6
不可解だ。不可解過ぎる。
野営地の周囲を巡回して戻れば、首を傾げる状況が俺を待ち構えていた。
俺が天幕を空けたのはほんの数刻。その間に何があったというんだ?
戻った天幕で俺が見たのは姫さんと、何故か姫さんに張りついたトルテッタという奇妙な構図だった。
俺が天幕の入口で首を傾げていれば、ちょうどセリュートが通りがかった。
「なぁセリュート? いつの間にトルテッタが姫さんペッタリになってんだ?」
セリュートの腕をひっ掴まえて問い質した。
「ええっと。将軍、更に驚くご報告になると思いますが……」
珍しくセリュートの歯切れが悪い。
「なんだ?」
「はい。実は将軍が巡回中の今しがた、トルテッタが私の所に参りまして、軍を辞職する旨を申し出ました」
「はぁ!? 昨晩、除隊を免れたと知ったトルテッタは泣いて感謝してたんじゃなかったか!?」
「はい、ですが確かに辞職を申し入れてきたんです」
俺は告げられた予想外の展開に、半分口を開けた状態で固まった。
もしかすると鳩が豆鉄砲を食らった、とはこんな事を言うんだろうか?
……ん? そうすっと俺が鳩だってか!?
「って、なんだってそれが一夜にして辞職になるんだ!? 一体どういう風の吹き回しだ!?」
ブンブンと首を振り、不快な想像を振り払う。
「さぁ、私には何とも……」
ふむ。セリュート相手じゃ埒が明かねーな。
バサッ!
入口を潜り、俺は天幕に踏み入った。
「おい、姫さん。こりゃあ一体どういう事だ?」
こういう事は、直接本人に聞くに限る。
俺は天幕の入口でセリュートと繰り広げていた不毛なやり取りを切り上げて、天幕の奥のラグクッションで寛ぐ姫さん本人に直接訊ねた。
「はい。先程トルテッタと和解と意気投合をして、トルテッタは私に仕えてくれることになりました」
なんだそりゃ!?
俺とセリュートのやり取りが聞こえていたんだろう、姫さんからの答えは明瞭簡潔だった。なのに何故か、俺は理解が追いつかない。
「ってか姫さんよ、こんなこたぁ言いたかねぇが、あんたドルーガン王国の虜囚って立場だぞ? 人を付けるとなりゃ人件費も掛かるんだ。今となっては自分から召し使いを抱えられる身分じゃねーぞ?」
口ではそう言ってみたが、本当のところは皇女という身分の姫さんには誰か専属で一人付けようかと思っていた。しかし、従軍女性はそもそも数が少なく、適任を思いつかないままここまで来てしまった。
「将軍、あたしゃもうドルーガン王国から給金は貰わないよ。あたしがあたしの意思でミーナさまに仕えるんだ」
俺の質問に答えたのは姫さんじゃなく、姫さんを庇う様に一歩前に出たトルテッタだった。
その言葉に俺は唖然とした。
「……おい、トルテッタ。今の言葉、ここでならまだ俺の胸の内にしまっておいてやれる。お前には病気の息子が居る事を忘れちゃいねぇだろうな?」
俺の言葉にはトルテッタも、隣にいた姫さんも目を見開いた。一国の将軍としちゃなっちゃいないだろう台詞。だが、人一人の命は重い。それが幼い子供なら尚更だ。
だから、トルテッタが考え直す猶予を与えたとてバチはあたらねぇ。
「ありがとうよ、将軍。あたしにとっちゃ、あんたの下で働けた事は誇りだ。なによりあたしは、あんたにゃ言葉では言い尽くせないほどの恩だってある。だけどこうしてミーナさまに出会った今、あたしはミーナさまの為に働きたいと思っちまったのさ」
トルテッタは朗らかな顔で笑ってみせた。
「ふむ。そうすると姫さん、姫さんにはトルテッタとその息子を路頭に迷わせないだけの甲斐性があると思っていいんだな?」
姫さんはただ、控えめに頷いただけ。
けれどそれは、確かな肯定。
「そうか……」
そう、一声答えるのがやっとだった。
俺はどうやら、表舞台から葬り去られた亡国の第三皇女を甘く見ていたようだ。
その見た目に騙されちゃいけない。この姫さんはただものじゃない。
そのくせ年相応の恥じらいを覗かせてみたり、己の限界を無視する無鉄砲をしてみせる。
