き刺さる。どうにも気まずくなって俯くと、彼は悪戯っぽく笑って走り出した。引っ張られた私は慌ててそれに合わせ、身を低くしたり、藪を跨いだりしてついて行く。どちらを向いても同じような景色の森を、彼は銃声の根本目掛けて一直線に走っていった。
そうして猟師の背中が見える茂みまで一息に駆け、さっと身を隠す。彼はそこで私に沈黙を促し、真珠のような白い瞳を獲物に向けた。
あ、と思う間もない。ほんの一瞬。彼がウサギのように跳ねたかと思えば、ごきりっ、という鈍い音がして猟師が地面に転がっていた。
怪異、とはきっとこのような光景を指すのだろう。知識としてしか知らなかった言葉が目の前で実演される。私が藪から出て行くと、彼は猟師を抱えて熱く口付けていた。ぞぶり、ずりゅり、と何とも言い難い水音が不気味に響く。彼だった体から色が抜け、徐々に形を失っていく。代わりに猟師だった死体は内側からぼごぼごと変質し、やがていつもの彼に収まった。
左の目玉が押し出され、そこに宝玉が嵌ってニイッと笑う。
「ン、まずまずですね。思ったより老齢でしたが良しとしましょう。これならしばらくは問題ありません。ついでに狩りの成果も貰って行きますか」
新しい体を手に入れた彼は、軽く伸びをしながらそう感想を述べた。顔に目眩しの呪符を掛け、猟師の遺品をまとめ始める。解体途中だった小鹿が捌かれ辺りに血生臭さが漂ったが、先程の光景に比べればどうと言うことはなかった。
支度の済んだ彼が、再び私の手を取って歩き出そうとする。
私はいい加減うんざりしていたので、それをさっと避けてみた。
「……ちょっと、何で避けるんですか?」
「子供ではないので。もう自分で歩けます」
「そういう事ではないでしょう? ワタシが貴方と手を繋ごうと思って、差し出しているのですから! こういうときは素直に繋ぐのが礼儀ってものです。ほらほら、早く。ここではぐれたら、貴方、今度は森を彷徨うことになりますよ」
「なっ、そんな事ありません! 森ぐらい……、あっ! ああ、くっ…、もう、玉霊っ!」
「ふふふ、やはりこの方が楽しくって良いじゃないですか! 上辺を取り繕った大人よりも、子供の方がずっと素直に楽しむ方法を知っています。童心を恥じだなんて思わないことですね。楽しいことは幾つになっても楽しいのですから。もし楽しかったことが楽しくなくなったのであれば、それは楽しむ心を失ったと言うことです。さあ、町に着いたら何がしたいですか? 小さな町でも喫茶店や教会なんかはありますよ。ううん、何が良いですかねえ。どこも貴方と回るのは初めてですし。どこか行きたい所は? 町へ行くのは数百年ぶりでしょう? きっと真新しく見える物がたくさんありますよ」
「そ、そう言われても……私は………」
抵抗は失敗に終わり、再び繋がれた手を彼にぐいっと引っ張られた。
彼は私を連れて歩きながら、楽しそうに様々な案を語った。それはきっと魅力的な話だったのだろうが、私の耳には何一つ残らなかった。楽しいことも、やりたいことも、何も浮かんでこなかったのだ。町に着いて何をするのか、具体的な希望を挙げられなかった。それどころか、町へ行きたいのかどうかも分からなくなっていた。
私は急に船へ帰りたくなった。
このまま行けば知らない土地に着いてしまう。
今ならまだ、間に合うかもしれない。
私は未知への不安で足取りが重くなり、気付けば海へ向かって手を伸ばしていた。
