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#98:1024年10月 繁栄

 都からの帰路はあっという間だった。


 九品津を出てわずか5日で鎌倉に着くと3日滞在して、今日は既に利根川を遡っていた。

 大量の土産を積んだ川舟の列に並んで、河川敷に馬の列が続く。馬に舟を曳かせて遡上しているのだ。この方式は舟の遡上速度を従来のほぼ倍にしていた。


 河川敷は土木工学の大きな進展の成果だった。今はまだ利根川の武蔵国の側にしか無いが、下総の行政権も手に入れた以上、対岸の下総側にも河川敷と堤防の組み合わせを工事していくことになるだろう。


 ことの始まりは持ち運び可能なサイズまで小型化した時計を開発したところまで遡る。

 時計のほとんどの部品が青銅で、その機構部は一尺四方の木箱の中央に革紐で吊るされていた。二人がかりで運搬するものだったが、多少の衝撃対策を施したのだ。


 時計の機構部品は手作りの送りねじの付いた小さな金属旋盤で加工されたものだった。

 これまでと最大の違いは振り子がテンプ、半回転の繰り返し運動をする天秤型のアームになったことだ。竹に代わり貴重な鯨の髭を繰り返し動作用のばねに使っている。鋼ばねはこのサイズで使える程の品質に達していなかった。

 時計の部品は本当は真鍮で作りたかったが、秩父でようやく亜鉛がごくわずか精錬できたという段階であり、銅と亜鉛の合金である真鍮の利用はまだ先のことだ。


 動力源は相変わらず重りだ。ひげぜんまい動力は鯨のひげがもっと手に入れば実現したかったが、この時代そもそも鯨は浜に打ち上げられた死体としてしか手に入らない。はるか北の渡島では鯨を鉾で突いて捕鯨しているらしいが、そういう文化は噂話としてしか伝わっていない。


 これだけ頑張っても時計は、六分儀と組み合わせて航海に使える精度を実現できていなかった。

 ところがこれが、天文観測に続いて気象観測を始めた別院のデータの有用性を飛躍的に高めることになった。

 まず測ったのは時間当たりの降水量だった。一定時間に壺に溜まった水量から、一町四方に降った水量を推測する。

 下野の山野の大まかな地図は既にある。川の上流にどれだけ水が降り注いだか、想像できるようになった訳だ。

 風速と一緒に、川の流速も測るようになった。このとき、持ち運ぶことが出来る時計が役に立った。

 別院の僧たちは、川が水を運搬する性能について理解したのだ。

 そして、大雨が降ればどうなるかも。


 氾濫時にあわせた河川の性能拡張には、川幅を確保しての堤防建設しかない。

 河川敷はアキラの提案だった。

 これは馬に舟を曳かせるアイディアと治水を結び付けたものだ。空き地のように見えてしまうだろう河川敷を馬の通路および草を食わせる場として確保し、馬借に河川敷の維持を負担させるのだ。


 堤防と河川敷の設計は土木の学生に任せた。彼らはもう数字を元に必要な性能値を計算する事ができる。

 平常時の川の流れから左右に十八間、およそ50メートルの幅の河川敷が既に確保されていた。堤防工事はまだ途中だ。だが、厳しい個所は既に抑えてある。


 土木の学生たちは測量、計算、そして陰陽に詳しいことを要求されていた。土木工事が犯土、つまり陰陽の禁忌に触れる以上、陰陽の知識は必須だった。

 いや、陰陽をゆがめる知識と言うべきか。それは論理学や詭弁の授業でもあった。


 陰陽といえば今年から、下野国庁では七日に一度、定期的に休日を設けるようになっていた。

 日曜から土曜まで陰陽の七曜をそのまま使う。蜜日とも呼ばれる日曜を休日にしたかったが理由が思いつかない。結局、犯土からの連想で土曜を物忌みの日とした。

 おかげで国庁では、日曜の来るの悲しき、で終わる戯れ歌が大流行だ。

 足利で増え始めた工業労働者に定期的な休日は是非とも必要なものだろう。足尾では既に交代制での五日に一度の休日が採用されていた。


 足利で発行している暦には前から七曜を入れているが、今年からは土曜を物忌みと明記している。暦に物忌みと書いてあれば、そのうち皆従うようになるだろう。

 もちろん、陰陽なんて坂東ではほとんど誰も信じていないから、どこまで従う者が出るかは未知数だ。


     ・


 舟には多数の、都からの移住者が乗っていた。人材こそ都土産の最たるものだろう。彼らのうちの誰かが奏でる笛の音が聞こえる。


 一番多いのは法師、南都興福寺から移籍する実証派の僧たちだ。染色技能者や仏具師、そして仏像を作る仏師もいる。製酒技能者もいる。

 貧乏な文章生も随分と雇った。この坂東での経験を下級地方官相当のものとみなし、都に戻った日にはどこかの院か摂関家の蔵人に推薦すると約束してある。彼らは事務職の即戦力であると同時に学校の教師を務めてもらうことになる。


 川筋のどこか近くには革加工、屠殺者たちの集落がある筈だったが、アキラは気づかなかった。川沿いに馬の利用と飼育が集約されると、最後の殺処分も川沿いに集約したほうが良くなる。

