4話 上野真希
**** 上野 真希 ****
翌朝はいつもより爽快な目覚めだった。
処方された薬が効いているのかもしれない。
ここ最近のような、現実と夢のあいまいな感覚がない。
それでもイベントのミスと、今日の社長報告(という名の謝罪報告)は憂鬱だが。
昨日の出来事を思い出す。
めずらしく楽しいと思ったステージだった。面白い新人がいた。遠慮なく前に出ていくのが好ましかった。客席からの歓声が増えていくのが面白く、ちょっと頑張ってみるかなと思った瞬間に気絶して少女と衝突。そして転落。下からは床の冷気。上の方からは共演者たちの声。数分で戻った体の自由だけど、妙な病気を診断された。
「省エネ人生、か。……まあ、しゃあないじゃん」
失敗続きで気力も湧かなかった。
とりあえず身支度を始めた。
ボロアパートの台所兼洗面所で歯磨きを始める。
電熱線コンロの上にある鍋は空だった。昔は朝はこれでお湯を沸かして、蒸しタオルを作ってノドを温めるところから一日を始めていた。いまはもう消えてしまった習慣だったが。
*
清原の後について社長室のドアの前に立つ。
ノックの後の返答を受けて中に入ると、社長の長谷川玲子は窓の前で、外を眺めていた。元女優だけって背が高い。
「昨日の件は別のマネージャーからも聞いている」
ハスキーがかっても芯のある声だった。
「ご迷惑、おかけしました」
清原が頭を下げる。
「すいませんでした」
続いてお詫びの言葉を口にして、頭を下げた。
「そうだな」
長谷川玲子は振り返らない。
「せめて炎上か芸能ニュースのトップにでも上がってくれたらウチの宣伝にもなったのだがな」
遠回しに無名さを責めてんだろうな……。
「すいません」と謝っとく。
「昨日のライブ参加者には、ウチの方からチケット代を全額返還することにした」
「えっ」
思わず訊き返して顔を上げると、長谷川玲子が振り返る。
その顔は四十を超えてもなお、現役時代の美貌を保っていて、そこに社長という地位も加わって、圧倒的なオーラが吹きつけるように襲ってくる。
「なにか?」
「いえ……。アンコールのほぼラストまで歌ったんですけど、返金ですか?」
「そう。ラストのワンコーラス手前で、君はステージから転落した」
この社長は所属タレントのステージは全て必ず目を通す。
現場に間に合わないときでも、マネージャーに映像を撮影させて確認する。
だから細かなところまで見たうえで物を言う。
「君はあんなことをして、お客さんを満足させられたと思っているのか?」
「いえ……」
「ならウチの業務方針でないのは分かるだろう。約束を反故したのだから返金する。謝罪とは言葉ではない。形にしなければ伝わらない。もし、それによる自分の給料を心配しているのなら――」
「あの、別にそーゆーわけじゃなくて……」
「社長、彼女は会社の負担を心配しているだけで――」
「どうでもいい」
その一言で清原の釈明は断ち切られる。
「あの程度の賠償額で揺らぐウチではない」
「はい……」
「それよりも君の提案の件だが、もう結果は見えたな」
関係ない話に移ったかと思ったが、長谷川玲子は真希の方を一瞥したので、完全に無関係な話題でもなさそうである。
「まだ期限までは時間があります」
言われた清原が食い下がっている。
なんの話だろうか?
「医師が活動停止を告げたのだろう。ならばもう無駄だ」
「いえ、まだ――」
珍しく食い下がるなと思っていたら、
「今日をもって上野真希との所属契約を解除する」
「……ぁ」
そういうことか……。
「待ってください!」
清原が声を荒げるも玲子は動じない。
「明日、正式な辞令とプレスリリースを出す。君は明日から原稚奈のマネージャーに転換だ。昨日のイベントに出場していたから分かるだろ。以上だ。いまから挨拶に行きなさい。自宅の住所は他の者から君に連絡させる」
「社長っ!」
「行きなさい」
清原はまだ言いたい事があるという目で玲子を捉えていたが、玲子もその視線を受け止めて引かない。
「……では聞こうか。上野真希」
「え、あ。はい」
「君はなぜ歌手を目指した?」
「え?」
「歌で何をしたいのか、という質問だ?」
唐突な質問だった。
「え、そりゃあ……いい曲作って、売れて、ドームツアーとかして、ニューヨークでレコーディングとかしてみたり。ああ、あとはお世話になってるうちの会社に、恩返ししなきゃなーとか? てへへ」
クビの取り消しもあるかもしれないと思ったが、急に訊かれたので高尚な言葉も壮大なビジョンもなかった。昔はあったかもしれないけど。横の清原の顔をちらりと見やるが、厳しい顔で長谷川玲子の方を見てるだけで、答えの成否が分からない。
「ではそれを踏まえて、君はなぜ歌手を目指した?」
「え? いやそれは……」
さっき話したことと一緒なんだけど。
とは言い難く、えっと……とまごついていると、察してか長谷川玲子が言葉を継ぎ足す。
「君はなぜ歌っている? と、いう質問だ」
真希はとりあえず二つの目的に共通することを探した。
探して、
「売れるため……かな?」
と、答えた。
その答えを聞いて、玲子は背を向けて外を眺める。
「清原君、これが答えだ。君の見立て違いだったな」
「……」
「あの~?」
「もう話すことはない。二人とも行きなさい」
そう言われ、真希と清原は一礼して廊下に出た。
廊下に出た清原はいつもよりアゴのエラが張って見えて、奥歯をかみしめているのが分かった。きっと間違った回答をしたせいだと察する。
「マネージャーごめん。でもさ、あの人わかんないこと聞くんだもん」
「上野さんは……ああ言われて悔しく無いのですか?」
その声の震えに、清原の腹の奥に嵐があることに気づく。
「いやー……もうさ、ちょっと覚悟してたっていうか?」
平気というわけではないが、痛みの軽減に成功して、良しとしていた自分を白状した。
「……いまのあなたは、昔持ってたものを無くしている」
「へ?」
いつもは腹の底から出ていた男の声。
いまはノドの奥で苦しそうに鳴っていた。
「あなたは昔の気持ちを忘れている。そしてそれは、あなたに期待する俺をバカにしているのだと分かりました」
「昔ってさぁ」
すこしムッとして言い返す。
「あんたアタシの昔っていつの頃か知ってんの? それに頑張ってやっても成果出なかったし、もうほら、病気になったんだから仕方ない――」
「――あなたの歌は『じゃあ仕方ない』で、やめられるものだったんですかっ!」
初めて聞く清原の大声だった。
「ちょ、ちょっと大声やめてって。別にそんなつもりじゃ……ってどこ行くの?」
謝ろうとする前に清原は背を向けて、階段を下りて行った。後を追いかけるが無視されて、マネージャールームからコートとカバンをもって清原は事務所を出ていった。真希は出ていく車のリアナンバーをガラスのドア越しに見送って、「仕方ないじゃん……」と、つぶやいた。
そして遅れて、足が震え出した。
急に崖の上に立たされたような竦みだった。
下腹部から来た震えが全身に広がり、止まらないのでトイレに向かうと、洗面所の鏡に自分の顔が映った。元々血色の良くない色白の顔。それが蒼白に変わっていた。顕著なのがくちびるだった。真っ青なくちびるは、気温によるものではないとわかっている。
真希の止まらない震えは、約束を破って怒らせてしまったときに子供がする、両親への罪悪感と拒絶を想像して恐怖した時の絶望感に似ていた。
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