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……ん。
微睡みから意識がゆっくりと浮上して、はじめに感じたのは朝日の明るさ。
……あぁ、朝だ。私は寝台から身を起こし、窓へと視線を巡らせた。そうすれば、窓の外には青く澄み切った空が広がっていた。引き寄せられるように、窓越しの空を仰いだ。
「いい天気……」
だけど小さく瞬きをした次の瞬間、視界は晴天の青色から鉄格子の鈍色に変わる。あんなにも眩しかった青色が、鈍色のうしろに追いやられてしまっていた。
視覚というのは目だけじゃなく、実は脳でも物を見ているという。
しかも脳は上手く出来ていて、見たい物だけにフォーカスして見る機能を持っている。
ブラインド越しの景色というのがいい例で、景色に意識が向いている時、本来見えている筈のブラインドは視界から消えているといった具合だ。
「……うーん。簾とかならまだしも、鉄格子じゃあまりにも情緒がない」
眩しいほどの青色は、鉄格子の鈍色を際立たせる。
一度鉄格子を視認してしまったら、どんな青空も、もう心には響かない。鉄格子越しの空に、現実を知らしめられる思いだった。
「晴れの日の空なんて、見るもんじゃないな……」
灰色の空は寛容に、鉄格子の鈍色を呑み込んで隠してくれる。
だから私は、曇りや雨の日の空の方が好きだった。
胸がギュウっと締め付けられる。感傷の情が刺激され、無性に泣きたくなってくる。
けれど不思議と、涙は出ない。
「ふふふっ。あの時に、涙が枯れるまで泣いちゃったもん……」
私は感傷を振り払うように緩く頭を振って、五年間眺め続けた格子越しの空から視線を外した。
コンコン――。
「ミーナさま、おはようございます」
部屋の扉が叩かれて、現れたのはにこにこと朗らかな笑顔を浮かべる世話係のマーサだ。
「マーサ、おはよう」
平静を取り戻したつもりでいたけれど、答えた私の声は掠れていた。聞き付けたマーサの表情が曇った。
「ミーナさま、顔色が良くないね? 眠れなかったのかい?」
駆け寄ったマーサが私を腕に抱き締めて、トントンと背中を撫でる。
マーサの胸の温かさに、ざらついた心が穏やかに凪いでいく。
「ううん、昨日はぐっすり眠れたよ。実を言うと、起きた時に窓の鉄格子が目に入っちゃって、少しだけ凹んじゃった。だけど、もう平気。これは私なりにちゃんと、折り合いをつけている事だから」
マーサ相手に、隠し立ては通用しない。だから正直に伝えれば、マーサが私を抱く腕に力を篭めた。
かつて私についた三人の世話係、その誰もが私に直接触れる事をしなかった。けれどマーサは私に触れる事、その胸に私を抱き入れる事を厭わない。
「本当に、こんなに可愛らしいお嬢さまに陛下も皇妃様も酷い事をしなさるよ。ミーナさまが魔女だって? お二人のなされようの方が余程悪魔の所業さ!」
マーサの言葉が、重たい朝の目覚めを優しい温もりに塗り替える。
「……ねぇマーサ。幽閉生活がマーサとこうして出会えた切欠なら、そう悪いものじゃないよ」
私は顔を上げて、悪戯っぽく笑ってみせた。
「ミーナさま!」
「グェッ」
マーサの剛腕に締め上げられて、珍妙な呻き声が漏れる。
「わわっ、ミーナさま大丈夫かい!?」
マーサが大慌てで腕を緩め、心配そうに私を見下ろす。
触れる優しさが、心を豊かに塗り変える。マーサには、恨みつらみ、そんな不毛な感情を昇華させる力があるに違いなかった。
「全然平気!」