「そうだ! 折角だから服を新調しましょう! 貴方のそれ、型が古くて逆に目立ちますからね。この先の町じゃちょっと用が足りないかもしれませんが、大きい町に行けば貴方に見合う服も作れるでしょう。ほら、トトー、前を向いて。貴方の行き先はこっちです」
「っ……、玉霊…」
だが脆弱な心は見透かされ、黒い指先が救いを求める手を奪い取った。
闇夜に浮かぶ満月が私を見つめる。
この繋いだ手は、私を逃がさないためのものだと知った。
「大丈夫、ワタシがきっと世界の楽しみ方を教えてあげますから。貴方はちゃあんと、ワタシに付いて来てください。大丈夫。ワタシ、一度気に入ったものは、最後まで大切にするタイプなのですよ。だからワタシを信じて。ね? 良いですね、トトー?」
背筋がぞくりと戦慄く。
けれどももう手遅れだった。
結局、私が縋れるものは彼の手しかなく、引かれるままに付いて行く他なかった。どこかも知れない、見知らぬ土地へ。未知の世界へ。
私は町になど着かなければ良い、と思いながら歩くしかなかった。
***
海岸沿いの道は、町が近付くにつれ少しずつ人が増えていった。一人、二人とすれ違ったときには、手を繋いでいることが恥ずかしかった。けれども道を行く人の数が五人、十人と増えるにつれ、私はまた彼の手を掴むようになっていた。
行き交う人々が私たちを怖がる様子はなかった。少し不思議そうな視線を向けてきても、皆軽く挨拶をして通り過ぎていく。私と彼はあくまでただの通行人。見慣れない顔なので珍しがっている、という程度だった。だから彼はどんどん町へと向かい、私はびくびくしながらもそれに従った。
彼は小さな町だと言っていた。田舎の、人口の少ない港町だと。しかし形だけの門をくぐり大通りに出ると、そこには船一隻分よりもずっと大勢の人々がいた。
ありとあらゆる情報が一度に飛び込んでくる。
「ひッ……!」
無数の顔が視界に入った瞬間、私は耐えきれず、彼の腕にしがみついていた。
生前もどちらかと言えば人前は苦手だった。ただ嫡男としてそういった場は避けられなかったため、経験で何とか耐えていた。だから町へ出掛けることも出来たし、会合や夜会などにも出席していた。疲れはするが、それだけで済んでいた。
だがその耐性は海を彷徨う間にすっかり無くしてしまったようで、私は町の活気をまともに食らい、狼狽えてしまったのだ。
いろんな方向から音が聞こえてくる。匂いが漂ってくる。視線を感じる。一つ一つは微量でも、大勢から同時に発せられる情報が、鋭く私の五感に突き刺さる。何てことはないのかもしれない。きっとないのだろう。だって、彼らはこの雑踏の中で生活しているのだから。けれども私には、子供の騒ぎ声や、船乗りの大声や、荷馬車の通る音が、きつく感じられた。料理店からの油の匂いが、すれ違った婦人の香水が、吐き気を引き起こした。こんな往来で、人に抱きつき下を向くなんて、視線を集めているに違いない。そう思い始めると一層顔が上がらず、私は彼に縋って動けなくなっていた。
何て無様なのだろう。
やはり、来るべきではなかったのだ。
有り得ない夢を見て、希望を抱いた罰なのだ。
私は人々とともに生きる資格のない人間だった。音が怖く、匂いが怖く、視線が怖いなど、まるで世間で生きるに向かない存在だった。
それでも何とかしようと、ずっとずっと努力はしていた。でも、でも。あのときだって結局は耐え切れず、ハッピーエンドを望んだのだ。
もう、私の存在そのものが誤りだとしか思えなかった。
