13
私とジェンド社長はお昼時で混み合う屋台を横目に、一本路地を入り寂れた酒屋兼食堂の前にいた。
「あの、ここって大丈夫ですか?」
五年振りの買い食いに心躍らせていた。何を食べようかと、それはもうわくわくしていた。
だけど目の前の看板が傾いた薄暗い食堂はかなり不安だ。
「なーに、心配すんな! 昨日実食済みだ! ここはこんな見た目だが目ん玉が落っこちるくらい美味い!」
ジェンド社長はドンと胸を叩いてみせた。
そうまで言われれば固辞もし難く、ジェンド社長に続き軋んでたてつけの悪い扉を潜った。入店すればジェンド社長は慣れた様子で空いたテーブルに腰を下ろした。私も促されるまま、向かいの席に腰を下ろした。
ギシリと軋みを上げた椅子にヒヤリとした。それでも、見渡した店内は満席に近い客入りで賑わっていた。
「いらっしゃい! 何にする?」
席に着けばすぐに店主が注文を取りにやってきた。
「俺は肉、ミーナは?」
ご用聞きはいいけれど、狭いテーブルにはメニューも何も置いていない。
「えっ!? えっと、魚で」
肉があるなら魚があろうと、咄嗟に答えた。
「あいよっ!」
どうやら魚はあるらしかった。
「ははっ。皇女殿下にこんな大衆食堂は珍しいか?」
どうやら肉か魚かの二択がこちらの食堂のスタンダードらしく、後から入って来た客も、その後から入って来た客も同じ具合で注文していた。
「いえ、初めて食堂というところに入ったので、別に大衆食堂だから珍しいというわけではないです」
私の向かいに座るジェンド社長はあんぐりと口を開けて固まった。
「はっ、はははっ。そりゃまたとんだ箱入りもいたもんだ」
うーん、箱入りというよりは砦入り? ……駄目だ、洒落になってない。
「あの、ジェンド社長? ジェンド社長の探してる人って私、ですよね?」
結局、箱入りの件はスルーして核心に切り込んだ。
「もしかしなくともお前だ!」
今更何を言うかと鋭いツッコミが入った。
「アタッ」
事実、チョップもおでこに入った。手加減はあったけど、地味に痛い。
「あ、そうですよね。いえ、そうだろうとは当然思っていたんです。いたんですけど……」
私とジェンド社長は初対面だけど、交流を始めたのは三年も前からだ。それでも私を探す為に戦後混乱の最中に国を跨いでやって来てくれたのは、一体どういう了見だろう。
「それで、どうして私を探しに?」
ジェンド社長は私の言葉に薄く笑った。
「どうして? か、……それはまだ俺にも確証がないんだ。ないんだがたぶん、俺はまだ見ぬあんたに惚れていたんだろう」
!!
「あんたが敗戦国の皇女として処刑されるなら、俺はなんとしてもあんたを助けようと思った。あんたがもし修道院かどこかに幽閉されるなら、俺はあんたを攫って面倒見ようと思った」
驚きに声も出ないとはこの事を言うのだろうか。
一瞬、我が耳を疑った。それくらい私にとって都合のよすぎる、衝撃的な言葉だった。
ジェンド社長の琥珀の瞳が私を射抜く。正面に見るジェンド社長の瞳は吸い込まれそうな琥珀色。角度によって、幾通りにもその色味を変える宝石みたい。
その琥珀が一際輝きを強くするのを感じた。
「あんたがもし、望まぬ結婚生活を強いられているのなら、……連れて逃げる。王都じゃ今、勝利に貢献した将軍に、亡国の皇女が下げ渡されたという話題で持ちきりだ」
ジェンド社長は誠実だった。国を跨いで来てくれて尚、押し付けで無く、私に判断を委ねようとする。
「……ジェンド社長」
私を射抜くジェンド社長の真摯な瞳に、私はどう答えるべきだろう。
アスラン将軍との婚姻は確かに私が望んだものじゃなかった。でも、アスラン将軍との結婚生活、その暮らしはどうだろう。
私はきっと、現状に満足してる。
一見傍若無人にも見えるアスラン将軍もまた、誠実なのだ。
まぁ、夜のアレヤコレヤに気遣いは……いや、夜の話はこの際置いておこう。
