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騎馬での移動も三日目を数えた。連日の移動が体力を奪い、日暮れと共にジルガーの背を降りた時には、殆ど精神力だけで立っているような状態だった。
「血も涙もない娘さ。自分の親兄弟殺されといて、我が身可愛さに自分は不遇の皇女様を演じてる」
軍には兵士ばかりじゃない。料理人や医者だって従軍している。
「あたしゃ別に偏見はないのさ。しかし、それにしたってその黒髪黒目はあんまし見目いいもんじゃないねぇ」
流石に若い女性はいないが、料理人の中には数人の女性が混じっていた。そもそもが敵国皇女ではあるのだけれど、将軍自らが目をかけて、特別扱いを受ける同性にはどうしたって見る目も厳しくなるようで……。
アスラン将軍やセリュート青年の目の無い所で謂れのない陰口や、軽くどつかれたりはこの三日で、もう慣れっこになっていた。
この晩は野営のテントを張り終えると直ぐに、アスラン将軍とセリュート青年は部隊長らを集めた会議に向かった。
私はテントで一人、ぽつんと暇を持て余していた。ここには本の一冊だってないから、手持無沙汰もいいところ。
「ちょっとアンタ、聞いてんのかい?」
だからといって、刺々しく意地悪なおばさんのお相手は遠慮願いたかった。一日の軍行を終えた今、おばさんたちよりも体力的に劣る私には正直、言い合いをする余裕はない。
私の目の前に立ちはだかるおばさんは私の夕食を運びに来た筈なのに、一向に手に持ったお盆を置く気配が無い。
「なんとか言ったらどうなんだい!?」
無言のまま答えようとしない私におばさんは激昂し、空いてる片足で私を蹴りあげた。
!!
もちろん女性の力、そんなに強く蹴られた訳ではない。けれど私は、慣れない乗馬で疲労困憊しており、揺らぐ体を意思の力だけで支えていた。そんな危うい均衡を崩すには十分だった。
ガツンッッ!!
私は力を殺す事も出来ずに蹴られた勢いのまま倒れて、簡易テーブルの端に強かにこめかみを打ち付けた。
「……うぅっ」
のろのろと起き上がる。
「ヒッ!」
あ……。
片手で打ちつけた箇所に触れれば、指先にぬるりと滑る嫌な感触がした。見れば指先は朱色で汚れ、ポタリポタリと床にも滴りが落ちていた。
ありゃ、血が出てる。
「あ、あぁあ」
けれど、怪我をした当人以上に蒼白になっているのはおばさんだった。おばさんは顔を真っ青にして、ガクガクと震えていた。
きっと、おばさんの本質は悪い人じゃない。旅の疲れと敵国皇女への鬱憤から、ついちょっかいを出してしまっただけ。
だからこそ、私に怪我を負わせた事にこんなに衝撃を受けて、狼狽えている。
私は本当の狂気を二度も目にしているから、おばさんのちょっとした悪意は悪意の内にも入らない。なにより、こんなに狼狽した姿を見せられてしまっては、責めるに責められない。
そもそも私は敗戦国の皇女で、本来は生権与奪すら全てドルーガン王国の手の内なのだ。
「ねぇ、」
震えるおばさんに、声を掛けようとした。
「俺のテントで何をしている?」
!
その時、バサリとテントの入口が開け放たれた。入って来たのはアスラン将軍その人。後ろにはセリュート青年の姿も見える。
中の光景を目にし、アスラン将軍の双眸が剣呑な光を帯びる。
「これは一体、どういう事だ?」
アスラン将軍が厳しい声音でおばさんに詰問する。
「あ……、あっ」
何かうまい事を言って逃げればいいのに、おばさんは震えるばかり。……本当に、馬鹿正直だ。
あぁ、そうか。いつまでも私がすっ転んでるからいけない……。
「おかえりなさい。私がうっかり転んじゃって、そうしたらちょうどその女性が入って来たんです。私の血に、動揺しちゃったのかも」
なんとかぶつけた簡易テーブルを支えにして立ち上がる。それなのに、意思の力で制御できていた筈のくらくらが、何倍にも膨れ上がって私を襲う。
「おいっ!!」
初めて聞くアスラン将軍の焦った声。それを耳にしたのを最後に、意識が飛んだ。けれど地面に叩きつけられる衝撃はなく、大きくて温かな何かにふわりと抱えられるのを夢うつつに感じた。
***
ドルーガン国王カルバンより、全権を預けられてのガラージュ公国出兵だった。
出兵前夜、俺はカルバンから個人的に呼び出しを受け、しぶしぶカルバンの自室に向かった。
「おいカルバン、急な呼び出しは困るぞ。俺は明日の準備で目が回るほど忙しい」
「どの口がそれを言う。アスランお前の事だ、セリュートに全て押し付けて、酒場にでも繰り出そうとしていたんだろう?」
ピタリと言い当てられた俺は、返す言葉を失った。