微笑んで、私からその懐に飛び込めば、マーサも笑顔で私を胸に抱き留めた。
「……なぁ~。かーちゃん、飯が冷めっちまうぞ?」
「マリッサ!」
私達のやり取りに、呆れた声がかかる。声の主は、マーサの娘のマリッサだ。
「よっ、ミーナ」
テーブルに朝食のセッティングを終えたマリッサが、私に向かって軽い調子で片手を上げた。
マリッサは美奈の今生、皇女ミーナと同じ十五歳で、マーサとよく似た面差しの美しい娘だ。いっそ完璧すぎる金髪碧眼の美貌は、しかしひとたび口を開いた瞬間に、残念なものに一変する。
「これっ、マリッサ! ミーナさまに向かって呼び捨てなどしてっ!」
「けっ、知ったことかってーの」
マリッサはマーサの叱責にもどこ吹く風で、ひょいっと肩を竦めてみせた。
「もうっ! この子は一体誰に似たんだろうねっ!?」
「かーちゃんだろよ?」
マーサとマリッサと過ごす穏やかな日常に、自然と笑みが零れた。
「ミーナさま、あたしゃこの後、城下におつかいに出るんですよ。何か入用な物はありますか?」
朝食を取り始めてしばらくしたところで、マーサが水を向けた。
「それならこれを、届けてもらえる?」
私は一旦食事の手を止めると、文机から一通の封筒を取って来てマーサに差し出した。
「あぁ、いつもの所だね。それじゃあ、いってきますね。そうそうミーナさま、済んだ食器は別の者が下げに来ますから、よかったら扉の前に出しといて下さいよ」
マーサは私から受け取った封筒を手に部屋を出ようとして、けれど出がけに思い出したように振り返って告げた。
マーサの心遣いが嬉しかった。魔女に対するマーサとマリッサ以外の使用人の態度は割と手厳しい。
「ありがとう、マーサ。気を付けていってらっしゃい」
重く扉が閉まり、マーサの足音が遠ざかる。
北砦での幽閉生活は、五年を数える。同時に、私がミーナとしてガラージュ公国に転生を果たして五年。
この間、私がこの扉を潜った事はただの一度もない……。
私は、笹井美奈。
いや、正確に言えば「笹井美奈」という人間は二十一歳でこの世を去り、鬼籍に名を連ねて久しい。
だけど私は確かに「笹井美奈」で、「美奈」として生きた記憶を持っている。そして「ミーナ」として転生した今世の始まりも覚えている。
そう、あの思い出したくもない最悪の記憶を全て覚えている。
今から五年前、私は短大を卒業して就職したばかりの二十一歳だった。仕事は覚える事がたくさんあり、決して楽ではなかったけれど充実もしていた。
あまり社交的なタイプではなかったから、友人はそう多くなかった。けれど休日には本屋に行って、自分のお給料で好きな本を買う。それをくつろげる自宅だったり、お気に入りのカフェに行ったりして読む。そんな普通の生活を満喫していた。
そんな日常は、私にとって当たり前。
だけどあの日、いつも通りに退社して自宅の最寄り駅に降り立ったところで、その当たり前の日常は一変した。
連日ニュースで騒がれていた連続通り魔殺人事件。私の暮らす地区内の事だけど、どこか他人事のように、テレビの画面越しに眺めていた。
けれど画面一枚を隔てた遠い出来事は、現実のものとなって、私に魔の手を伸ばす――。
力の限りで走った。
とっくに心身の限界なんて越えていた。
それでも縺れる足を、意志の力で前に運ばせる。
喉の奥がヒュウヒュウと嫌な音を立てていたけれど、気にする余裕もなかった。
けれど現実は無情で、あっという間に男の気配が背後に迫る。
いやだ! いやだっ!! まだ、死にたくなんてない!!
