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大男に手を引かれ、ガラージュ宮殿の正面に辿り着く。既にガラージュ宮殿は、ドルーガン軍に制圧されている。
見上げたガラージュ宮殿の尖塔にはドルーガン王国の国旗がたなびき、宮殿の正面入口にはドルーガン軍の兵士が立っていていた。
「ご苦労」
大男は気安い調子で兵士に一声かけ、スタスタと宮殿内へ進んだ。
ドルーガン兵は、既に私の身の上を聞き及んでいたのだろうか、すれ違いざまに敬礼し、腰を折った。
背中にドルーガン兵の食い入るような視線を感じながら、私は五年振りに宮殿に足を踏み入れていた。
しかし、足を踏み入れた宮殿に郷愁など皆無。私が知るガラージュ公国は北砦の最上階の空間と、そこから見下ろす景色が全てだからだ。
「アスラン将軍!」
青年兵が駆け寄ってきて、大男の前で膝を突く。
「おぉ、セリュートご苦労だったな」
うん? ……将軍?
セリュートと呼び掛けられた青年は今、大男の事を将軍と呼び掛けなかったか?
目をぱちぱちと瞬かせる私に大男は苦笑した。
「そうか、自己紹介がまだだったな。俺はドルーガン王国軍将軍アスランだ。姫さんの名前はなんてんだ?」
……そうか、階級不明のこの男は、将軍だったか。
なるほど、そうすると先ほどのドルーガン兵の敬礼は私じゃなく、私を連れた将軍に向けたもの。
大国ドルーガン王国の将軍様とは恐れ入った。
「ミーナ、です」
「そうか」
アスラン将軍は鷹揚に頷くと、私の腕を解放した。
「セリュート、この姫さんの旅支度を整えろ。三十分後にここを発つ」
「はい、承知いたしました。それからあの、差し出がましいようですが、将軍も出立の際には上着を羽織られた方がよろしいかと。楽なのは重々理解しますが、先頭を行く将軍がそれでは、さすがに道中恰好がつきませんので」
「言われずとも分かっている。とはいえ紋章やら飾りやらで見た目ばかり飾り立てたあんなもの、肩が凝ってかなわん」
アスラン将軍は心底嫌そうに、肩を竦めてみせた。
「まぁ気持ちは分かりますが、権力を誇示するために視覚が有効に働く事も否定できませんから」
なるほどアスラン将軍という人は、型にはまらない自由人だ。
この手のタイプは、ガラージュ公国には珍しい。
「ではミーナ姫、こちらへ」
セリュート青年はアスラン将軍と二言三言交わすと、ぎこちなく私の背中に手を添えた。
私はここでアスラン将軍と別れ、セリュート青年に促されるまま宮殿奥へと進んだ。
そっと振り返れば、アスラン将軍は部下と思しき数名に某かの指示を与えているようだった。改めて見るその姿は、先程までの私に対する気安い態度とは一転して、人を従える威厳に満ちていた。
父である皇帝には無かった風格、それをアスラン将軍に見た思いだった。
「ミーナ姫、五日程の行程になります。申し訳ないのですが、こちらで旅に必要な品を詰めて下さい」
セリュート青年がすまなそうに私を通したのは、使用人用の衣裳部屋のようだった。
おそらく宮殿内も北砦と同様に、皇帝一家の豪奢な衣服や装身具といった金目の物は、真っ先に持ち去られたに違いない。
けれどセリュート青年の語った五日の行程という単語の意味を考えれば、ゴテゴテとしたドレスを指し示されるより、使用人用の簡素な衣服の方が、余程にいいと思えた。
むしろ、有難い。
「男の私にはわからない事もあると思いますので、ご自身でお願いします」
「ありがとうございます」
差し出された荷袋を受け取って礼を伝えれば、セリュート青年は軽く会釈だけ返し、少し距離を置いた扉の前に立った。
私は早速質素なワンピースや肌着の類を五日分に足るように詰めながら、セリュート青年の気づかいに感心していた。女性には女性の事情があるから、そこを考慮して私の手に任せてくれるのはとても有難かった。
「すみません、ちょっとだけ着替えますね」
私は荷造りを終えると着替えを掴み、監視するセリュート青年に一声かけて衝立のうしろに回った。
「……え、着替え? ……って、えぇぇえっ!?」
衝立越しにセリュート青年の素っ頓狂な声を、聞いた気がした。
「お待たせしました」
私が着替えを終えて衝立から顔を出すと、セリュート青年は頬を朱色に染めて俯いていた。
さり気なく荷造りの一部始終を監視していた先ほどまでとは一変し、セリュート青年は今、隙だらけだった。
「あの、お待たせしてすみません?」
私の二度目の声掛けで、セリュート青年は弾かれたように顔を上げた。
そうして私の姿を目にしたセリュート青年は、落っこちそうなくらい目をまん丸に見開いた。
「そ、その恰好っ!?」
……うーん。やっぱり、おかしかったかな?
