表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/25




 アスラン将軍との怒涛の一夜が明けた。明けた、とは言ったけれど、私には情事の途中からの記憶が無い。気付けば綺麗に体を清められた状態で朝を迎えていた。


 いや、首を巡らせれば窓から差し込む陽はかなり高くなっているから、もう昼近い時分だろう。


「起きたのかい?」

 トルテッタの労わりに満ちた視線が私を見下ろしていた。


「うん……」

 起き上がろうとして、えらく体が重い事に気付く。腰や足が重怠く、声も出しにくい。


「ミーナさま、その、なにさ! 男には抗えない男の性があってだね……おっと! 大丈夫かい?」

 よろよろと身を起こそうとする私の肩をトルテッタが支えた。


 トルテッタに支えられて起き上がり、ベッドヘッドに背中を寄りかからせる。すかさずトルテッタはグラスに入った水を差し出してくれた。


「お飲みよ」


 さっきのトルテッタの言と合わせて考えれば、昨夜ここで起こった事をトルテッタはきっと全部察してる。私はばつが悪くって、まともにトルテッタの顔を見る事が出来ない。


 アスラン将軍は初夜の床、私に向かってニンフと言い放った。


 ニンフ、性愛の意味合いの強い言葉だ。それは多くの神々や人間と交わって子を生した精霊の呼称。

 私にも従順に体を開き、受け入れる事を当然と考えるアスラン将軍に非があるとは思わない。夫婦になるとは、そういう事だ。


 けれど私には、もっと時間が欲しかった。互いを知るための時間。

 そうすれば恐怖が色濃い体を重ねるという行為にも、きっと、もっと力を抜いて臨めたと思うのだ。


 なによりも、ミーナだから抱きたい、そんな一言が、私は欲しかったんだと思う。

 妻の務め、夫の権利。それらはなんだか、私という存在をまるで価値のない、つまらない物にされてしまったようで苦しい。


 私は捕虜の立場だ。一歩間違えればニンフは、アスラン将軍だけではなく、不特定多数に体を開く事を強要されていたかもしれない。それを思えば、どれだけ自分が恵まれているかと感じ入るのだけれど、人の心は如何せん複雑なのだ。

 そう、理性では分かっていても心には、思う心には、どうしたって柵は立てられない。


「まぁいいやね。野暮な事は置いといて、食事はとれそうかい?」

 受け取ったグラスから口に含んだ水は、僅かにレモンの風味がした。爽やかな後味を残す冷たい水は、心地よく喉を滑った。トルテッタの心遣いに胸がぎゅっと締め付けられた。


「うん。食べるよ」

 だって私は病気でもなんでもない。新妻の誰もが当たり前に通る初夜の床を終えたというだけ。

 どころか、本当の意味で初夜を終えていない私は妻としての務め半ばだ……。


「そうかい。それじゃこれ、着替えだよ」

 トルテッタは努めていつも通りを装う。私もまた、甘んじてそれに乗じる。


「トルテッタ、ありがとう。それから、今日はもう自宅でゆっくり休んでね」


 トルテッタは日勤が基本だ。子のあるトルテッタに泊まり込みの勤務を強いようとは思わない。そして昨日、私はトルテッタに待機を指示していない。


 けれど今、初夜の床の翌朝にトルテッタが控えてくれていた。昨夜、私の身を清めて世話してくれたのもトルテッタに違いない。

 そこにはきっと、アスラン将軍の指示があったのだろう。


「あぁ、すまないね。ミーナさまの朝食を厨房に頼んで、それで帰らせてもらうよ。給仕はすまないが別の者を寄こすさ」


 トルテッタの背中を見送って、そっと瞼を閉じれば、浮かぶのは昨夜の情欲に濡れたコバルトブルーの双対。


 ……私にはアスラン将軍という男がよく分からなくなった。

 お世辞にも優しい夜ではなかった。けれど、私の尊厳を踏みにじるほどの夜でもなかった。

 行為を強いられたのは事実。けれど私の懇願に応じ、最後の一線を許してくれたのは温情、あるいは同情なのか。


 ……駄目だ、これは考え過ぎても不毛なループに嵌まるだけ。

 一息吐いて、ベッドヘッドを支えに重い腰を上げた。今は正しくその役目を果たす前ボタンの夜着を脱ぎ去って、トルテッタから受け取ったドレスに四苦八苦しながら着替えた。


 夜の装いを脱ぎ落としドレスに着替えれば、それだけで気分が入れ替わる思いだった。




 着替えを終えてしばらくすれば、温かな湯気を立てる朝食が届けられた。


「他に何かございましたらお呼び下さい」

「ありがとう」

 年若い侍女は朝食のトレーを置くと、丁寧な礼をして寝室を後にした。



 アスラン将軍の屋敷は、王宮からほど近い距離にある。しかし非公式とはいえ、王弟の住まいとしては余りにも簡素に思えた。使用人も住み込みの家令と今しがた朝食を運んでくれた女性の他、通いの侍女などが数人いるだけ。

