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#99:1025年4月 赤疱瘡

 最初の患者は鎌倉に現れた。

 交易船の船乗りだった。船を降りてすぐに高熱を出し、その過程で数十名に感染させたと見込まれた。

 症状は疱瘡によく似ていた。鎌倉の船乗りは全員が種痘済みである。だから、症状が現れるのはおかしかった。

 違う疫病、赤疱瘡(もがさ)の恐れあり。鎌倉郡衙は即座に患者及び感染した可能性のある者の隔離、住民の郡外への移動禁止を決め、そして各国庁へ連絡を発した。


 この日の為に、足利と鎌倉には医院が設立され、二十名ほどの教育を受けた医員が配置されていた。普段は石鹸と焼酎の蓄えを揶揄され、鶏の牧と呼ぶ者もいたが、医院はこのために存在していたのだ。

 鎌倉の医員たちは即座にワクチンの製造にとりかかった。船乗りの血を採り、有精卵の頂部に小さく開けた穴から、細い鉄針でその血を垂らす。


 種痘ワクチンの製造は去年、兎を使う方法から鶏の有精卵を使うものに切り替わっていた。

 有精卵を使わなければならなかったのは誤算だった。寒天も無精卵も駄目だった。おかげで寺院の協力は全く得られないままだ。

 ワクチン培養のプロセスはここ一年で長足の進歩を遂げていた。そのプロセスをそのまま新種のワクチン開発に使う。ひたすら継代培養をして毒性の薄れるのを待つのだ。


 およそ十日後、隔離は完璧では無かったことが発覚した。隔離者以外に感染した者が出たのだ。

 医員の中からも赤疱瘡に感染するものが現れていた。

 彼らは皆若かった。前回の赤疱瘡を経験した者は一人もいなかった。つまり、免疫を持ったものは一人もいなかったのだ。

 医員たちはこの疫病の空気感染の強さを理解していなかった。ひと月後、医院はほとんど機能を停止していた。

 継代培養はその時点でまだ三代目に過ぎない。


 鎌倉は病人と死者で溢れかえった。

 発症者は鎌倉郡内で百名以上、そして最初の患者である船乗りは赤い斑点を全身に浮かび上がらせたまま熱にうなされ続け、そして死んだ。

 27歳以上の者はぴんぴんしていた。彼らは前回の大流行の生存者で、免疫を持っている。郡衙は彼らを組織して看病と死体処理に当てた。

 死体は浜辺に集められ、製塩に使う筈だった陸奥菊多産の石炭で焼かれた。


    ・


 機能を失った鎌倉の医院から、培養中の有精卵一揃いが足利に届けられて半月。


 赤疱瘡は関東全域に流行の兆しを見せ始めていた。

 ついに碓氷峠を越える患者が現れたのだ。上野国の西半分が既に封鎖されていた。単純に渡し舟の運行を停止したのだ。各地の渡し舟が既に運航を差し止められていた。

 住民たちは郷を閉じて篭る構えを取った。山に逃げる者たちもいた。しかし、もうすぐ田植えをしなければならない頃だ。このままでは秋に収穫が無いまま飢えて死ぬか、病気で死ぬかの二者択一を迫られることになる。


 届けられた有精卵五個のうち、感染性を保っていたのは一つだけだった。

 培養には様々な条件がある。特に大事なものが温度、保温だ。恐らく足利への運搬中の温度条件はひどいものだったのだろう。

 培養されたウィルスの繁殖は思ったより弱いという報告があった。そして、実際に人で試してみるという報告も。

 神子衆三名が志願したという。


  ・


「三人とも熱を出したか」


 ただの有精卵による培養である。弱毒化していると考える根拠は全くなかった。そして今、弱毒化していないという証拠が、報告としてアキラにもたらされていた。


 既に兎にも牛にも接種していた。兎では発症が認められなかった。牛には症状らしきものが見られた。今回の人間への接種は、継代培養五代目の菌株を牛に接種したところ以前観察された症例より軽かった、という観察に基づいていた。


 しかし、牛と人は違う。


「しかしうち四人は熱下がりおります。それと、赤斑が幾分弱く思えます」


 多少は弱毒化したのか。しかし、四人?