俺はアンバランスな姫さんから、目が離せそうにない。
***
「トルテッタぁ、まだー?」
「困った姫さんだね。あとちょいとじゃないかい、がんばんな!」
トルテッタは時に厳しい。
私は今、トルテッタに相乗りしてもらいドルーガン王国を目指していた。もちろん私は護送対象だから、隣にはアスラン将軍やセリュート青年が並走している。
けれど、同性のトルテッタとの相乗りは精神的にかなり楽だった。
当初、トルテッタへの負担を考えて相乗りの申し出を断ろうとしたのだが、トルテッタに笑い飛ばされてしまった。
「皇女殿下にゃ知れないだろうが、あたしゃ息子背負っての畑仕事に炊事洗濯、もちろん乗馬もなんでもしてきたんだ。まぁ流石に今はもう負ぶったりはしないが、乗馬なら息子よりほんのちょいと重いミーナさま一人くらい、どうってことないよ」
あっぱれに言い切られてしまったのだが、トルテッタの息子さんは確か八歳。典型的なアジア人のような私と体格差著しいこちらの世界事情を加味しても、流石に息子さんよりは十キロ以上重い。しかし私があれこれ考えている内に、トルテッタはさっさと私を馬上に引き上げてしまったのだ。そうして次の瞬間にはもう、馬は走り出していた。
……トルテッタなら相乗りも問題なさそうだと、思い直した瞬間だった。
「ミーナ姫、あちらに見えます大河の麓に集落がございます。今晩は天幕でなく、宿を取りますのでもうしばらくご辛抱下さい」
並走するセリュート青年の一言で、心が一気に軽くなる。早朝から丸一日馬を走らせて、既に一行はドルーガン王国の領土に入っていた。陸続きだから国境を越えたからといって、目に見える景色が変わった訳じゃない。
しかし随行する兵士たちの空気が一気に和らいだのを肌で感じていた。
「やっぱり故郷の地は、感慨もひとしおなんだよね……」
「そりゃそうさ。誰だって生まれ育った地が一番だろうよ?」
「……そうだね」
生まれ育った地……。私にとってそれは、二度と戻れぬ遠い彼方だ。
「さ、ミーナさま宿に到着だよ」
「うん」
こうして宿に着いた時、私はまたしても小鹿のようにぷるぷると足を震わせていた。しかし既に四日目、流石にコツを掴んできていて、なんとか踏ん張る。
「ぷはっ! ミーナさま、ほれ、肩を貸すよ」
忍び笑いを漏らしながら、トルテッタが私の腕を自分の肩にかける。
長身のトルテッタにこうされれば、まるで担がれているのと同じ。私はぷらぷらと足が地面から浮いた状態で客室へと運ばれた。
「トルテッタ、肩を貸すっていうか、これじゃ背負ってるのと変わらないよ」
「はははははっ、それもそうだね」
トルテッタの気負わない態度に、私は救われていた。
マーサとマリッサに続き、トルテッタも既に私にとってなくてはならない存在になっていた。
この世界で初めての宿。どんなものかと興味津々だったけど、入ってみれば拍子抜け。
北砦とまるっきり同じじゃないの。
ベッドに机と椅子、衣装棚があって続き部屋は浴室になっている。
けれど北砦とひとつ違うところ、宿には大きく開け広げられる窓が付いていた。
「ミーナさま、夕食はどうすんだい? 皆と下の食堂でとるか、移動が辛けりゃここに運ぼうか?」
トルテッタはなんだかんだで気づかいの人だ。
「もちろん食堂でとるよ。一緒に食べに行こう?」
一日馬を走らせ通しだったトルテッタが疲れていない訳がない。そのトルテッタに運ばせて一人部屋食なんてあり得ない。
「そうかい? 夕食まではあと一刻あるよ。よかったら先にお湯を使っちまうといい。あたしも一旦部屋に引き上げさせてもらうよ」
トルテッタは衣装棚からタオルを引っ張り出すと、私が座るベッドに置いてくれた。
「ありがとう」
パタンと扉が閉まる。私はベッドに座ったまま、ホゥっと大きく息ついた。ドサリとベッドに仰向けに倒れ込む。
幽閉生活から一変して連日、馬での移動だ。正直体はかなり疲れている。
