16
ここにきての私とアスラン将軍の関係はまるでいたちごっこのよう。会話を持ちたくてアスラン将軍に手を伸ばそうとすれば、アスラン将軍はそれをひらりと躱す。
白粉の匂いをさせて帰宅したアスラン将軍に会話を拒まれて、午前中いっぱい泣き濡れて過ごした。けれど夜にでも、また改めて機会が持てればいいと強く思い直して涙を拭った。
そうして午後からは戦争遺族の支援基金の話を詰める為に、支援者のお宅を回った。
ところが帰宅して家令のカルスさんから聞かされたのは、耳を疑いたくなるようなアスラン将軍の言づけだった。「視察でしばらく屋敷を空ける」、私はただそれだけを伝言された。
目の前が絶望に染まった。堪えたはずの涙が堰切ったように溢れ出る。
けれど今度は、流れる涙を止める術なんてなかった。
アスラン将軍が屋敷を空けて、一週間が過ぎた。私は泣き濡れて一週間を過ごし、その間、悲しみは徐々に諦観へと姿を変えた。
私は泣く事をやめた。
一週間、それは新婚の屋敷を空けるには決して短くない期間だ。妻である私に一言の断りもなくそれを実行されてしまうのは、アスラン将軍にとって私の立ち位置はとてつもなく低い、そういう事だ。
もしかしたらアスラン将軍はこの屋敷以外に別宅を持っているんじゃないか、そんな想像が頭を過る。眠れない一人寝の夜はさらに、別邸にはアスラン将軍が自ら望んだ女性がいて、もしかすれば子供だっているのかもしれないと、そんな不毛な想像が際限なく広がっていく。
諦めたと言いながら、不毛な想像は心を苛む。終わりのない連想ごっこを明け方まで続けていれば、当然に頭も体も重くて怠い。
ふぅ。
大きく息を吐き出して、凝り固まった体を伸ばす。
コンコン。
「ミーナさま!」
ノックと同時に扉が開く。ノックの意味が甚だ疑問ではあるけれど、来訪者の天使を目にすれば、そんな思いも彼方に消える。
真っ白な天使は鬱屈を吹き飛ばす清廉なパワーに満ちている。
「おはようアモン君、今日も来てたの?」
最近のアモン君はほとんど毎日、トルテッタと一緒にアスラン将軍の屋敷に同伴出勤していた。
「うんっ! おはよう、ミーナさま!」
アモン君の喘息症状はあれ以来、一度も起こっていない。医療従事者ではないけれど、小児喘息経験者の私のアドバイスは当たらずしも遠からずといったところだろうか。
「ねぇミーナさま、今日はお出掛けする? するなら僕も連れて行って!」
今日はセリュート青年のお父様のところに伺う約束になっていた。
「今日は基金の支援者のお宅に伺うの。あんまり楽しい話ではないと思うけれど、アモン君も一緒に来る?」
基金の筆頭支援者である侯爵がセリュート青年のお父様だというのは後から知った。セリュート青年のお父様はその出資額もさることながら、基金の設立に賛同し、大いに尽力してくれた。
「行きたい!」
「そっか、じゃあ朝食を食べたら一緒に出ようね。アモン君、先に食堂に行って待っていて? 着替えたら私もすぐ行くね」
「分かった」
アモン君はくるりと踵を返すと軽快な足取りで食堂に向かった。
セリュート青年のお父様と今日相談するのは、基金代表の人選に関してだ。まだ可能性の域だれど、私とアスラン将軍がガラージュ領に大使として赴任すれば、せっかく軌道に乗り始めた基金が代表不在になってしまう。
私に代わって基金を任せられる誰か……。もちろん筆頭でもあるセリュート青年のお父様でもいいのだけれど、欲を言えばもう少し華がある人だと理想的だ。
う~ん……。
ま、なるようにしかならないか。
私もドレスに着替えると、階下の食堂に向かった。
侯爵家への道のりは徒歩で三十分。
「ミーナ様、本当に歩いて行かれるのですか? 侯爵家は少々距離がございますよ」
カルスさんは私が外出の度に、馬車を用立てようとしてくれる。この国の貴族の奥方は、決して籠の鳥ではないけれど、三十分の距離はなかなか歩かない。
「はい、ゆっくり景色を楽しみながら歩くのがいいんです」
「左様ですか。けれどお疲れになりましたら、途中に貸し馬車屋もありますから使って下さい」
「はい」
だけど私は余裕で歩く。北砦を出てこっち、私は体力増強に余念がない。
「あ! アモン君は大丈夫!?」
「もちろん!! 僕、もうすっかり体調良いんだから余裕だよ」
可愛らしい同行者も得意げに胸を張ってみせた。
「ミーナさま、気を付けていっておいで。アモン、くれぐれもミーナさまに迷惑掛けるんじゃないよ!」
「分かってるよ。行こう、ミーナさま」
「いってきます」
私とアモン君はカルスさんとトルテッタに見送られて屋敷を出発した。
他愛のない話をしながら進んでいた。
「……ねぇミーナさま」
すると途中で、アモン君が不自然に言い淀んだ。
「ん?」
怪訝に思って目線を向ければ、アモン君の射抜くような強い瞳とぶつかった。
「……ミーナさまは、アスラン将軍が好き?」
!