「医院のほうで、罹りおったのが二人ほどおりまして」


 恐らく外部の人間をかなりの数、感染させてしまった筈だという。


   ・


 医院から漏出した赤疱瘡は、足利荘にまたたくまに蔓延した。

 大人の半数、子供たちはほぼ全員がこの少しだけ弱毒化した赤疱瘡に感染した。


 アキラの子も例外では無かった。


 五歳になる寧子と、生まれてまだ半年の百合若、更に母親、あずさまで感染し、三人並んで高熱にうなされる事になった。

 アキラは感染する機会があった筈だが全く発病しなかった。覚えていないが子供の頃に予防接種を受けていたのかもしれない。

 女房も雑色も家に下がらせており、アキラは一人で三人の看病に忙殺されることとなった。三人とも喉がひどく腫れ、百合若は下痢も酷かった。

 症状の一番軽かったのは寧子で、発症三日後には熱が引きはじめていた。赤疱瘡は本来なら七日は発熱が続くという話だったので、たしかに弱毒化しているようだ。

 一番ひどかったのは百合若で、熱が引いたあと、手足に斑点の跡が黒ずんだ色素の沈着として残ってしまった。

 

 足利荘における死者二十二名、後遺症が残った者五名。死者のうち十名以上が乳幼児だった。子供の方が大人より症状は軽いものの、そもそも子供の方が体力が弱い。

 死者には流産はカウントされていない。頼季様の妻キヌメ殿の腹の子は流産した。赤疱瘡は身重の身につらい試練だった。キヌメ殿はまだ床に臥せったままだった。

 信田小太郎の子である蒋子と、先に生まれた頼季様の子、千代若は赤疱瘡を生き延びた。頼季様も高熱を出して、以来耳の片方がどうも聞き取りづらいという。


 嵐のように病は去り、更に陸奥や常陸に感染は広がり続けているという。

 弱毒化された赤疱瘡が先に蔓延してしまえば、重篤な症状を引き起こす方はやがて駆逐されていくだろう。人を殺さない病気はその分広がりやすい。

 ワクチンの開発には実質失敗した訳だが、最悪の事態は防げたのかもしれない。


 既に感染から回復したものを組織して、各地に人を送り出す。

 感染していない男手を集めて隔離の上、弱毒菌に感染させる必要もあるだろう。有精卵による継代培養が再開された。

 三四日は寝込むことになるだろうが死ぬよりマシだ。

 しかし、実際には低い確率ながら死ぬ例がみられた。三割死ぬより1パーセントの死のほうがマシと思うべきだろう。


  ・


 翌月には坂東全体の状況が明らかとなった。

 相模はひどい有様だった。死者は集計しただけで八千人を超えた。恐らく一万人は超えているだろう。武蔵の死者はおよそ三千、上野も三千、西上野は死者ばかりと報告されていた。

 年齢層で言えば、乳幼児の死者が最も多いし、子供たちの死者も多い。

 近年の人口増の成果はこれできれいさっぱり消え失せたことになる。


 上野の在庁官人が七人、つまり全員が死んでいた。確か全員27歳以上だと思っていたのだが、どうも前回感染していなかったらしい。家を閉ざす財力のある者は比較的感染には強い。

 今回は誰かから感染して七人全員が発病したという。成人してからの発病は症状が激しいと聞く。


 他の地域は比較的被害は少なく、下野で死者千人以下、下総もおよそその程度と見込まれていた。

 相模や西上野では郷村として機能する最低限の人口を割り込んだ場所も多い。逃散と死者で廃郷となること確実の場所がいくつもあった。

 名主制度のもとでは郷のあるかぎり郷当たりの納税額は変わらない。収穫の難しい郷に人が帰ることは無い。郷に代わって荘園を立てる必要があるだろう。


 都の様子も聞こえてきた。畿内はどこも死者だらけという。

 

