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眠りの波間から、段々と意識が浮上する。
ん? ……なんだこれ、やらけぇな?
まず感じたのは、腕の中の柔らかでぬくぬくとした重み。思わずぎゅっと抱き締めてみたのは無意識。
……なんかこれ、すげぇいいぞ。
久し振りの安眠を手放す事に惜しさはあるが、それ以上に腕の中のぬくもりの正体を知りたくて、薄く瞼を開いた。
っ!!
そうして腕の中の温もりの正体を認めれば、眠気は一瞬で彼方へと吹き飛んだ。
「……うそ、だろう?」
俺は姫さんを膝にのっけたまま、一晩まるまる熟睡していたらしかった。
テントの隙間からは、昇り始めたばかりの朝日が差し込む。
耳を澄ませば、テントの外では既に動き出す兵士らの雑多とした気配と話声が聞こえてくる。
これまで行軍中に熟睡などした事がなかった。いや、精神が研ぎ澄まされて出来なかったのだが、これは一体どうした事だ。
俺は内心かなり動揺していた。
そんな俺の身じろぎを受けてか、膝上の姫さんの漆黒の睫毛が小さく震えた。
「んっ」
そうしてゆっくりと開かれた瞼の奥、黒濡れの輝く瞳がそっと姿を現した。
「……」
姫さんは黒く輝く瞳に俺を映したまま、長く動かなかった。
「姫さん? 大丈夫か? 怪我が痛むのか?」
あまりにも長い事姫さんが固まったまま動かないから、俺は心配になって問いかけた。
「えっ!? えぇええっ!!」
すると突然、姫さんが謎の雄叫びと共にガバッと身を起こした。
「ア、アスラン将軍!? 怪我の手当は有難いですしお礼を言います。けど、けど! どうして私はベッドでなく、貴方の腕に抱かれて目覚めるなんて羽目にっっ!?」
姫さんがまん丸に目を剥いて言い募る。
腕の中のしなやかな黒猫が牙を剥く。毛を逆立てて威嚇する黒猫は、……ちょっと可愛い。
「……怪我は大丈夫みたいだな」
「はい、怪我はもうすっかり……って、そうじゃなくて! どうして私を膝に抱いているんですか!?」
つい今しがたまで俺の膝に凭れて穏やかな寝息を立てていたというのに、あたふたと動揺する黒猫は随分と騒々しい。
いや、年若い娘らしい男への恥じらいや潔癖さとも言えるのか?
こんなに感情を顕わにする姫さんを見たのは初めてだった。もうちょっとだけ、牙を剥いて爪を立てる黒猫みたいな姫さんをからかってみたいと思った。ほんの出来心からの、ちょっかいだった。
「姫さん? それは俺とめくるめく一夜を過ごしたからだと言ったら?」
しかし告げた直後、姫さんは目に見えて顔色を失くし、キラキラと輝く黒の双対も、まるで濁りガラスみたいに何も映さなくなった。
なんだ!? 俺は何かマズい事を言ったか!?
