10
私、天使を捕まえてしまったかもしれない。
そして私は鬼畜アスラン将軍に捕まった……。
それはアスラン将軍の屋敷に来て四日目の朝の出来事だった。初夜以降、アスラン将軍が夫婦の寝室に現れる事はない。
昨夜も、その前の夜も戦々恐々と待っていたが、待てど暮らせどアスラン将軍は訪れず、日付が変わる前に私は一人横になった。
広いベッドを一人で占拠できるのは僥倖だ。
そうして悠々の一人寝から目覚めて、窓を開ける。ふぅわりと吹き込む清涼な朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
そうして私はご機嫌にクローゼットを押し開けて、着替えのドレスを選ぶ。パサリと夜着を脱ぎ捨てて、
「……わ、女神様だ、って! うわああぁぁっ!!」
ガサガサガサッッ!!
!? 窓から聞こえた声と物音にビクリと肩を揺らす。なにっ!?
慌てて手に掴んだドレスで裸の前を隠す。窓を振り返れば、カーテンを被って蠢く、侵入者!
「きゃ、きゃああああああぁぁぁぁ!!!」
私は窓に背を向けて、ドレスを引っ掴んだ素っ裸のまま、扉に向かって駆け出した。
「わぁっ、待って待って! 女神様! 僕、怪しい者じゃないんです!」
私の鈍足が憎たらしい。扉に向かった私の腕を後ろから侵入者が掴む。しかも怪しくないだなんて、怪しい人しか言わない常套句を言ってくる!
「女神様っ、待って!」
って、何だか私を掴んで縋る手が随分と小さい。それに思いの外甲高い可愛い声?
恐い物見たさか、ゆっくりと私の手を引く侵入者を振り返る。
「っ!!」
そうして私は息を呑んだ。だって、だって! だって!! 猛烈可愛い天使が私の腕に縋り、上目遣いに見上げてくるのだ。
天使はくるくるとカールした柔らかな金髪に、凪いだ湖面みたいに澄んだ水色の瞳。白いまあるいほっぺは僅かに朱をのせて、桜色の唇をつんと尖らせている。私の胸位までの身長で、中性的な見た目から性別は推し量れない。
思わず羽が生えてやしないかと、背中に視線をやってしまったのは不可抗力だ。実際羽はなかったけれど、この子はまさしく天使!
「女神様」
天使の桜色から紡がれるのは、女神様という耳慣れない単語。しかし今、天使な少年と対峙しているのは間違いなく私で?
「……女神って、もしかして私の事?」
少年は私の問いに満面の笑みで頷いた。
「だって、貴方はまるで射干玉の宵を集約したみたいに神秘的で美しいのだもの。夜の幻想を詰め込んだ神秘は女神に他ならないでしょう?」
天使は向かい合った私の髪に、伸びあがってそっと触れた。
「わぁ、艶々だぁ」
並びたてられた美辞麗句は、常ならば白々しいと一蹴した。なのに目の前の天使が、湖面みたいに澄んだ水色の瞳をキラキラさせながら、感嘆したように言うものだから、天使の言葉は私の胸に見事クリティカルヒットした。
興奮からふるふると体を小刻みに震わせる。
「女神様?」
それに気付いた天使が不安そうな目で私を見上げた。
「か、か! か!! 可愛すぎるっっっ!!!!」
私は天使をガバッと力いっぱいに抱き締めた。私を見上げた天使は零れ落ちそうな程目を見開いて、そして顔を瞬間湯沸かし器の如く真っ赤に染めた。
「め、め、め、女神様! む、む、むっ……!」
何事が呟いて、そして目を回した天使はくてっと私の胸に沈んだ。アレ?
バッターンッ!!!
そして天使が胸に沈んだ次の瞬間、猛烈な勢いで寝室の扉が開け放たれた。
「ミーナッ!! 無事かっ!?」
寝室に雪崩れ込んで来たのはアスラン将軍その人で、アスラン将軍は部屋の中に広がる光景に一瞬息を呑み、そして固まった。
そう言えば、窓からの物音に驚いて結構な大音量で叫んでいた。結果、侵入者はこの可愛い天使だった訳だけど……。
! アスラン将軍の後ろから更に数人の足音が聞こえてくる。十中八九、アスラン将軍に続く足音もこの部屋を目的にしている。
アスラン将軍はチッとひとつ舌打ちすると、扉の外に向けて言い放った。
「ミーナは大事ない! 皆、持ち場に戻ってくれ!」
苛立たし気に言い放つと、アスラン将軍は寝室の扉を閉めた。こちらに向き直ったアスラン将軍は般若の様相で私と天使を見下ろした。
「あの、アスラン将軍? 大きな声を出してごめんなさい? 一瞬侵入者って思って叫んじゃったんだけど、何でもないんです!」
私はこの時かなり動揺していたんだと思う。
あんな風に余裕のないアスラン将軍を見たのは初めてだったし、何よりアスラン将軍からはじめて「ミーナ」と名前を呼ばれた。
「ミーナ」と叫んだアスラン将軍の声は、ひどく切羽詰まっていた。
申し訳なさと同時に、何故か私は高揚していた。胸が高鳴って、落ち着かない。まともな考えなんて浮かばなかった。
「天使なこの子が迷い込んで来て! それで、あの……」
纏まらない私の言葉を聞いていたアスラン将軍の表情が、段々と不遜な笑みへと変わっていく。
「……姫さん」
アスラン将軍の声に、何故か背筋がぞわりとした。
「夫の不在にかこつけて間男を引き入れるたぁいい度胸だな? 素っ裸で他の男を抱き締めるのを見せつけられちゃ黙ってらんねぇよなぁ? 今晩は寝ないで待ってろよ?」
え? なに?