私は一心に、神様に祈った。
「っっ!!」
だけど神様は私の願いを一蹴し、私は渾身の力で男に肩を掴まれた。
容赦のない力で後ろに引き倒されて、後頭部をアスファルトに強打した。噴き出す血が、アスファルトを真っ赤に染めていく。
私の視界は一転し、絶望という名の灰色で塗りつぶされる。
……ああ、神様は私を見捨てた。
……私はもう、助からない。
冷静な何処かで、そう思った。
「ッグッッ」
真っ赤な血の海に仰向けに倒れた私の上で、馬乗りになった男の手が首を掴む。
抵抗しようにも、体は既に言う事を聞かない。僅かに持ち上がった血濡れの右手が、虚しく宙を掻いた。
私はもう、神様に祈らなかった。けれどもし次の生があるならば、その時は人並みに恋をして、愛する誰かと添い遂げて天寿を全うする、そんな当たり前に思いを馳せた。
見開いた目に映るのは、常軌を逸した男の表情。
「ァ、ッッーー」
声にならない呼気が漏れ出たのが最期。
こうして私は、美奈としての二十一年の生涯に幕を閉じた。
……全てが、終わったはずだった。そう、少なくともこれで、私は絞殺の苦痛と恐怖から解き放たれるはずだった。
けれど、神様は非情だった。
……いいや、非情なんて生温いものじゃない!! 神様とは、残酷で悪趣味な悪魔と同義! 私はそれを、目覚めと同時に、身をもって知らされた。
美奈としての命が潰えた直後、私はガラージュ公国の皇女ミーナに転生していた。いや、もしかすれば転生とは、違うのかもしれない。
ただし、死して再び肉体を得るという意味においては転生に他ならない。
これだけを聞かされれば、皇女としての再びの生を喜ぶ者もあるだろう。けれどこの目覚めは、決して私に優しいものではなかった。
皇女として覚醒した時、私は不吉な魔女として父である皇帝に、今まさに絞殺されようとしていた。
けれどそれは、後になって知った事。
その時の私は何故苦しいのか、どうして苦しいのか、それすらも分からずに、再びもたらされる息堰き止められる苦痛にただ喘いでいた――。
「……っっ!? ァッ、グッッ」
「なんと不吉な黒髪、黒目であろう! 其方は公国を滅亡へと導く魔女だ!!」
上から罵声が浴びせられる。しかし私には、言葉の意味を考える余裕なんてない。
首を絞め上げる力がますます強まり、意思とは無関係に体がビクンビクンと跳ねた。
それは思い出したくもない、けれど確かに体感した死の感触だった。
ぞろりとした生温さは、零れ落ちる命の温度……。
……そうか、私は再びの死を、迎えるのだ。
「待たれませっ!!」
けれど遠のく意識に、突如女性の声が響いた。
霞む視界に飛び込んだのは、流れる金髪に透き通る碧い目をした女神の如き美貌。
……あぁ、死神とはこんなにも美しい女性なのか。これは、二回目の死に際して初めて知った。
けれど死神かと思った女性が横切った次の瞬間、私の呼吸を堰き止めていた岩のような手が緩む。気道に隙間が出来て、肺に空気が流れ込んだ。
首の手は、そのまま外された。
私は激しく咳込んで、何かも分からぬ飛沫を飛ばしながら、床にもんどりうった。
「敬愛する陛下にお願い申し上げます! やはり、やはりミーナはどのような風貌であっても私達の娘に違いないのでございます! どうか、命だけは助けていただけませぬか!」
女性は男に低頭し、懇願した。
……娘?
極限の状態にあって、聞かされた内容にも、すぐには理解が追いつかない。
そんな時、女性の手が咳き込む私の背中に触れた。
嫋やかな手が、慣れない手つきでひと撫で、ふた撫でと背中を擦る。
……そう、そうだ。この人は私の、いいや、この”皇女”の母!