直球のこの質問に私は何と答えたものだろう。うやむやに煙に巻く事も出来る。だけど私を見上げるアモン君の透き通る瞳に、それをする事が憚られた。
「そうだね。今はきっと、好きになってる」
ただしこの「好き」は一方方向。……報われる事の無い、私の片思いだ。
「うん、そっか。ミーナさまが好きなら、いいや!」
? アモン君はクシャリと顔を歪めて笑った。
「……僕、本当はねアスラン将軍って凄いと思うんだ」
続く言葉は少し、意外なものだった。
それというのも、アスラン将軍とアモン君は顔を合わせればいつも、チクチクと棘のある言葉の応酬を重ねていたから。いや、主にチクチクした物言いはアモン君で、アスラン将軍が大人げなくそれに牙剥く構図だ。
「ドルーガン王国の強みは軍事力にあるじゃない? アスラン将軍は天性の資質っていうのかな、それはもう神憑り的に強いよ。でもね、だからって全部を全部力でねじ伏せる訳じゃない。被害を最小限に、最大の成果を上げられるように、緻密に戦略を立てる」
アモン君の言葉に頷く。
ガラージュ宮殿の制圧をみれば一目瞭然、アスラン将軍の手腕はいっそ鮮やかなほどだ。
アスラン将軍の将軍としての実力は、疑う余地もない。
「それでも、どうしたって戦傷者は出るでしょ? それが前線なら、見捨てなきゃならない事だってある。軍人だった僕の父さん、前線で片足を失ってまさにそんな状態だったらしいんだ。そんな足手まといを連れていれば、部隊が共倒れになるから、普通なら捨て置かれる。そして戦場においてはそれが正解。だけど足を失った父さんは、臨月の母さんのところに戻って来たよ」
……本当の意味でその重みを知らない私が泣くのは違う。
だけど勝手に目頭が熱を持ち、胸が締め付けられるようだった。アモン君の気持ち、お父様の気持ち、そして当時のトルテッタの気持ち、想像する全ての思いが切なかった。
「……それをしたのは、アスラン将軍?」
「うん。結局その怪我が元で父さんは亡くなったけど、最期に僕を腕に抱いて名付けてくれたんだって」
堪えていた涙が、溢れて頬を伝った。
「アモン君、お父様から素敵な名前をもらったね。一生続く、贈り物だね」
アモン君は微笑んで頷くと、ポケットからハンカチを取り出した。
「ありがとうミーナさま」
伸びあがったアモン君が、私の頬にそっとハンカチを宛がった。
私は頬に触れるアモン君の手に、私の手を重ねて握った。
感じる温かさは、命の温度だ。戦中の極限にあろうとも、その温度にも重みにも違いなどない。
ただし、極限の中でその心のままを実行する事は、限りなく困難なのだろう。
「だけどさ、これってたまたま援軍と合流出来て、部隊も無事だったから美談だけど、もし一歩間違えば軍としては大失態。そもそも将軍が殿部隊に紛れてた事自体が大問題だしね。なのに、アスラン将軍の周囲にはそんな奇天烈な武勇伝ばっかり」
名目上の夫婦になって、まだ二週間。出会いからだって一月と経たない。
アスラン将軍の人と成りを、そうそう知っている訳じゃない。
「なんだか、すごくアスラン将軍らしい……」
けれど、素直にそう思った。
「ほんとだよね。将軍って地位にありながら、自由過ぎるでしょう? だけどアスラン将軍は天までも味方につけて、どこまでも強くしなやかに己の道を行く」
ふと、見上げた晴れやかな空。何故かアスラン将軍その人の姿が重なった。
今、無性にアスラン将軍が恋しかった。
夫婦の触れ合いでなくていい。ただ一目、会いたかった。
「だけどね、アスラン将軍よりも、もっと凄いのはミーナさま!」
唐突に私自身に水が向く。しかも、私が凄い??