……婚儀まで、来訪のひとつもなかった。
けれど、アスラン将軍は私の降嫁が決まってからの短い期間で私が過ごしやすいように屋敷を整えて、使用人にも私への丁寧な対応を徹底させている。
ガラージュの文化風習もよく下調べしてあって、私の為に湯船にお湯を張って浴室の準備だってしてくれる。ガラージュ公国より緯度が高いドルーガン王国はサウナと掛け湯が基本だから破格の心遣いだ。
要するに私はまだ、アスラン将軍に対しての期待が捨てきれないのだ。
共に築く愛し愛される家庭。それがこの後の私達にもあり得るのではないかと、期待しているのだ。
「今の暮らしは望んで手にしたものではないです。でも、強いられてもいないんです」
なんとも中途半端な物言いになってしまったが、これが私の偽らざる気持ちだ。
仮に今、カルバン王からアスラン将軍との離縁を言い渡されたとして、きっと私は嬉しいとは思わない。
離縁の後私はガラージュ領に帰るのか、ここドルーガン王国に留まって職を得るのか、……或いはアスラン将軍にみっともなく縋ってしまうのか。いいや、それだけは私の矜持がさせるまい。
「現状をよしとは思っていないけど、未来への希望が捨てきれないのも本当で……」
恋と呼んでいいのかはよく分からない。けれど私は、アスラン将軍にある種の好意を抱いてる。
「……あんたが思いの外結婚生活を満喫している、なんていうのは正直想定外だ」
ジェンド社長がガリガリと頭を掻く。その動作に明後日の方向を漂っていた思考が戻った。
ジェンド社長の琥珀の双対が瞼に隠れる。ジェンド社長は小さく溜息を溢した。
「あ……」
何か言わなきゃと思うのに、私には掛ける言葉がなかった。
アスラン将軍との婚姻は国家間の取り決めで、そこに私の意思は関係ない。なのに、私は現状に満足している。
確かにジェンド社長の言う通り、想定し難い奇異な事態だ。
「はいよ! お待ちどうさん!」
重たい沈黙に割って入ったのは、店主の陽気な声だった。店主の両手には、美味しそうな匂いを漂わせるステーキと焼き魚の大皿が握られていた。
「おっ! 旨そうだな。ミーナ、なんだか辛気臭くなってしまったが、まずは昼飯にしよう」
ジェンド社長は紳士だ。私はジェンド社長がすんなりと話を切り上げてくれた事に、内心ホッとしていた。
ジェンド社長はさらりと語ってくれたけれど、ジェンド社長の語った話は全て命懸けの救出劇だ。
それをおいそれと受け入れられる程、私とジェンド社長の仲は深くない。ただの善意や好意と受け入れられるほど、お目出度い頭もしていない。
これらを成す見返りに親密さを求められた時、私は受け入れられる訳がないのだ。憎からずアスラン将軍を慕う私が、どうしてジェンド社長の心を受けられるというのか。
「冷めてしまうぞ?」
目の前のジェンド社長は私の気持ちを知ってか知らずか、あくまでも平常運転。大きく切り分けたステーキ肉を豪快に頬張った。
それにつられるように、私もほろりと柔らかな魚のムニエルをそっと口に運ぶ。
「おいしっ!」
びっくりした。ガラージュ公国での幽閉生活では元より、アスラン将軍の屋敷の食事ともまた違う美味しさだった。
「そうだろう? よし、これも食え!」
ジェンド社長は私の反応に嬉しそうに笑い、自分の皿からステーキを一切れ切り分けると私の皿に載せて寄越した。
「えっ! それなら私の魚も食べて下さい!」
貰いっぱなしには出来なくて、私も慌てて魚の身をほぐす。それをジェンド社長の皿に載せつけようとして、ほろほろの身はジェンド社長の皿に載る前に私の皿に落ちた。
あっ。
私はもう一度、今度は載せる量を少なくして、その木匙をジェンド社長の方にやって、……ぱくり。
木匙は向かいから顔をこっちに寄せたジェンド社長の口の中に消えた。
えっ、えっ、えぇぇぇ!