「い、いや! 姫さん、今のは冗談だぞ! 俺は意識のない女を襲うなんつー鬼畜な趣味は持ち合わせちゃいない!」
弁解をしてみせながら、内心で不思議に思っていた。
何故俺は十五の小娘相手にこんなに必死になっているんだ? 若い娘特有の潔癖感でもって厭われるなら、それはそれで構わないはずだ。手間の掛かる青い果実よりも熟れた甘い果実の方が余程食しやすい。
少なくとも国に帰れば数多の果実が求めずとも向こうから列を成し、並んで俺に選ばれるのを待っている。
「……アスラン将軍、分かってます。冗談も通じない小娘と笑ってやって下さい」
姫さんはわざと笑顔の形を作ってこんな風に言った。濁りガラスみたいだと思った瞳には、今は対面する俺を確かに映している。
それでも、どこかぎこちない姫さんの態度に俺は忌諱に触れてしまったのかと、不用意な先程の発言に一人溜息を吐いた。
***
私はたぶん、根本的なところで男の人が怖いんだと思う。
その原因は日本で死因にもなった通り魔の男かもしれないし、絞殺未遂という暴挙に及んだ皇帝かもしれない。
世話係に当てられたのは全て女性だったし、最初に兵士に北砦に移されて以来男性との接触は皆無だった。
およそ五年ぶりに触れた男性であるアスラン将軍に対して、最初は何も思わなかった。馬に相乗りしても、それはアスラン将軍が職務として必要な事だからと別段意識する事もなかった。
それが、アスラン将軍が意識を落とした私を膝に抱えたまま一夜を過ごしたと知り、激しく動揺した。その行為は将軍としての職務を逸脱した、アスラン将軍個人の意思でなされた事だから。
今までの冷静さは鳴りを潜め、アスラン将軍への不信と困惑に心がざわめく。
『俺とめくるめく一夜を過ごしたからだと言ったら?』
冷静に考えればこんな台詞はアスラン将軍のほんのからかい交じりの軽口と知れる。なのに、私の中で勝手に築き上げていた清廉潔癖な将軍像が揺らぎ、生身の男性としてアスラン将軍を認識してしまったのだ。
生身の男性の欲は身勝手で怖い。
私とて昨晩の私達に何かがあったなど、露程も思っていない。それでも、それを揶揄する台詞がアスラン将軍の口から出た事に衝撃を受けていたのだ。
……まだまだ、だな。
私の生きた時間は二十一歳で止まったまま。皇女として過ごした五年は片手で数える程の人数としか接触していない。
人との関わりが成長を生むとすれば、私は皇女として過ごした五年でなにひとつ成長できていない。卓上の知識ばかりを詰め込んだ頭でっかち。
実年齢でいけば二十六歳。死因になった一件はあれど、性的な揶揄のひとつにこの動揺って、ありえない。
「はぁ……」
しらず溜息が漏れ出た。
「あの、ミーナさま? 失礼してよろしいでしょうか?」
!
天幕の紗幕越し、遠慮がちに掛かった呼び声。それは、知った声だった。
「……どうぞ」
僅かな逡巡の後、答えた。
私の体調を考慮して、アスラン将軍は出発を一日遅らせる決断をした。ドルーガン王国王都までは、騎馬であと二日の距離。
アスラン将軍は、安全面に一定の目処が立った事と、残りの物資を考慮して、随行する兵の半分を先発で発たせていた。
「し、失礼します」
パサリと開けられた天幕の入口から覗いた顔は、やはり昨日の女性だった。
半数に減った随行員、その中に彼女の姿がある事に少し驚いていた。
そうして天幕に足を踏み入れた瞬間、彼女は平身低頭、私の足元で額を床に擦り付けた。
「ミーナさま……あたしゃ、あんたにゃ謝っても謝りきれない。昨日はほんとうにどうかしてたんだ。ごめんよ! ごめんよぉ!!」
女性はカタカタと肩を震わせてむせび泣いた。その余りの勢いに私は慌てた。
「ちょっ、頭を上げて! 謝罪は受け入れます。だからもう、これ以上私に頭を下げないで!」
私は床に膝を突き、這いつくばったままの女性に語り掛けた。女性の震える背中に手を置いて、ぽんぽんと撫でさする。
こんな風に誰かにへりくだって接される事は辛い。私と言う存在が、その身分によってのみ生かされている気分になる。
その身分を失った時、私は露と消えてしまうのではないかと漠然とした恐怖が襲う。
「けど、けど……、皇女様に怪我さしちまって、あたしゃもう……どうやって償ったらいいか……」
目の前の女性から、昨夜までの威勢の良さは霧散していた。それはなんとも寂しい事。
泣きはらした女性は俯いたまま、ほろほろとスカートを涙で濡らしている。