次いでもたらされたアスラン将軍の言葉に、理解が追いつかない。ただ、とんでもない爆弾を落とされた事は理解できた。
「トルテッター!! お前はさっさとクソ餓鬼迎えに来い!!」
ポカンと見上げる私にアスラン将軍は魔王様よろしく不敵な笑みを浮かべ、階下に向けて怒鳴った。
そうして大股でズカズカと私達に近寄ると、腕の中の天使をまるで猫の子でも持ち上げるみたいに摘み上げた。
「ア! アスラン将軍、それは乱暴です!!」
咄嗟にした私の抗議は至ってまともであったと思う。
だって、だって! 首根っこヒョイって人にしちゃいけないよね!?
「あん!?」
けれどギロリと睨みつけられれば、私は小さくなってアスラン将軍を窺うしかできない。アスラン将軍の機嫌は何故か、地を這う程に悪かった。
「なんだいなんだい? 全く騒々しいね~」
足音と共に階下から聞こえてくるトルテッタの声は、場違いなほど暢気だ。
「ミーナさま、入るよー?」
トルテッタの登場に一縷の望みをかける。
何でもいい! 誰でもいい! この猛烈不機嫌のアスラン将軍を何とかしてっ!
ガチャリ。
「トルテッタ!」
「あ! あ! あぁぁぁぁ!!」
トルテッタは寝室に入った瞬間、目を丸くして叫んだ。そうして一直線、憐れアスラン将軍にあらぬ罪を着せられた私に駆け寄って、……は来ない。
トルテッタが駆け寄ったのはアスラン将軍に首根っこを掴まれて未だ伸びたままの天使。
「なんだいアモン! お前さんこんなところにいたのかい!? どんだけ心配したと思ってんのさ!!」
「母さん!」
ガバッと目を見開いた天使はトルテッタに向かい、泣きながら両手を伸ばした。アスラン将軍は面倒臭そうに顔を歪めてポイッと天使を放った(離した、じゃない。たしかに今、ポイって放った!)
「母さん! 僕、女神様とお話ししてたらこのおじさんに乱暴された!」
「なんだって!? アスラン将軍、うちのアモンが勝手に屋敷に入り込んだのは悪かったさ。けどさ、乱暴たぁいただけないね」
トルテッタは強い。機嫌が地を這うアスラン将軍にもグイグイと切り込んでいく。それをハラハラとした思いで見ていれば、天使がスススッと私に寄って来た。
うん?
「女神さまのおっぱい、ちょっとだけ触れちゃって僕ってラッキー。驚いて気絶しちゃったのはもったいなかったなぁ。女神様、今度はもっといっぱい触らせて?」
水色の澄んだ瞳で私を見上げて天使はのたまった。そう、天使の笑顔でとんでもない爆弾発言をかましてくれた。
それを耳ざとく聞きつけたアスラン将軍の顔はもう、この世の恐い物を全部集約したみたいなおどろおどろしさ。
怒りの形相のままアスラン将軍はトルテッタ母子を寝室の外に摘み出し、ガチャリと寝室に内鍵を掛けてしまった。そうして私を振り返った悪の大魔王アスラン将軍は、獲物を追い詰めるみたいに一歩一歩距離を詰めた。憐れ、捕まった私は夜を待たずにベッドに引き入れられてしまった。
あれ? アスラン将軍に腰を抱かれたまま、ふと頭を過る疑問。
そう言えばアモンってよく考えたら悪魔の名前? しかもかなり怖い系のヤツだったんじゃないっけ?
うぅぅぅ、ちっとも天使と違うし。イヤ、見た目は天使に間違いないんだけど……もたらしたその結果が天使の所業じゃない。
「姫さん、余所事とは余裕じゃないか?」
「っ!?」
私に、余裕などあろうはずもない。しいて言うなら現実逃避……。
けれどアスラン将軍にギロリと見下ろされれば反論なんて出来ようもなく、私はベッドヘッドの方にずりずりとずり上がって身を縮めた。