 上野の在庁七人の死の経緯だが、後で伝わってきた話では、陰陽の呪いで坂東別当を呪ったものが返されて死んだのだそうだ。

 赤疱瘡で鬼神の多い頃合いを狙ったとか。以前似たような話を聞いたっけ。


 今回思ったのは、アキラは特に何もしていない、という事だ。

 家族の看病しかしていない。


 今いる面々で、ともかく乗り切ったのだ。これは将来への希望だ。


    ・


 というような事を、あずさを見舞いに来た尼女御殿に言ったのだが、


「吾子までさような事申すか」


 最近、頼季様がおかしい、という。


 正月に都に行ってから、頼季様は何やら落ち込んでいた。

 平忠常の乱での戦功にも関わらず、頼季様は従五位下へと官位を一つ上げただけで、都での職などには全く縁が無いままに終わっていた。せめて院の蔵人にでも、という願いは一顧だにされなかった。つまり、本当に受領への道は閉ざされているのだ。

 多分、また出家でも勧められたのだろう。アキラにもそのくらいは察しがつく。


    ・


 本人から聞いた話は更に深刻だった。


 アキラは頼季様を見舞うにあたって、ようやくまともなものが出来たチーズとイノシシ肉を持ち込み、浅鍋を使い油で焼いてステーキに仕上げて供した。千代若様も一緒の席だ。

 チーズは牛の飼育の多い安蘇郡で幾人か百姓の知り合いに頼んで作ってもらっていたのだが、最近のものはいける気がする。

 頼季様は樫樽で三年寝かせた焼酒、蒸留酒のことだがこれを振舞われた。焼酒のうちで最も品質の良いものは焼酎と呼ばれていた。これを杯に注ぐ。


「あと4年、と聞いた」


 何が4年かと言うと、足利の荘代を辞めさせられるまでの期間なのだという。荘代は頼信殿か頼義殿の家人に替えられる。


 源頼信殿の家は武者の家として身を立てると同時に関白殿に近づく、これが一族の方針であったが、どちらも中途半端でしかなかった。

 例えば、一族から鎮守府将軍が出ていない。それは下野の藤原、越後の平氏より武者として格下と見られることを意味していた。

 一族は受領を歴任していたが、これは結局のところ地方官であり公卿には程遠い。宮中儀式では細かな作法、故実を知らない田舎者といまだ笑われる立場だという。


 ところがこの5年ほどで思わぬ富を得た。戦力もだ。7年前にはわずか三十騎しかいなかったのが今や一千騎の騎馬武者と五千の兵を揃えることが出来ていた。5年前に頼義殿が求めたのは騎馬武者三百騎だった。思わぬ戦力であることは間違いない。


 これをどう使うか。

 調達した富の使い道については、寄進の功によって地方官から京官への遷任を狙うこととなった。狙うは近衛府への任官だという。

 まずは淀川の山崎橋、次に平安京羅城門、この二つの築造再建をおこなう事となり、木工の卒業生たちが官職だけはアキラの部下として都へと向かっていった。


 並行して戦力は頼義殿の下に一括して編入される。

 頼義殿の家人が要地に入って戦力を監督することになる。こうなると頼季様の頼義殿の弟というポジションは混乱のもとだ。

 例えば頼義殿の家人の指示に不満があるものが頼季様に泣きつけばどうなるか。庇えば坂東の対立の火種になる。こういうのは頼義殿のもとに訴えるのが正しいのだ。

 では、頼季様はどうするのか。


「これを見よ」


 地図だ。

 それは最新の測量技術を駆使してつくられた、陸奥、東北の海岸線の地図だった。アキラは正しい地形を知ってるから言える事だが、図の東北はちょっと太く思える。


 越後への津軽海峡経由の航路が開拓されて以来、航海の安全を期すために海岸線の地図が作られていた。測量船を出して海から測ったのだ。

 測量船は既に三代目だった。初代は越後への航海を成し遂げた帰りに消息を絶った。二代目は塩釜に辿り着くことさえ無く消息を絶ち、三代目が建造された。三代目の航海中に半年ぶりに帰ってきた二代目は、遥か南の島で海鳥だらけの島に上陸したという。