「……あの、それなら、もしよかったら私に仕えてもらえませんか?」
顔を上げた女性は、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。女性の表情には、ありありと疑問が浮かんでいた。
「あたしゃ、既にミーナさまに仕えてるんじゃないかい?」
確かに女性はこれまでも、私の食事なんかを世話している。だから対外的には、既に私付きといっても過言ではない。
「ううんと、そうじゃなくて私個人に雇われて、仕えてはもらえないでしょうか?」
私を見上げる女性の目に、再びぶわっと涙が溢れた。
「ミーナさま、……そうさせてもらいたいのは山々だ。だけど、あたしゃ国に病気の息子を置いてきてる。償うと言っときながらあれだけど、やっぱし給金が貰えなきゃあたしたち親子はの垂れ死んじまう」
それは、もっとも過ぎる言葉だった。
皇帝から捨て置かれた私には、一切の個人財産など無いと、きっと誰もが思うだろう。
「貴方の言葉はもっともだよね。だけど、無償じゃないです。軍支給の給金と同額で、雇われてはもらえませんか?」
「えっ? 同額で??」
亡国の資産は全て、ガラージュの復興資金に使ってもらう。その資産を私的流用しようなど端から思っていない。
鳩が豆鉄砲を食ったような、そんな表情で私を見上げる女性に、私は悪戯っぽく微笑んでみせた。
「ええっと、ひとつ種明かしをすると、私には亡国の皇女以外にもいくつか顔があるんです。……そうだな、ガラージュ公国で民衆に支持の高かったかわら版を知ってる?」
「あ、ああ! それなら知っているよ」
女性は直ぐに首を縦に振った。良かった、知らないと言われたら、更なる種明かしをしなきゃならないところだった。
「ガラージュ公国の戦況を軍備規模なんかも含めて逐一伝えた情報版だろ? あんまりにも秀逸に書かれてるもんだから、うちの大将らだって毎回発行と同時に手に入れていたさ」
最初の派兵の時から、私にはガラージュ公国の敗戦が予想できていた。だからドルーガン王国軍の目に留まる事も視野に入れて派兵規模や軍の大将副将、兵糧まで全て書き記してかわら版を発刊した。
より迅速な戦争終結と最小限の被害でのガラージュ公国滅亡を祈って。
「で? そのかわら版が一体なんだってんだい?」
私は幽閉中、数ある書物を読み進めるうち、割かし社会風刺の利いた書を多く手掛ける新興の出版社を知った。こちらから数度渡りをつければ、顔も知らない出版社の社長と私は意気投合した。
繋ぎ役はマーサとマリッサ。何か察してはいたかもしれないけれど、私の口から彼女らが出版社に持ち込む封筒の中身を明かした事はない。
「それ、書いていたのは私なんです。奇しくも私が幽閉されていた北砦からは兵士の出兵も軍備品の搬入もよく臨めて、そこから戦況は容易く想像できましたから」
ガラージュ公国軍は情報漏洩の離反者を必死に洗い出そうとしていたようだ。疑心暗鬼になって、味方すら疑い合えばもう自滅は目に見えている。
「うそだろ……、幽閉中にとんだタマだね」
「ありがとう。褒め言葉としていただいておきます。そんな訳で、原稿料が私に入ってますから、お給料は払えます」
手持ちの現金はないけれど、原稿料は出版社社長のツテで商人ギルドに預け入れされている。商人ギルドは各国を渡り歩く商人が行く先々で現金を預け入れや引き落としできる画期的な仕組み。金融機関としては、商人ギルドが一番発達しているのは間違いない。
しかも私の原稿料は地に落ちたガラージュ公国通貨じゃなく、金で預け入れされている。顔を合わせたことすらない出版社社長には本当に頭が下がる。
「はっ、ははっ! はははっ! 恐れ入ったよ、あたしゃとんだ眠れる黒獅子に喧嘩をうっちまったようだ!」
女性は涙から一転、弾けるように笑った。
ん?
「黒獅子って、私!? やだやだ、めっそうもない!」
「ははははははっ!」
女性の笑いはしばらく収まる事が無かった。
「改めて、私は元ガラージュ公国第三皇女ミーナ。けれど、今はもうただのミーナ。これから、よろしくお願いします?」
スッと差し出した右手。
「ミーナさま、あたしゃトルテッタ。ドルーガン王国軍のしがない料理人だったが、これからはミーナさまにお仕えするよ」
少し荒れた女性の手は、温かく私の手を包み込んだ。
こうして私は強力な助っ人を得て、ドルーガン王国へとその身を移すことになった。