パクって、今パクってした!
見上げると正面でジェンド社長の悪戯な琥珀色とぶつかった。カッと頬に朱が昇る。
「ごちそうさん?」
ジェンド社長は木匙を離すとそれはそれは色っぽく笑ってみせた。木匙を握って固まる私はジェンド社長の色気にあてられて、くらくらと眩暈がしそうだ。
カッカッカッ!
? ガヤガヤとした店内にあってその靴音は妙に響いた。
一直線に迫り来る足音に振り返るよりも前、事態は予期せぬ方向に動いた。
ッガッシャーンッッ!!!
和やかな昼食の時間は一転し、恐怖に塗り替わる。
「っっ!?」
目の前に居たはずのジェンド社長が、現れた大柄な男に投げ飛ばされた。ジェンド社長は私達のテーブルは勿論、周囲のテーブルまで巻き込んで床に派手な音を立てて転がった。
「ッ、テェッ」
のっそりとジェンド社長が身を起こす。
「ジェ、ジェンド社長っ!」
反射で駆け寄ったジェンド社長はしかし、上手に受け身をとったのか一見する限り大きな怪我はなさそうだった。
突然の出来事にまるっきり思考が追いつかない。ゆるゆると首を巡らせて、ジェンド社長を投げ飛ばした男を見上げる。
「っ!! アスラン将軍!?」
我が目を疑った。
仁王立ちになってこちらを見下ろすその人は夫であるアスラン将軍。アスラン将軍の後ろには苦い表情で立つセリュート青年の姿もあった。
「姫さん、あんた夫のある身で他の男と馴れ合うとはどういうつもりだ?」
氷点下の地を這う声音だった。アスラン将軍のこんな声を聞いた事などなかった。少なくとも、これまで共にある中で聞いた声ではなかった。
そしてアスラン将軍は、私とジェンド社長の関係を誤解している。
「アスラン将軍、違うんです!」
アスラン将軍が想像するような関係ではない。けれど、夫のある身で迂闊な行動をした私が悪い。
ジェンド社長との関係はなんと説明したものだろう。
アスラン将軍は、ササイを語った私がかわら版に寄稿した事があるのは知っている。しかし私が毎号のかわら版を書き連ねていた事は言っていない。
何よりアスラン将軍の妻になった今、私がガラージュ領民の民主化を煽るようなかわら版を執筆した。それをアスラン将軍に知られるのはいかがな物だろう。
ありとあらゆる考えが巡り、うまく言葉にならない。
「あの……」
「姫さん」
言い淀む私に焦れたのか、アスラン将軍は尚一層眉間の皺を深くして言い放つ。
「……もういい。姫さん、あんたに俺は幻滅した。だが、最低限妻としての貞淑を持てよ。他の男の子を孕んでみろ。胎から引き摺り出して息の根を止めてやる」
!!
違う、違う! ジェンド社長とはそんな関係じゃない!
そう叫べたらよかったのに、この時の私は縫い付けられたみたいにその場を動けなかった。
けれどアスラン将軍もまた泣きそうに歪んだ顔で、踵を返すとそのまま店を出て行った。
「ちょっ! アスラン将軍!? ってもう、店主すいませんが店の補修費はこちらに請求して下さい。それから、昼食を邪魔した皆さんにこれで新しい料理をお願いします。連れが本当に申し訳ありませんでした!」
セリュート青年は店主に書付けと紙幣を渡し、店内に向けて深々と頭を下げた。私にも一瞥を寄こしたけれど、セリュート青年は何を言うでもなくアスラン将軍の後を追って行ってしまった。
去りゆく背中を見つめながら、私は言いようの無い想いを持て余していた。悲しいのか、悔しいのか、ただ滂沱の涙を流していた。