 現在二代目は探査船として装備を一新して、鳥島と名付けられた島から鳥の糞を持ちかえるという一大事業に従事していた。この時代にグアノが手に入るとは。

 三代目は渡島、北海道の南岸も巡り、様々な産物を仕入れていた。昆布もそのうちの一つだ。


 頼季様の指はそのすぐ下を指していた。


 以前、陸奥の税、調金を助けた際に得た権利のなかに、陸奥沿岸の開港入植権があった。

 津軽海峡を経て日本海側に出るためには嵐を避ける避難港が是非とも欲しかったのだが、実際に現地にあたってみるとそこは陸奥国司の権力の及ばぬ地で、国司の約束など何の意味もなかったのだ。

 東北の日本海側、三陸海岸は閉伊(へい)と呼ばれ、人口はとにかく少なく、7つほどの漁村しか存在せず、そしてどこも敵対的だった。

 以来三年かけて、ようやく釜石と宮古の2村とは友好関係を築くことができていた。釜石ではたしか鉄が採れる筈だ。

 友好と言っても、三角帆の大型船を欲しがっての打算的なものだ。それはその南、気仙郡の郡司も同じことだった。


 頼季様の指が指すのはそれらの更に北、下北半島の根元あたりだ。


「ここに、君子部三郎を遣った」


 かつての北郷党の長だ。最近見かけないと思っていたら、こんな北の果てに行っていたとは。


「つも、と呼ぶ」


 陸奥国司の権威の及ぶ果ての更に北、朝廷に逆らう夷賊たちの住む地の更に北だ。

 そこでは寒さの為に水稲農耕ができず、住民を養うことができない。

 将来頼季様の兄のどちらが陸奥国司になっても互いに邪魔になる事は無い。


「唐米ならここでも育とう」


 宋から持ち帰られた赤米、早生種なら寒冷地でも育てられるのではないか、という考えは恐らく正しい。


「馬もよく育とう」


 で、もしやここに移住される、と?


「ここはまだ試しよ」


 そもそも住めるかもわからぬ、と冷静な事を言われる。池原殿と朝日四郎敦明ことアサマルの意見だという。あちこち作物が育つか試さなければならないというのは頷ける話だ。何しろ気候が違い過ぎる。

 話では衣川の北と同じくらいの雪の量だという。大丈夫だろうか。津軽、だよなぁ。


「寒いか」


 同席した千代若様が聞くのに、吾子の背より高く雪積もりおるぞ、と頼季様は答えて子の頭を撫でられる。まだ髪を結う前だからそうやって頭を撫でることが出来る。


「吾は兄背の邪魔とならぬ所まで行かねばならぬ」


 寂しい事を言われる。

 では、吾も、と言おうとしたところで、


「吾子はまだ国に帰りたいか」


 思い出した。昔々言われた言葉だ。

 まだ雑色と同じ仕事をしていた頃、時々頼季様はアキラを気遣われて聞かれたのだった。

 多分あの頃は、不満をよくこぼすアキラがいつの間にか消えてしまわないかと、そんなことも思われていたのかも知れない。

 最初の頃はとにかくアキラは愚痴不満ばかりだったのだ。


「この頃は暖かくなりましたゆえ、それほど思うことはありません」


 こう答えた覚えがある。

 昔の記憶は、寒さに震えるものばかりだ。


 今は違う。菊多の石炭の流通は暖房事情を大幅に変えた。煉瓦で基礎構造を作る建物では煙管を基礎に通して暖房していた。冬になると煉瓦の煙突から黒い煙が何条もたなびく。

 木綿(このわた)の栽培も相模や安房で始まっていた。やはり寒さには弱いようで、武蔵ではよく育たなかった。先が楽しみな作物だ。


 そして勿論、今は家族がある。

 家があり、妻があり、子供たちがある。

 もう一人ふらふらすることはできない。そこは帰るべき暖かな我が家なのだ。


「陸奥は寒いぞ」


「妻子連れていきましょうぞ」


「暖かきところにおれ」


 なに、まだ四年はあるのだ、と頼季様は言われる。まだずっと先の事ぞ、と。

 アキラの杯に焼酎が注がれる。


 一気に呷ってしまいたい。

 アキラの心に再び寒風が吹き始めた。

#99 麻疹について


 日本における記録上最初の麻疹の流行は、長徳四(998)年の大流行です。このとき初めて天然痘と麻疹の症状に区別がつけられて記録されました。扶桑略記によれば流行は六~七ヶ月続き、天皇から庶民まで、貴賎老若男女これを逃れるもの無きと記録されています。