だから早く終わりたかったのに。終止符が、最期が欲しかったのに。
私は、どうして、まだ。
「トトー!」
とうとう眼から感情が零れそうになったとき、彼が私の名を鋭く叫んだ。それから路地に引き込まれ、頭の上からぐるりと古びたマントを巻かれた。
真っ黒な異形の眼が私を見つめる。
「…あ……、ぎょく、れ…わたし、わたし……」
私は何か言わなくては、と思い必死に唇を動かした。けれども状況を伝えるどころか単語すらまともに喋れない。喋ろうとすればする程息が上がっていく。彼を掴む手がどうしようもなく震え、惨めな事この上なかった。
彼はそんな私の顔をぐっと包み、優しくはっきりとした声で言った。
「大丈夫ですから、落ち着いて。無理に喋らないで。ワタシだけを見て、ゆっくり呼吸をして。うん、そう。大丈夫、大丈夫ですから。ほら、息を吸って、吐いて」
「う、はい、はあッ、はっ…はあぁ……」
「そう。上手です。用が済んだら直ぐに町を出ますから、少しだけ頑張れますか?」
「はあっ、は……はい…」
彼の指先が湿った私の目尻を拭った。その優しい腕を伝い、私はもたれかかるようにまた彼に縋った。衣服の内側から、ふんわりと甘い異国の香りが漂う。いつも彼が漂わせている森の蠱惑的な香りだ。嗅ぎ慣れたその匂いが私を落ち着かせてくれた。
私は俯きながらも、再び歩くことが出来た。借りたマントを深く被って視界を狭め、耳を出来るだけ塞いで音を遮断した。だから彼の言う用事が何だったのかは分からない。彼の腕にくっついて歩くのが精一杯だった。最初に立ち寄った所では荷物が減ったので、きっと猟師の遺品を売り払ったのだろう。二番目に立ち寄った所は人が多いわりに静かで、貨幣を数える声が聞こえた気がする。
いずれにせよ、私は顔を上げる勇気など少しも持てず、ただ只管に事が過ぎるのを願っていた。
パンの焼ける匂いを嗅いだ後、彼は約束通り町を離れてくれた。しばらく歩いて雑踏が遠のいたことを感じ、私はようやく顔を上げた。人が通ることで雑草が避けただけの、粗末な道が丘へ続いている。私たちはその途中に立っていて、振り返ってみると町は既に小さかった。
ずっと強張っていた腕から少しずつ力が抜けていく。
前方から「メエエ」と鳴くひと群れがやって来て、よぼよぼの老人が会釈をして通り過ぎた。私と彼はそれに応え、白く丸々とした集団を見送った。
もう少し歩くと木立があり、彼はその陰にマントを敷いて私を休ませてくれた。
「気分はどうです? 顔色は……ワタシたちでは見る意味がないですね。ああ、それにしても、何とか歩いてくれて助かりましたよ! でなければワタシ、貴方を抱えて町を回るところでした。それでは流石に人目を引き過ぎますからね。こんな小さな町じゃあ、しばらく噂の種になってしまう…。貴方があんなに狼狽えるだなんて。少し予想外でしたよ」
さっきと同じように、彼の両手が私の頬を掴んだ。励ましのつもりなのか、ただの遊びなのか、血色の悪い顔を揉みくちゃにしてくる。それが済むと彼も私の隣に座り込み、はあっと大きく息をついた。
呪符で隠れてしまった表情では、そこにどんな意味があるのか分からない。
私は町での失態を彼が怒っているのだと思い、慌てて謝った。
「あの、玉霊……さん、済みません! 私のせいで。多大なるご迷惑を………」
しかしこの言葉選びは誤りだったらしく、彼の眼がバッと振り向いた。