けれど、心はかつてない程に軽い。
さんさんと注ぐ太陽の光を受けながら、風を切って大地を駆け抜ける。皮膚で感じる風の温度が気持ちいい。
カッ、カッ、カッと規則正しい蹄の音は耳に心地よく響く。目に見える全てが色づいて、まるで心に直接飛び込んでくるみたい。書物や地図から得た知識では補いきれない生きた情報。
私は今、生きた暮らしを送っている、そういう事なんだろう。
コン、コン。
「は、はーい」
ノックの音に慌てて起き上がる。同時に開かれた扉から覗く来訪者はアスラン将軍、その人だった。
「あーっと、もしかして寝てたのか?」
行儀悪く大の字になっていたのを、見られてしまったようだ。
「いえ、ちょっと横になってただけですから」
アスラン将軍は大柄な体を丸めて扉を潜った。アスラン将軍の体格は、この世界の基準に照らし合わせてもかなり大きい。
「そうか」
アスラン将軍は机とセットで置かれていた椅子を引っ張ると、ベッドに座る私と向かい合う形で座った。私にはプラプラと足が付かずに遊んでしまうだろう大きな椅子も、アスラン将軍が腰掛ければひどく窮屈に見えた。
「なぁ姫さん、俺には国王陛下より全権を賜った責任がある。だから、単刀直入に聞くぞ。今回のガラージュ公国敗戦の立役者はお前さんか?」
敗戦の立役者って、ヘンな台詞だ。普通だと勝利の立役者とか、そんな使い方だよね。
「幽閉されていた私にそんな大それた事が出来るとは思えません」
模範解答はしかし、アスラン将軍のお眼鏡には適わなかったようだ。目の前のアスラン将軍は不満そうに眉間に皺を寄せてみせた。
「ほんじゃ聞き方を変えよう。ササイ・ガラージュと名乗る人物を知っているか?」
……そうきたか。
そりゃ知っているも知っている。ササイと言う人物は何を隠そう、私が語る架空の人物だ。
「……知ってます」
「そのササイという人物はすごいぞ。憚らずガラージュの国名を姓に語り、その身を皇族の末席に連なる者と名乗ってドルーガン国王に直接の嘆願書を送り付けてきた。ガラージュ公国の内情を聞きもせんのに勝手に明かし、敗戦後のガラージュ公国の処遇案を切々書き連ねてきた。必要とあらば自分も含め、全皇族の打ち首もやむなしという台詞には国王も引いてたぞ」
それは流石に、オーバーだ。
民の暮らしを思って、ちょっとばかりお願いに熱が入ってしまっただけだ。
「そしてササイは意図的な情報操作でもって、民衆を反国へと煽っていた。自国の皇族と言う地位をチラつかせ、信憑性を持たせた上で皇帝一家の無能を全て丸裸にしてみせた。これでは皇家への求心力は失われ、支持も失墜。兵士の士気は底辺を這い、敗戦へと一直線だろう。当然ガラージュの皇族らは身内に潜むササイの正体に疑心暗鬼になり、元より脆い結束は木っ端微塵と散った」
いやいや、これもオーバーだ。
たまたま出版社がかわら版の増刊版を出そうと言ってくれたものだから、そこにササイなる人物が少し力を入れて評論を載せただけ。
「そのくせいざ宮殿を陥落させてみれば、そんな人物は実在しない。だがササイなる人物が綴った嘆願書は確かにある。ササイ・ガラージュは、何者だ?」
こうも直球で問われれば、答えざるを得ない。
「……私です。私がササイを語りました」
告げた瞬間、特大の溜息が聞こえた。
同時に目の前のアスラン将軍が、膝の上に置いた両手に、ぐったりと頭を預けて丸まった。
「……なぁ、姫さんは何者だ?」
しばしの間を置いて、突っ伏していたアスラン将軍が顔を上げる。厳しさを湛えたコバルトブルーの双対が、射抜くような強さで私を見つめた。
逃げは許さない、そんな意図が見て取れた。
アスラン将軍のコバルトブルーに見つめられると、落ち着かない思いになる。もちろんアスラン将軍が男性だからというのもあるだろう。
けれどセリュート青年の水色の瞳には感じない、身を焦がすようなぞわりとした熱を感じるのだ。