咳と震えが収まってくれば、自ずと私を取り巻く周囲の状況が見えてくる。私の意識とは別のところから、理解が胸に下りてきた。
皇帝に殺されかけた私を助けたのは、今まで皇女に見向きもしなかった皇妃。皇妃の訴えにより、皇帝は絞め上げていた私の首から手を引いたのだ。
「……皇妃よ、公国を破滅に導く魔女を助けようとするか? 我が公国のここ十年での目を覆いたくなる災厄の数々。十歳を数える我が末娘の誕生と無関係とはとても思えぬぞ?」
腹を痛めて生んだ娘に、最後に良心の呵責が湧いたのかもしれない。ほんの気まぐれかもしれない。
「陛下、ならば我が娘がガラージュ公国の大地を統べます地神様の目に、触れなければ良いのではありませぬか?」
けれど今、皇妃は皇女の為に嘆願し、その命を乞おうとする。
「陛下、どうか、どうか私に免じて命だけはお助け下さいませ!」
皇妃はなおも言い募った。
「ふむ。其方がそうまで言うなれば、……ならば皇妃や、皇女は北砦へ生涯幽閉とする。堅固な北砦の最上階ならば地神の目にも触れるまい」
皇帝の宣言が響く。皇妃は私の背中に置いていた手を引いて、両手で皇帝のマントの裾を戴いた。
「えぇ!! えぇ!! 陛下、ありがとうございます!!」
皇女の為に、皇妃が頭を下げる。その心の内、本当のところは分からない。
それでも私は皇妃の鶴の一声によって命を繋いだ。だからといって、私がそれを喜べる訳もなかった。
いまだ荒い呼吸は整わず、締め上げられていた喉はキリキリと痛む。だけどなによりも、心が苦しかった。
怒りや憤り、怨嗟が心に渦巻いて、荒ぶる感情の逃がしどころがなかった。目に涙を浮かべ、両手を握りしめた。ぎりぎりと掌に爪が食い込む。
怒りに身を焼かれそうな私を余所に、処遇を言い渡せばもう、皇帝は私を一瞥だってしない。豪奢な長衣を翻して皇帝が踵を返せば、皇妃も慌ててそれに付き従う。
退室する皇帝を睨みつけ、ギリギリと噛みしめた奥歯は一本割れて砕けた。
皇帝への配慮からだろうか、皇妃もまたこちらを振り返る事はなく、無言のまま皇帝の背中を追って消えた。
そうして皇帝と皇妃が退出すれば、私の元にはすぐに数人の兵士が寄ってきた。
「ミーナ皇女殿下、北砦へお連れいたします」
慇懃な言葉とは裏腹に、兵士の一人は足腰の立たない私の腕を取ると、半ば引きずるように連行した。
宮殿の回廊を兵士に引かれて移動する。回廊に、等間隔に嵌れられた大判のガラス窓。見るともなしに視線をやれば、無様に引きずられる私の姿が映っていた。
……え!? 私の子供の頃にそっくり?
思わず、足を踏ん張った。
そうして移り込む自身の姿に空唾を呑む。
ガラス窓に映る姿を見て、初めて知った。皇女は馴染みのある黒髪黒目で、美奈の面影が色濃い顔立ちをしていた。
そうしてガラスに映る皇女の頬には、滂沱の涙が伝っていた。
「立ち止まりませんと、参りますぞ」
直ぐに兵士に引っ立てられてしまったけれど、まるで網膜に焼き付けたみたいに、一瞬見た姿が脳裏から離れなかった。
私が収まる皇女の器に、元々の皇女の人格は存在しない。記憶はあるのだ、なのにそれに伴う感情が欠落していた。
からっぽの皇女の器に、私の人格がそのまま収まった状態。
それでも間違いなく、とめどなく溢れる涙は私と皇女、二人分の悲しみに染まっていた。
北砦に辿り着き、兵士が去って一人になっても、涙は止まる事がなかった。
幼い皇女の胸に、感情の嵐が吹き荒れる。
「……ふざけるな! 人の命を弄んで、ふざけるな!!」
誰が何の権利でもって、私の命をこうも弄ぶ!?
人智の及ばぬそれへの怨嗟に、小さな体はガタガタと震えていた。
「……だけど、命を繋いだから。繋いだ、命だからっ……」
握り締めた手のひらに、爪が食い込んで血が滲む。
見下ろした手は、成人の美奈のそれに比べれば紅葉のように小さい。けれど小さいこの手は力を籠めれば動き、この地で確かに生きていた。
「ならば私が皇女として、生きてやる!」
もしかすればそれは、反骨心が言わせたのかもしれない。あるいは極限の状態の中で、私が新たな生に一縷の救いを見出したのかもしれない。
けれど拾う者のない呟きは、私の決意。
誰とも知れぬそれへの、挑戦だった。
美奈とミーナ、二人分の涙は一昼夜枯れなかった。未明になって、私は気を失うように眠りに落ちた。
霞みゆく意識の中で、泣くのはこれで最後と決めた。
そうしてあれから五年、私はただの一度も泣いてはいない。