栄花物語にはこの時の事を「今年例のモカサにあらで、いと赤き瘡の細かなる、いできて、老いたる若き、上下わかず、これを病みののしりて、やがて、いたづらになる類もあるべし」と書いています。翌年の改元はこの大流行を受けてのものでした。

 しばらくはまだ天然痘と麻疹は明確な区別をつけられませんでした。赤疱瘡や稲目瘡という呼び名は双方で用いられたのです。

 鎌倉時代になるとこの病気は、はしかと呼ばれるようになります。これは"はしかい"を語源としますが、これは皮膚のかゆみを指す説と喉のいがらっぽさを指すという説があります。


 感染するとまず潜伏期が10日程度あり、風邪に良く似た強い発熱があります。喉の痛みが特徴で、その後口内粘膜にコプリック斑と呼ばれる白い斑点が出ます。この時期をカタル期と呼びます。この時期に最も多く周囲にウイルスをばらまきます。カタル期は5日ほど続きます。

 その後1度くらい熱が下がった後、今度は40度くらいまで発熱します。赤い斑点が全身を覆い、乾燥して痒みをもたらすようになります。これは感染から数えて14日目から、72時間で斑点は全身を覆います。

 麻疹が死病であった頃は、この時期の強い発熱が患者から体力を奪い、直接または二次感染によって人命を奪っていました。

 発疹期と呼ばれるこの時期は斑点が全身を覆った直後から熱は下がりはじめます。これは体内に抗体が出来たためです。

 その後熱は急速に下がり、斑点は色素沈着を残しますが、やがてそれも消失します。


 麻疹は極めて伝染性の強い疫病で、古来は死病として恐れられました。

 元々は牛の疫病である牛疫の変種で、中東付近で、ウシの家畜化によってヒトへの感染性を獲得したのだろうと思われています。感染経路はツバなどの飛沫、接触、そして空気感染と何でもありです。その死亡率についてマクニールは「疫病と世界史」で、二世紀以降ローマ帝国を繰り返し襲い荒廃させた疫病について、天然痘と麻疹であろうと推測しています。

 しかし、死病はそれ自体が淘汰圧として疫病を進化させます。より症状の緩やかなほうがキャリアを長生きさせ、感染を広げることができます。この適応進化が起きるにはそれなりの人口が必要で、それなりの都市人口を持った文明では急速に死病は比較的症状のおだやかな小児病へと変化します。記録によると十三世紀には麻疹は小児の病であるという記述が現れます。


 免疫が極めて重要であることは、長徳四(998)年の次の流行が、万寿二(1025)年、27年後の住民の大半が免疫の無い者で占められた時期になっていることからも判ると思います。免疫の無い社会に麻疹が流行した場合、その死亡率は30%程度にまでのぼると推測されています。平安時代の麻疹は、恐るべき疫病だったのです。

 現代の麻疹は、かつてのそれとは症状の激しさが全く違うことに留意しなければいけません。また現在でも大人が罹ると重症化することが多く、子供も重篤な障害を残すことがあることが知られています。千人に一人ほどの確率で脳炎などの致命的な症状を併発する事も同様です。妊婦が麻疹に罹った場合は流産の危険が極めて高く、産児に何らかの障害の残ることの多いことも知られています。


 麻疹は天然痘と同じく、完全撲滅を目指されている疫病ですが、現状は全くその目標を達成するには遠い状況が続いています。麻疹には治療法はありません。あるのは解熱などの対処療法だけです。従って、麻疹の予防注射はこの悪疫の流行を阻止する上で極めて重要であります。

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