その熱は私の心の内、秘しておきたい深くまでジワジワと浸透する。逃げも隠れも出来なくなる……。
「私はガラージュ公国の第三皇女。見ての通りの容姿から、魔女と忌み嫌われる不吉の娘」
ジトリと見つめるアスラン将軍の瞳が告げる。それだけではないだろう? その先の真実を告げろと一切の逃げを許さない。
ゴクリとひとつ、唾を飲み込んだ。
「……そして魔女には、過去の記憶がある。こことは違う世界で二十一年の時を過ごした記憶が」
ぎゅっと固く目を瞑る。怖かった。
蔑まれる? 嘘つきと罵られる? やはり不吉だと、魔女だと、この身を滅そうとされるのだろうか……。
ぽん、ぽん。
っ!? 驚きに目を見開けば、大きな手が不器用に私の頭を撫でていた。
「ははっ! 姫さんはやっぱすげぇな。おいおい、そんなに目ぇ見開いてっと黒曜石みたいな瞳が落っこっちまうぞ?」
私はぽかんと口を開けたまま、何も言う事が出来なかった。それだけ、アスラン将軍の言動は破壊力があった。
「なぁ姫さん、ええっと前世の記憶っつうのか? それがあるっつーと姫さんは物心つくかつかねーかの子供じゃねぇんだろう? よく五年の幽閉生活に耐えられたな。あの広くない一室に五年たぁ俺には耐えらんねー。やっぱ、姫さんの精神力はすげぇよ。よくもまぁ五年も耐え忍んだもんだ」
一気に力が抜けた。
ずっと張りつめていた何かが溶けて、ガチガチに固まっていた心が綻ぶ。
蔑みでも忌避でもない、私への肯定に胸が震えた。
「……アスラン将軍、それがそうでもないんです。私は元々本の虫で、外に出るのは好きじゃなかった。元の私も本があって半径二メートルのスペースがあれば、なんら不足なくいつまででも過ごしていられたんですから」
私の軽口に、アスラン将軍は噴き出した。
私も笑っていた。だけど私の目尻には、意思に反して涙が薄く浮かんでいた。
「アスラン将軍……私の話、信じてくれたんですか?」
「信じるも何も、それが事実なんだろうよ」
一笑に付してもいいような荒唐無稽な話を信じて、あまつさえすごいだなんて称賛の言葉までくれる。
怪我をした一夜が、アスラン将軍が本の中で動く虚像なんかじゃなく、実体でもって私に対峙する男だと知らしめた。それに対して僅かばかりの拒絶感もあった。
けれど今、間近な距離でアスラン将軍と顔を突き合わせるこの状況にわだかまりはなかった。
寛容に物事を許容して受け入れる懐の広さに、アスラン将軍に尊敬にも似た想いが湧き上がる。
ミーナという存在が、アスラン将軍の一言でこの地に赦されていく気がした。
「アスラン将軍、ササイが送った嘆願書に嘘はありません。この上の私の身は全て貴国に委ねます」
もう十分だ、十分すぎる。
私が望んで得た第二の生ではなかったけれど、皇女という立場に転生したからには、公国の民を見殺しにはしたくなかった。
皇帝への恨みもあった。だけど恨みや憎しみだけでは生きてはいけない。
私はいつしか、目標を得ていたのだ。
生への執着は同じ日常を繰り返す中で、我が身を生かす原動力には少し弱い。民が、公国に生きる皆が、私をここまで生かしてくれた。
五年間、北砦の格子越しの窓から毎日眼下を臨んだ。そこに生きる人々こそが、いつしか私を生かす原動力となった。
じっと見つめ合う私の黒とアスラン将軍のコバルトブルー。だけどコバルトブルーは滲んで、最後はアスラン将軍の輪郭までが霞んでしまってよく見えない。
「ミーナ皇女、あんたはすげぇ器だな」
おかしいな。そう思った時には大きな胸が私を抱き締めていた。幼子をあやす様な、ぐずる子供をなぐさめる様な、優しい優しい触れ合いだった。
大きな手が、ぽんぽんと背を撫で擦るリズムが心地いい。男の人はこうも優しく慰めをくれるのかとぼんやりと思いながら、しかし内心で小さく首を横に振る。
男の人、じゃない。
……アスラン将軍が、優しいのだ。
私はしばしアスラン将軍の温かな胸に顔を埋め、その温度に酔いしれた。