今まさに酒場に繰り出そうと足を踏み出しかけたところで、俺はカルバンの寄越した遣いに強制的に連行されてしまったのだ。
「ははっ、図星か。まぁいい、アスラン座れよ?」
ここまで来たら仕方ない。俺は酒場に行くのを諦めて、カルバンの向かいの椅子に腰を下ろした。
「アスラン、かつてガラージュ公国とは国交があった。長い歴史を見れば、我が国とガラージュ公国の関係は友好的といってもよかった。だから私は猶予を与えた。だが、それももう終わりだ」
カルバンの決断に、反論の余地など無い。
ここ数十年、ガラージュ公国はもう、国としてまるで機能していない。ケトルード国の甘言に踊らされ、搾取され、そそのかされてついにはドルーガン王国領への派兵進軍。統治者の行動としては常軌を逸していると言わざるを得ない。
「まるで、自ら望んで破滅の道を進んでいるかのようだな」
俺とて爺さんからガラージュ公国に遊学した話なんかを、幼少の頃によく聞かされていた。ガラージュ公国はデルーニ海に面して海洋資源に恵まれ、北には鉱山を抱える豊かな大地だ。
それが無能な皇帝の統治によって、国民は重税に喘ぎ、疲弊している。
「全くだよ。己の田畑を捨て、我が国に亡命を求めるガラージュ民が後を絶たない。国境の町村では、その対処が追いつかずに苦慮している。今朝の朝議で、もう三度目の担当官の追加派遣を指示したところさ」
「国境ばかりじゃないぜ。ガラージュに潜伏中の諜報兵の報告じゃ、一見豊かに見える都市部でも、一歩裏路地に入れば食うにも困る浮浪たちが吹き溜まってるそうだ。数十年前には無かったスラムが、いつの間にか形成されちまってる」
「同じ一国を率いる者として、まったくもって腹立たしいね。何故この惨状にガラージュ皇帝は気づかない? 何故愚かにも我が国に進軍した? 私には、到底理解できない」
カルバンは大仰に肩を竦めてみせた。
賢王との誉れ高いカルバンに、愚帝の考えは永遠に分かるまい。
誰が見ても、ガラージュ公国に領土拡大など不要だった。しかし愚帝は、今ある豊かな土地を守り、次代に繋げる事で良しとはしなかった。
「俺は国土、国民への被害を最小限にガラージュ皇帝の首を取る。しかしその後、悪政にあえぐガラージュの民を正しい統治に導くのはカルバン、お前だ」
カルバンは心底嫌そうに、眉間に皺を寄せた。
俺とカルバンはほんの赤ん坊の頃からの付き合いで、他の目が無い所では俺はいつも飾らず地でいる。猫を被り、敬語にまどろっこしい言い回しで腹の探り合いをするなど、肩が凝って仕方ない。
「はぁ~、私は自国を治めるのに手いっぱいさ。義弟よ、少しは義兄に協力しようという気はないのかい?」
! おいおい。そんな不穏な内容をおいそれと口に出すなってんだ。
「めったな事を言うもんじゃない。俺は王宮の洗濯女の私生児。父親は端から居ない。母亡き後、先の王妃様の慈悲でカルバンの遊び相手と召し上げられたのは、たまたま年の頃が近い男児だったからだ」
大仰に肩をそびやかし、わざと軽い調子で告げた。
そうだ、それでいい。俺はそもそも王子なんてガラじゃないんだ。
「……まぁいい。今はそれよりもガラージュ公国への処遇だ」
カルバンは物言いたげに俺を見つめたが、結局口を噤んだ。
そうしてカルバンは、一拍の間を置いて告げた。
「賛否はあるだろうが、贅沢三昧に国を蝕んだ皇帝夫妻と皇太子は処刑。こうせねば示しがつかんだろう。ただ、他家に降嫁した第一皇女と第二皇女は捨て置け。もう皇籍から外れている」
なんだかな。なんだかんだでカルバンは慈悲深い。必要最小限の処刑で済ませて、後の貴族らには対しては、その命を取らず領地没収で済まそうとしてる。
「お優しいこって」
「どうだか、こういうのはやり過ぎると禍根を残すからな」
カルバンはおもむろに立ち上がると、戸棚に向かった。手前のグラスを二脚手に取ったと思ったら、もう片方の手に戸棚の奥の奥、カルバン秘蔵のワインボトルを握って戻ってきた。
カルバンは懐からナイフを出せば、器用にコルクを開けて見せた。
「へぇ、巧いもんだ」
「ほら」
そしてグラスに琥珀色のそれをなみなみと注げば、俺にグラスを差し出した。
「いいのか? お前のとっておきのワインじゃねーのか?」
「さてな、戦勝祝いだ。ケチってどうする?」
いやいや、戦はまだ始まってもいない。なにより、将軍の俺がまだここ王宮にくつろいでいるくらいだ。だから、
「どっちかってーと、戦勝祈願だろう?」
カルバンも自らのグラスにワインをなみなみと注ぐ。
「いいや。戦勝祝いで合ってる。ガラージュ公国はもう駄目だ」
「違いねーや」
俺達は掲げたグラスを同時に煽った。
くそぉ、うめぇじゃねーか!