「この服装、おかしいですかね。だけど乗馬なら、これが楽かなって思ったんですけど……」
私は最初に、五日程の行程と聞かされている。その情報と私の置かれた状況を鑑みれば、私の行く先など火を見るよりも明らか。
ここからドルーガン王国までは、ちょうど馬で五日ほど。馬車なら更に数日掛かるから、私はおそらく騎乗で移動する事になる。
ならばと思い、私はシャツとパンツに革の長靴という男物に身を包んでいた。
この世界の令嬢ではあり得ない事は承知していたが、幽閉期間に運動らしい運動は皆無。しかも日本に居た時も含めて、乗馬経験はゼロ。とてもこの世界の令嬢たちのようにドレスで横座りの乗馬など、出来る気がしなかった。いや、普通に跨いで座ったって、五日も馬に乗る自信などないのだが、そこは敢えてスルーだ。
「……ええっと、やっぱり私ワンピースに着替えてきます」
けれどあまりに長い沈黙に居た堪れなくなって、やっぱり着替え直そうと踵を返した。
そうしたら、セリュート青年に物凄い勢いで手を取られた。
「いえ、とてもよく似合っています! おかしいどころかっ、……かっ、かわっ」
不自然に言い淀むセリュート青年を怪訝に思って振り返る。
「う、うわぁっ! す、すみませんっ!! と、とにかくそれで行きましょう!」
目が合った瞬間に、セリュート青年は弾かれた様に手を放した。
そのままセリュート青年は、逃げるみたいに背中を向けたかと思えば、スタスタと足早に衣裳部屋を出てしまう。
……え? 何事!?
とにもかくにも、置いて行かれてしまっては堪らない。
私は慌てて荷袋を掴むと、前を行くセリュート青年の背中を追った。
「ほう、正しい判断じゃねーか」
これは、私の恰好を見たアスラン将軍の第一声だ。
そのアスラン将軍は、風格のある詰襟の軍服に緋色のマントをたなびかせている。引き連れた一際大きな軍馬と相まって、その存在感といったらない。
「……なるほど、視覚の与える効果は侮れない」
思わず、呟いた。
これならばもう、アスラン将軍の事を一兵卒だなんて間違う隙もない。
「? それじゃ行くぞ」
アスラン将軍は一瞬だけ怪訝な表情を浮かべたが、そのまま一歩を踏み出して、片腕で私をさらう様に抱き上げた。
「きゃっ!」
取り落とされやしないかと、反射的にアスラン将軍の首に腕を回して縋る。
アスラン将軍はそのまま私を馬上に押し上げて、ストンと鞍に座らせた。
はじめて乗った馬の、想像以上の高さに驚く。空いた手が勝手に縋るものを求め、ギュッと馬の鬣を握った。
ヒヒヒィーンッ!!
「きゃあああっ!」
嘶いた馬が前足を蹴りあげた。
!! 振り落とされる!!
「ジルガー! 落ち着け、どう、どう!」
ギュッと目を瞑って落馬の衝撃に備えたけれど、いつまで経っても衝撃は訪れない。
……?
そっと瞼を開ければ、背後から伸びた手が、私の前で手綱を握っていた。
もう一方の手は、私の腹をしっかりと支えていた。背中には、ピッタリと人肌の温もりが伝わってくる。
あ、アスラン将軍が相乗りになって馬を落ち着けてくれた?