「はああッ? ちょっと何でまた他人行儀に戻ってるんですか? 貴方に呼び捨てさせるまでどれだけ粘ったと思って…。ははあ、貴方、ワタシが怒っているとか、呆れているとか、そう思っているのでしょう? 多大なるご迷惑をかけられて、ワタシが怒っているに違いないと。……はあ、もう、本っ当に仕方のない人。気が利き過ぎて、ただの不器用で臆病になっているじゃあないですか! いいですか、トトー。確かにワタシは困りましたけど、怒っていません。それに楽しかったので、何も問題ありません。むしろ今、貴方がワタシに他人行儀な態度を取っていることの方が大問題ですっ。ワタシは自分と対等な存在と旅がしたいのです。友と世界を回りたいのです。敬称はいらないと何度も言っているでしょう! そんな余所余所しい友人は嫌です! 例えこの先、本当に喧嘩をすることがあっても、ワタシのことは玉霊、と呼んでください! さん付はもうたくさんです!」
「うっ……、しかし、私は、あんな…」
「余計な思案は結構! ワタシの名前はッ?」
「ぎょく、れい…」
「そう! 世界に二人といない友の名です。しっかり覚えていてください!」
「はい…」
私は彼の捲し立てに委縮して小さく返事をした。
怒っていないと言われたが、今まさに怒られた気がする。
何が何だか分からずにまた頭の中が回り出す。私は何がいけなかったのだろうとあれこれ例を挙げてみたが、肝心の答が彼の口から出ることはなかった。
本当に町でのことは怒っていないのだろうか? それなのに、敬称を付けて呼んだことは駄目だったのだろうか? どう考えても前者の方が迷惑だったはずなのに。私は彼の怒る基準を探そうとしたが全く見当がつかなかった。
青い空をたくさんの雲が流れていく。
土の香りも、葉の擦れる音も、懐かしいを通り越して新鮮に思えた。生前の事を忘れたわけではないが、それも最早、夢か幻に近かった。何百年という時が私を置き去りに過ぎたのだ。もう、私を直に覚えている者などこの世に存在しない。私はこうして陸に上がることが出来たが、それでも行き場がないことに変わりはなかった。
依然、やりたい事も、行きたい所も思い浮かばない。
小さな町すらこんな調子で、いかに陸が広大であっても、私の居場所があるとは思えなかった。
「ねえ、…玉霊。これからどうするのです? 町を抜けてしまって……、貴方、眠るところがないと困るのでは」
私はまた不安がぶり返して、隣で休む彼に尋ねてみた。
とくに彼は私と違い、食事や睡眠を楽しみにしている。だから飲まず食わずで過ごしたり、眠らずに夜を明かすことはないだろう。そうなれば食べる物や泊まる場所が必要で、……私が荷物になっているのではないかとそう思った。
「これから? そうですねぇ。とりあえず二、三日は羊の世話でもしながら様子を見ましょう。貴方、結婚もしていて立派な伯爵家の御子息様だったのでしょう? それなら町中を歩くのだって出来ないわけじゃありません。久しぶりで驚いただけですよ。この先にある風車小屋、以前ワタシが厄介になったことのある民家なんです。手土産も買ったし、また放牧でも毛刈りでも手伝うと言えば、しばらくは置いてくれますよ。…あ、それよりも。貴方、他人事のように言ってますけど、陸に上がったんですから、貴方も夜は眠るのですよ? 食事もちゃんと一人前に食べてくださいね? 人間の中に混ざって生活するには、人間と同じように活動しないと怪しまれるので。間違っても食事は必要ない、とか言っちゃあ駄目ですよ?」