「アモン君? 私はちっとも凄くなんかないよ?」
「ううん、かつての敵国で支援基金を創設して、戦傷者や戦没者の家族に支援って十分凄いでしょう?」
それは少し違う。本当の意味でガラージュ皇女でない私には、そもそも敵味方という線引きがない。
故国という概念、私にはそれが欠落してる。
けれど、苦しんでいる人がいたら助けたい、この心は本当。
「誰だって平和な暮らしがいいに決まってる。その思いに、きっと国境はないから」
当然、戦勝国だって戦争の痛手を負う。
ガラージュからドルーガン王国への移送中、戦争の傷跡を横目に見ながら支援への思いを膨らませた。
そうしてアスラン将軍の屋敷に移り、ドルーガン王国を肌で感じれば確信に変わる。ドルーガン王国は物質的にはもちろん、人心も豊か。教会を通しての寄付などは活発に行われていた。
これならばもっと組織立てた活動への移行も容易いと、基金創設に確信が持てた。
「それにこんなにスムーズに私の発案した基金創設が実を結んだのは、ひとえにドルーガンの豊かな国民性ゆえ。私、この国と、この国に暮らす皆が大好き。もちろん、アモン君も大好き」
私は最後を軽口で締めたつもりでいた。
え? けれどアモン君が私を見つめる瞳に、熱量を感じた。
「……僕、やっぱりミーナさま好きだな」
突然の告白に反応が出来ずにいれば、伸びあがったアモン君が私のほっぺに、……口付けた!
えぇっ!?
「ねぇミーナさま、もしアスラン将軍に愛想が尽きたら、その時は僕がお嫁さんにもらってあげる!」
驚きに目を瞠り、言葉もなくして立ち尽くす。
しばらくの間を置いて、アモン君は悪戯に微笑んだ。
「ははっ! やだミーナさま、僕はまだ八歳だよ? でもそうだな、遠い未来のもしもの話に覚えておいて?」
これって私、アモン君にいいように遊ばれた!?
「ひどいよアモン君! 年上をからかって!」
「あははははっ!」
アモン君は朗らかに笑い声を上げた。
「んもう……あ、侯爵家の方が玄関でお出迎えしてくれてるよ! 行こうアモン君!」
アモン君と私は既に侯爵家の敷地にいた。
騒々しくしていたからだろうか、ノッカーを叩く前に玄関から家令が顔を出していた。
「……ミーナさまってば、鈍すぎだよ。七歳差の夫婦なんて、世の中にはいくらだっているでしょう?」
アモン君の小さな呟きは、先を行く私の耳には届かなかった。
「侯爵様、こんにちは。ご無沙汰してます」
「ミーナさま、よくいらして下さった。……けれど私、先ほど窓からミーナさまと可愛らしい紳士との浮気現場を目撃してしまったのです。これはやはり、アスラン将軍に報告すべきでしょうか……」
!
「って、侯爵様! 明らかに肩が揺れています! 笑っちゃってます!」
「おやおや、慣れぬ事をするものではありませんな。ふは、ふははははっ!」
まさか、お茶目な侯爵様にまでからかわれてしまった……。
「まぁ冗談はこのくらいにして、さぁどうぞお上がり下さい」
「おじゃまします」
侯爵様の背中に続きながら、私は基金の代表をやはり侯爵様にお願いしようと思った。侯爵様の朗らかな人柄なら、代表として上手に基金を纏めてくれるに違いない。
ところが侯爵様は、自身が基金の代表を務める事に難色を示した。
「! 王妃様、ですか……!?」
そうして侯爵様が提案したまさかの代表候補に、私は目からウロコが落っこちた。
「もし引き受けて下されば、これ以上の適任者はいないでしょうな」
「……なるほど!」
相手が王妃様ともなれば、おいそれと引き受けてくれるとは思えない。それでも王妃様が代表を引き受けてくれれば、これ以上の適任はいない。
……どう転ぶかは分からない。だけど動くだけ、動いてみよう!
「侯爵様、少し考えてみます!」
侯爵様はセリュート青年によく似た相貌に笑みをのせて頷いた。
この日、基金の代表決定には至らなかったけれど、侯爵家からの帰路を進む私の足取りは軽かった。