 料理人も庭師も置いていないというから驚きである。


 夫婦の寝室も広さはあるし清潔に整えられてはいるけれど、調度品なんかは必要最低限で至ってシンプルなものだ。いや、機能的とも言える。


 簡素な文机の上、置かれたばかりの温かな湯気を立てるトレーに目をやる。香ばしいバターの匂いがする。

 少し、お腹に入れようか。

 温かな湯気に誘われるように、私は朝食の席に着いた。



 結局、朝食は全て完食した。

 なんだかなぁ。人間って結構逞しく出来てるものだ。膨れて重たいお腹をさすさすと擦りながら、私は今後について考えを巡らせていた。


 ガラージュ公国は滅した。それは同時に私の五年に及ぶ目的の成就も意味している。ガラージュ公国は私の手を離れ、今後はカルバン王の手によって復旧が進められるだろう。


 私の知る限り、カルバン王は周辺諸国で最も優れた政治手腕を持つ賢王だ。ただ単に滅びる事が目的ではない。私は彼の支配下に入る事こそを狙っていたのだ。目的達成に向けて出来る努力はしてきたつもりだ。そうして事態は全て私の望む通りに動いた。


 だけど正直、私の処遇に関してはまるっきり想定していなかった。ドルーガン王国への移動の最中に、いくつかの選択肢を描いていた。


 だけど王弟との結婚とは想像すら出来なかった。そもそも私は王弟の存在を知らなかった。


「……あわよくば修道院かどこかで生涯幽閉。場所を変えての引きこもり生活を狙ってたんだけどな」


「馬鹿を言うな。ここまで来たら、姫さんは祖国ガラージュの行く末を最後まで見守れよ」

 

 思わぬ人の声に肩が跳ねた。


 考えに耽っていたから、声を掛けられた今の今までアスラン将軍が部屋にいるなんてまるっきり気付いていなかった。

 振り返れば、扉に背を預けて腕を組んだアスラン将軍が私をじっと見つめていた。


 婚儀の前、あんなに待っても無かったアスラン将軍の訪れ。それがどうして、まるで待っていない今、なのか。


「……今は待ってないんだけどな」


「? なんだって?」


 独り言のつもりだったのだが、どうやら声になっていたらしい。


「……いえ、なんでもないです」


 首を傾げながらも、アスラン将軍がそれ以上追及してくる事はなかった。


「……姫さん、体、大丈夫なら少し歩かないか? 今後の事を少し話したい」


 アスラン将軍は大股で私の所までやって来ると、まさか散歩に誘ってきた。


「あ、はい」


 ……不思議だった。


 アスラン将軍に対して嫌悪や拒絶、そんな反応が現れるかと危惧していたけど、私の体は至って平静。

 少し鼓動が早いのは、それはまぁ、あんな濃密な夜の昨日の今日だ、仕方ない。


 私が椅子から立ちあがると、アスラン将軍はすかさず、向かいからスッと腕を差し出した。

 うん?


「ほら、掴まれよ」


 これはもしかすると、アスラン将軍なりの気遣いなんだろうか。

 どうやらアスラン将軍は義務で娶った妻にも心遣いを忘れないらしい。


 私はそんなアスラン将軍という男性を、嫌いにはなれない。むしろ、好ましく感じている。

 しかし双方向の愛がなければ、やはり夫婦としては虚しさが募る。


「……ありがとうございます」


 そっと触れた指先に感じるのはガッシリとした筋肉に覆われた太い腕。この腕に触れられるのは、抱かれるのは、嫌ではなかった。


 ……臆病心で最後の最後に逃げを打ってしまったけど、アスラン将軍自身を拒みたいとは思わなかった。

 とはいえ、その触れ合いに感情が伴わないのであれば、どうしたって虚しい。


 アスラン将軍は私の歩みに合わせてゆっくりと歩を進めた。

 昨日、王宮に併設する教会で婚姻の承認を受けた後は、馬車でこの屋敷まで移動した。しかしアスラン将軍との関係を悶々と考えていた私は、道中の景色も屋敷の景観も素通りしていた。