「カルバン、お前こんな良いワインをこそこそと集めてやがったのか!?」
「……別にこそこそはしていない。義弟よ、お前が訪ねてくれば私はいつだって開けてやる。面倒くさがって私を訪ねようとしないのはお前だろう?」
「グッ」
藪蛇を突いた俺は、残りのグラスを一息に煽って誤魔化した。
「ははっ」
そしてその翌夕、俺は一軍を率いてガラージュ公国に出兵した。
案の定、ガラージュ皇宮は難無く落ちた。
だが、こんな荷物を背負って還る事になろうとは全くの予想外だった。
腕の中、意識を失くした姫さんを見下ろす。
姫さんはかなり根性がある。そりゃあもう、そんじょそこらの一兵卒に爪の垢でも煎じて飲ませてやりてぇぐらいだ。
だが、その根性で自分の限界を超えるまで無理を押しちまう。今回がまさにそれだ。
行きがかり上、俺は馬上で姫さんの体をピッタリと支えている。だから、いまだに姫さんが乗馬に緊張して体を固くしてるのも、うとうとし始めたと思っても後ろの俺に体重を掛けないよう根性で意識を保とうとしてるのも、全部知っている。
そして俺は知っていたのに、失神して倒れるまで無理をしているとは認識していなかった。
「細っこい体してんもんなぁ。ちゃんと食ってんのか?」
返事の返らない青白い頬をツンと突いてみれば、ぷにんと指先が沈む。
ふむ。
細っそい体にいっぱいの思いを抱えて一人、踏ん張ってんだよなぁ。
何だ? 想像すれば胸が波立つ。僅かに熱っぽい気すらしている。今まで感じた事の無い感覚だ。
「やべぇ。風邪でも引いちまったか?」
俺は生まれてこの方、風邪のひとつも引いた事の無い健康体だ。世に言う風邪の引き始め、悪寒というやつがこれなのだろうか。
「失礼します、アスラン将軍? 料理係の女ですが、ようやく少し落ち着いた様子です」
遠慮がちに天幕を捲り、外から声を掛けてきたのはセリュートだ。
「なぁセリュート、この姫さんをどう思う?」
「えっ!!」
セリュートは俺の問いに何故か頬を赤く染めてもじもじと言いよどむ。
「……か、可愛い、と思います!」
長い溜めの後にもたらされた回答は、何故か姫さんの容姿に対するものだった。いや、まぁ、確かに可愛いには違いないだろう。吸い込まれそうな黒い瞳に絹みたいに滑らかな黒髪。肌はややクリームがかった白色でシミひとつなく、きめ細かい。
細っこくて頼りない佇まいもまた、庇護欲をそそる。
「……じゃねーよ。幽閉されてた割りに世界情勢なんかを良く理解してるし、己の身の行く末に関しても達観し過ぎちゃいねーか?」
「あ、そこは私も思っていたところです。敵国へ連行中の状況にも関わらず、ミーナ様の様子はあまりにも落ち着いているといいますか、自然体といいますか……」
まだ十五歳の皇女。その見た目も吹けば飛んでしまいそうな頼りなさ。それなのにそこから垣間見えるのは達観した理性的な思考。
「まぁ、姫さんの事は今はいいか。料理係の女にはお前から厳重注意しとけ」
セリュートがきょとんとして俺を見返す。
まぁ言いたいことはわかる。軍務規定に則れば、故意の他傷は除隊処分とするところだからな。
「……よろしいんですか?」
「良いも何も、姫さんが自分で転んだっつってんだ。しゃーねーだろう?」
全く人の良いこった。俺は自ら巻いてやった、姫さんの頭の包帯をそっと撫でた。傷は、深くはない。それでも顔に怪我を負わされて、垂れる血を見ながら冷静に加害者を庇おうとする女なんて初めて見た。
女はちょっとの怪我でピィピィと喚き、あまつさえそれが他者から与えられよう物ならもう手が付けられない。その身分が高ければ他者への追及は一層激しくなる。
こんな毛色の変わった女は初めてだ。
セリュートは静かに頭を下げて天幕を後にした。俺はラグクッションに姫さんを抱いたまま腰掛ける。俺の膝に力なくだらんと身を預ける姫さんを、何故か寝台にやるのは惜しく感じてしまったのだ。
そう、まるでしなやかな黒猫でもその膝に乗せているような、そんな心地よい温もりをもうしばらく堪能していたかった。そうして膝の上にぽかぽかの黒猫を抱き締めていれば、いつの間にか俺までが眠りの世界に旅立ってしまった。