「うっ、……努力します…。しかし、その、…貴方の知り合いのところへ私まで行って、ご迷惑ではないでしょうか……」
「大丈夫、大丈夫! 納屋の隅ぐらいいつでも貸してもらえます」
「そんな…簡単に……」
「行けば分かりますよ。農家って、部屋と土地はたくさんあって、人手は年中不足している人たちなんです。だから男二人が手伝うと言えば、泊めるぐらい何てことありません」
彼は意外なほど軽く私の不安をあしらい、勢い良く立ち上がった。そして片手を寄越し、私に続けと促す。太陽の下に引っ張り出され、再び丘を上っていく。
彼の言う根拠が十分だとは思えなかった。けれども繋いだ手には不思議な力強さがあって、何とかなるのではないかと、そんな気持ちにさせてくれた。
***
夜空に月が浮かんでいる。白っぽい雲が流れ、その間にちかちかと星が瞬いている。地上はどこも暗い夜を纏っていたが、町の上だけはふんわりと明るかった。
私は風車小屋のベランダから夜景を眺めていた。
玉霊の言っていた民家は、広い農地と放牧地に囲まれて、ぽつりと一軒だけで建っていた。住んでいるのは当主とその夫人、それに娘夫婦と子が一人。犬が一匹。人の数よりも、家畜小屋にいる羊の方が多かった。娘さんは二人目を宿しているところで、私たちが行くと本当に貴重な人手だと言って喜ばれた。手土産のパンが食卓に上り、野菜と肉の入った素朴なスープが添えられた。裕福とは言い難いささやかな団欒。けれどもその小ささに救われて、私は何とか上辺を取り繕うことが出来た。
夕食後、私は疲れを言い訳に早々と輪から抜け出した。二階に部屋があるから、と言って案内されたのがこの小屋である。収穫した小麦をここで挽いてから売りに出しているらしい。石臼がごりごりと稼働する音は、二階に上がってもはっきりと聞こえてきた。
部屋にはベッドがあったが、私は休むつもりがなかったので、椅子を持ってベランダに出た。
青い草の香りがする。
海ではなく、陸の香りがする。
月明りで途切れ途切れに照らされる地上は、暗く静かだった。
時が経てば朝になり、また陽が昇るのだろうか? 太陽が大地を照らすのだろうか? その眩しい景色を、私は見ることが出来るのだろうか?
今、目を閉じたら。
夢から覚めて、いつもの甲板に寝ていたりはしないだろうか…。
今日という一日に起きた出来事があまりにも多すぎて、私は実感が得られずにいた。陸に上がって、町を歩き、普通の人間と食卓を囲んだなんて。これが夢でなく現実だと言う確信が、どうしても持てなかった。
或いは今この手に、一振りの剣があれば。
疑わしき胸を貫いて確かめることが出来るのに。
「………あっ…」
私がそう願った瞬間、手の中に握り慣れた感触が沸いた。
嗚呼、きっとこれもガウディウム号と同じ理屈なのだろう。私の求めに応じて応えてくれる、心強い味方なのだ。私は自分の穴を塞ぐ術を置いて来たと思っていたが、長年の愛剣は今までどおり手の内にあった。
清らかな切っ先が胸を貫き濁った水を吐き出させる。痛みが脳髄に至り、全身を駆け巡る。私は流れる濁水に安心感を覚え、椅子から転落した。
薄い床板、木の手すり。甲板のような、ベランダのような景色。手すりの向こうに見えるのが陸なのか、海なのか。暗過ぎてどちらとも判断が付かなかった。
やはり夢なのだろうか?
けれども風が、潮ではなく土の香りを多分に含んでいるような気もする。
本当に陸へ辿り着いたのだろうか?