 改めて見る屋敷の外観は質実剛健。無駄のない造りは貴族館というよりは軍事設備みたい。けれど、アスラン将軍に連れられて屋敷の裏に回って驚いた。


「……可愛い庭」


 屋敷裏には噴水のある広い庭があって、整えられた花壇には可愛らしい花々が咲き誇っていた。


「亡き母が庭いじりが好きでな。母が亡くなった今も世話を続けさせている」


 私の疑問に微笑んで答えながら、アスラン将軍は花壇を見渡せるように置かれたベンチに腰掛けた。

 きっとお母様が、ここに座って花壇を眺めていたんだろう。


 アスラン将軍はわざと隣にスペースを空けて端に座った。だから私も小さなベンチに、アスラン将軍にぺったりとくっついて隣に座る。


「だが、それも一旦見納めになるかもしんねーな。もしかするとカルバンは俺をガラージュ領大使に任命するかも知れん」


 アスラン将軍が先王の落とし胤と聞かされた時に、数ある可能性のひとつとして浮かんではいた。けれどカルバン王が私をアスラン将軍に添わせた事で、私の中でそれは実現可能性としては限りなく低いものになった。


 だって、温情が過ぎる。亡国皇女に最強の後ろ盾を付けて自国に支配者として差し戻す。そんな事をしてドルーガン王国に一体何の得があるというのか。


「姫さん、あんた意外と考えてる事が顔に出るのな」


 えっ??

 アスラン将軍の声で、物思いから浮上した。見上げれば、アスラン将軍が私を覗き込んでいた。

 それは思い掛けない言葉だったけれど、なんとなく納得も出来た。


「そうかも知れません。正直、一人で過ごす時間がとても長かったですから……」


 私には圧倒的に人と対峙してきた時間が少ない。五年の月日の大部分を北砦の中、幽閉されて一人物思いしながら過ごしてきたのだから、何を取り繕う必要だってなかったのだ。

 アスラン将軍は痛ましいものでも見るように、目を眇めた。


「姫さん、あんたはやっぱりすげぇ器だよ」


 ? アスラン将軍が何事か呟いたようだった。だけど小さな呟きはくぐもって、言葉として拾えない。


「え?」

「いや、なんでもない。なぁ姫さん、姫さんが思っている以上に不遇の幽閉皇女の肩書はショッキングで、そして民衆の憐憫を誘う。尚且つ、姫さんは建国から千年を数える公国の正当な血を引く唯一の後継者だ」


 そうして私の夫となったアスラン将軍もまた、ドルーガン王国の直系の血筋。それが意味するものは何?


「カルバンは策士だ。奴はもしかすると俺の出生の秘密すらこのタイミングで暴いちまうかも知れねーな」


「……私達を復興の旗印にする?」


 アスラン将軍はご名答、とばかりにヒョイと肩を竦めてみせた。


「国一つ立て直すのには金が掛かる。復興期間は短ければ短い程いい。一刻も早く安定した税収をあげられるように、カルバンは最善と思う方法を取るだろう。まぁそれが本当に俺らのガラージュ領赴任かどうかは、今のところは奴のみぞ知る、だな」


 両国の血統を継ぐ私達の婚姻と大使就任、本当にあるんだろうか?


「ちなみにコレ、姫さん、あんただからだぞ?」


 うん?


「あんたの政治手腕を俺は元より、カルバンはえらく買ってる。カルバンは本来冷血漢だ。あんたがオツムの弱い娘なら、ただの旗印だって任せやしない。とっくにやもめの叔父上に下げ渡されてる」

「……カルバン王、こわ」


 期待外れだったと愛想を尽かされて、闇に葬り去られないように、せいぜい復興に尽力してみせよう。

 ちょうど復興支援の案も、いくつか考えついている。


「ははっ! 俺は結局のところ、カルバンには逆らえない。奴に正式に大使を任命されればここを畳んでガラージュ領に赴く。ただし見ての通り俺は軍事畑の出だ。領地管理なんててんで分からん、姫さん、見込まれてるのは姫さんの力だろうよ。ま、まだ可能性の話だけどな」


 随分と奇異な事を言うものだ。逆らえない、なんて言ってみせたけど、アスラン将軍は絶対にそんなタマじゃない。嫌な事、興味の乗らない事には動かない、生粋の自由人だろうに。


「姫さん、俺にはあんたがえらく眩しい」


 え?

 アスラン将軍の言葉の意味が分からない。しかし見上げたアスラン将軍はコバルトブルーの双眸を細めるばかりで、謎の言葉に肉付けをくれる事はなかった。



 そのまましばらく並んで花壇の花々を眺めた後、アスラン将軍は足早に軍へと出勤していった。

 アスラン将軍は名前の通りドルーガン王国軍の将軍職にある。戦勝国にも当然事後処理は多く、アスラン将軍は相当に多忙のようだった。


 ……戦争というのは、勝った負けたでは片付けられない。

 戦勝国にだって、その痛手は多くあるのだ。


 アスラン将軍を見送った後、私は家令のカルスさんの元に向かった。

 まずは、この国の戦傷者支援の詳細を聞かせてもらう。そうしてもうひとつ、主だった貴族らの各所への寄付や義援金といった拠出の状況が分かれば、教えてもらおうと思った。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