おそるおそる振り返れば、アスラン将軍は眉間に深く皺を刻んでいた。コバルトブルーの双対が厳しい光を湛えていた。
コツン。
「いたっ」
頭頂に、アスラン将軍のゲンコツが落ちる。
「馬鹿娘。馬の鬣を急に握る者があるか」
けれどアスラン将軍のゲンコツは、限りなく手加減が加えられたもの。
「ご、ごめんなさい」
痛くは無いけれど、私の行動がどれだけ危険かは十分に伝わっていた。アスラン将軍のおかげで落馬を回避できた。だけどもし、アスラン将軍が咄嗟に乗り移ってくれなかったら……。震える指でズボンを握りしめた。
アスラン将軍は再び特大の溜息を溢し、私の手に自身の手を重ねた。重ね合わされたアスラン将軍の手は驚くほど大きくて温かかった。
「……もう大丈夫だ」
温かな手に優しく甲を撫でられれば、握りしめていた指が緩む。
アスラン将軍は私の手を解かせると、鞍のサイドホルダーに誘導した。
「姫さんは乗馬も初めてだったんだな。迂闊に乗せ上げた俺も悪かったが、もちっと力を抜いてくれないか? これじゃ流石のジルガーも気になっちまって落ち着いて走れやしない」
「ぜ、善処します!」
大真面目に答えた私に、何故か背後のアスラン将軍は大爆笑した。
なんで!?
こうして私達の馬はドルーガン王国軍の先陣を切り、一路ドルーガン王国へ出立した。
馬での移動は一言で言えば苦行。
私は己の悪行を洗い流す禊だと言い聞かせ、精神世界に旅立ってなんとか凌ぐ。
それでも、現実にはお尻と内股が擦れて痛い。運動不足の全身は筋肉痛で、ギシギシと悲鳴を上げる。いまだ残る恐怖が、どうしたって肩首に力を入れさせる。そうすれば固まった肩首から、凝りが頭痛へと発展して私を苛む。
無限の負のループだ。
「姫さん、もうすぐ休憩になるぞ」
アスラン将軍の台詞に、嬉し涙が浮かぶ。アスラン将軍はピッタリと後ろに寄り添っているから、満身創痍の私の状態をよくよく感じ取っている。最初の休憩場所に着いた時には、私の尻の下に柔らかな敷物を敷いて、鞍に細工をしてくれた。
皆が休まずに馬を駆っている時も、私に水袋を寄こして飲ませてみたり、干しなつめを含ませてみたりと、その献身振りには余念がない。
「すみません。ほんと、ご迷惑お掛けします」
今もアスラン将軍は、後ろから私の腰をしっかりと支えてくれていた。アスラン将軍は深めに私を抱え込み、私の負担軽減に尽力してくれている。これではアスラン将軍の方が肩が凝ってしまいそうだが、そこは体の造りからして違うんだろう。
「なぁ、姫さん。お前さんは半ば無理やり敵国に連行されているんだ。礼や謝罪はおかしくないか?」
いやいや、こんな気づかいをいただいて感謝しないわけがない。
「あの、認識の相違があるかもしれません。私はガラ―ジュ公国に郷愁って感情はないんです。むしろガラージュ公国に捨て置かれたら、千年続いた公国を終焉させた皇族として、あっという間に土に返されてたと思うんです。いっそ生かして保護してくれているドルーガン王国には感謝です」
この言葉に嘘はない。私とて望んで死に急ぎたいわけじゃない。命を繋げる道があるのなら、それに縋りたいと思うのが人の性だ。
ドルーガン王国の手腕はいっそ天晴。宮殿は制圧され、皇族も処刑されたようだが、民はほとんどその戦火に巻き込まれていない。ほんの一夜にして千年続いたガラージュ公国宮殿は落とされてしまったのだ。
一般民に関して言えば、見事なまでの無血開城が成されたわけだ。
「……お前さんが皇帝として立てばあるいは、ガラージュ公国はその名を失うことなく更に続いていたのかもしれねーな」
それはあり得ない話だ。皇帝自ら葬り去ろうとした不要の第三皇女。どう逆立ちしたって、私が帝位に就く未来なんてあり得ない。
「そんなありもしないもしもの話より、私は実直な施政をされるドルーガン国王陛下にこそガラージュ公国の統治をお願いしたいですね。あ、ガラージュ公国はなくなって、今後はドルーガン王国の一領として組み込まれるのか……。なら、今後はガラージュ領かな?」
最後はぶつぶつと独り言みたいに呟く。しかし私の独り言を耳ざとく拾ったアスラン将軍は、背後で盛大な溜息を吐いた。
「なぁ、姫さんは本当に十五歳か? えっらく達観しきってて、おっさんはいっそ悲しくなってくんぞ?」
おじさん? そんな事はない。
アスラン将軍が何歳かは知らないが、それを言ったら私の精神年齢だっておばさんになってしまう。
私は曖昧に笑ってこの話題を打ち切った。