「………甘い、匂い…」
朦朧とする頭の中へ、どこからか蠱惑的なあの香りが入り込んだ。
肩を強く掴まれ抱き起される。剣が引き抜かれ、ごふりと一呼吸分の海水が流れ出た。
「ちょっと目を離した隙に! 貴方って人は!」
「…あ、……ぎょく、れい…」
月よりも白く鋭く光る眼が私を睨んでいた。
嗚呼、怒っている。これは間違いない。
私はまた過ちを犯したのだ。
「ごめんなさい……でも、もう、夢はたくさん…」
「何がもうですか! 何が夢ですか! 今日一日、陸路を歩いたと言うのにまだ信じられないのですか! 現実を見るのがそんなに怖いのですかッ! ああ、もう、こんな水浸しにして……。人でないと知れたら面倒なんですからねっ? 気晴らしの方法なんて幾らでも教えて上げますから、軽々しく自傷する前に、ワタシに言いなさい!」
「ごめん、なさい…」
私は胸に残る痛みを確かめながら謝罪を口にした。
でも、彼は既に怒っていた。私のせいで声を荒げていた。すべて私が悪いのだ。彼を怒らせた原因は、この私に他ならない。もう、これで見放されてしまうだろう。そうに決まっている。だって、こんなにも、迷惑をかけたのだから。
嗚呼、嗚呼。私の過ちなのだ。
「ごめんなさい…」
私はもう一度剣に手を伸ばそうと、彼を押し返した。
早く消えないと、もっと彼を怒らせてしまう。独りは嫌だけど、きっとこの方が良い。彼を怒らせたい訳ではない、困らせたい訳ではない、悩ませたい訳ではない。でも、私の足はひとりでにそちらへ向かってしまう。だから一緒にいない方がきっと良い。この首を切り落とせばきっと船に戻れる。私はやはり独りで居るべきなのだ。
だから、だから。
「貴方……ワタシの話聞いてましたっ? どうして今この状況でまた剣に手を伸ばそうと…、ああ! もう! 本っ当に往生際が悪いですね! 陸に上げれば諦めるかと思ったのに。どれだけ筋金入りなのですか、その性格っ。ほら、もう寝ますよ! 人は夜になったらベッドで寝るのです。心臓に剣を突き立てて気絶するのではありません!」
「ひゃっ、わわ、えっ? ちょっ…」
「服は湿っぽいから脱がしますよ。どうせ風邪とか引かないでしょう」
「ま、って……うぐっ」
どさり。
突然の浮遊感。もう一息で届くはずだった剣は蹴り飛ばされ、私はベッドに落とされた。固い戸板に厚手の布を敷いたようなそこに腰を打ち付け、息を詰まらせる。咳き込む間に衣服が剥ぎ取られ、代わりにごわごわとした毛布が巻かれた。
まったく理解が追い付かない。
「な、な、なんっ……」
おまけにずっしりと彼の手足が乗せられて、私はまるで抱き枕だった。
粗末な毛布が素肌に突き刺さる。
彼が怒ったのは間違いなく。さすがに呆れて見捨てられるだろうと、そう思っていた。失態を繰り返し、彼を失望させたのは私である。それなのに、乱暴な拘束とは裏腹に、彼の寝息は穏やかだった。
「なん、で…」
私は視界が霞むのを堪えながら彼に尋ねた。
もう、こんな私など、諦めてくれて構わないのに。
甘い香りが妙に優しかった。
「……何でも何もないでしょう。やっとここまで来たのに、ワタシが貴方を手放すとでも思ったのですか? …良いですよ、分からないなら分からないままで。そのうち分かるかもしれないし、ずっと分からないかもしれません。でもワタシは貴方を手放しません。一度気に入ったら最後まで、と言ったでしょう。終わりのない貴方がワタシの手から逃れられるとでも? 無駄な足掻きはお止めなさい。そんなことよりも、やりたい事を探してご覧なさい。ワタシたちは不変でも、世界は時間とともに移るのです。今はこの瞬間しかないのです。やりたい事はどんどんやっていかないと。機は逃げてしまうのですよ」
「やりたい、こと…」
「そう。貴方が生きてやってみたいと思う事」
私の眼から涙が零れてベッドを湿らせた。
生きて、何をしたいのか。何も、何も浮かばない。ここまで言われても浮かばない。私は自分の心が空っぽな気がして情けなかった。何も答が返せずに、涙が嗚咽になって漏れて出るばかりだった。
「大丈夫。いろいろを見て回れば、そのうち見つかりますよ」
そう慰めてくれる彼の手が温かで、私は何とか熱い瞼を閉じた。
ここで寝て、覚めたとき、私はまだ陸にいられるのだろうか?
彼とともに朝を迎えて、またあの農夫たちに会えるのだろうか?
もし、もしも、それが叶うのならば。
私はその大地に昇る朝日を、眺めてみたいと思った。
END 2019/4/20