 元より川沿いに住み着くことの多かった業種だったが、堤防整備と併せて加工場を整備したのだ。これは革製品の安定供給に関わる問題で、つまり武士にとっては死活問題になる。


 舟からの荷おろしには、最近川沿いの船着場に見られるようになったクレーン、荷梁が使われた。人足たちが踏み車の中で息を揃えて歩き、動滑車を巻き揚げる。

 五斗入りの標準木箱にはそれぞれ焼き印が押してある。丸に横棒一つが小一条院関連、横棒二本が足利の源氏関連、横棒三本がアキラ関連の荷だ。

 木箱が荷馬車に積み上げられ、次々と出発していく。道路は砕いた砂利が敷き詰められ、部分的に焼成した石灰と粘土の混合物を更に焼いて砕いたもの、セメントを使ったコンクリートが使われていた。


 コンクリートは石灰による土壌改良の副産物だった。

 黒ボク土の土壌改良に導入された石灰はまたたくまに西関東全域にひろまった。石灰石を焼いて生石灰をつくる石灰焼きが炭焼きの要領で各地で行われ、黒ボク土であろうがなかろうが生石灰が投入されることになった。生石灰は水と火山灰土と反応してカチカチに硬くなり、それを牛馬を使って砕く手間が増えていた。

 そんな中、沼地の粘土と一緒に焼かれた石灰が、水分と反応してこれまでになく硬くなったのが発見されたのだ。


 荒川に建設される予定の橋にもコンクリートが使用される予定だった。コンクリートブロックとクレーンの組み合わせは橋脚設計を全く変えてしまった。

 どんどん変わっていく。アキラの生み出したものは早くも過去のものになりつつあった。


 一行は船着き場の宿で足を伸ばし休憩した。

 宿とはいっても布施屋に近い代物で、更に言うなら茶屋に近い。もう少しすればここでもお茶を出せるようになるだろう。宋から持ち帰った茶の苗木は相模で大事に育てられていた。


 一行の護衛には革の立体縫製の上着を着た騎馬武者たちが護衛についていた。彼らの袴もまた革製で細く立体縫製だ。靴も革、頭上の綾藺笠(あやいがさ)は派手に飾られていた。肩からコンパクトな弩を提げている。梃子で弦をつがえるタイプだ。護衛は時折小さな望遠鏡を取り出して遠くを警戒していた。


 旅の終わりが近づくと早くも終わった気分になって、旅の苦労や楽しかった物事などが一行から聞こえてくるようになる。


    ・


 この旅の目的は、国司交代に伴う様々な調整をつけることにあったが、同時にアキラの個人的な事情、例えば新たな養父への挨拶や帰任した平光衡殿の邸宅調達など山盛りの旅程であった。


 新国司のうち、上野、武蔵、相模、上総、下総、常陸、安房の七国は遙任となる。肝心の下野だが藤原兼光の子で藤原能信の家司、藤原頼行が受領として赴任する訳で、面倒なことになることが予想されていた。

 遙任国の国司全員からアキラは目代の任用を受けていた。その見返りとして、受領として得る以上の富を彼らは受け取ることになる。

 更に藤原能信と小一条院に貢ぎ、ほぼ同額を寺院への寄進の名目で関白藤原頼通にも貢ぐことになる。

 この大盤振る舞いは、坂東への不介入を勝ち取るための必要経費だった。

 その額、あわせて銅貨一万貫。アキラが以前計算したこの時代の朝廷税収のほぼ半額、国内総生産の5パーセントに当たる。

 おかげで都の物価は上下にひどく乱れているようだ。


 都に流れ込む銅貨は最終的に邸宅の調達や新築に使われることになる。バブルだ。お蔭で平光衡殿の邸宅調達は高くつくことになった。

 目先を変えてアキラは七条より南の土地を買い漁った。都の南も、上野や武蔵でおこなっているような排水用の水路を掘れば、住宅適地に早変わりするだろう。

 平光衡殿にはとりあえず五条の手狭な邸宅で我慢して頂き、排水が済み次第八条に一町四方の邸宅を造営するよう手配した。


 坂東では銅貨の放出は、米価と通貨需要を睨みながら随時決定するという面倒くさいやりかたを採用していた。国庁からの支払いの米と銅貨の比率を変え、貸し出しの比率を変え、公共工事をおこなって銅貨で支払う。とにかく大変なのだ。

 最近多用しているやり方は絹や麻、米を銅貨で買うオペレーションだ。あとで売り戻すが大抵は損になる。坂東別当はいったい何をやっているのかと問われることが多いのだが、説明してもなかなか理解されることは無い。


 坂東での銅貨の普及は、今この宿で振舞う黍団子の支払いを銅貨で済ませているその点だけ見ても進んでいることが見て取れた。


「あずま野に吹く風寒し、秋空ぞ利根の川面に波立て渡る」


 誰かが下手な歌を詠んだようだ。一行から囃す声が聞こえる。


 馬車の準備のできた者から出発してゆく。馬車の大半は荷運び用で、今日はそれに敷物をして布で覆っただけで人員の輸送に供していた。ここ数日晴れていて本当に良かった。屋根を設けようとなると大変な手間だっただろう。


 アキラは馬に乗ると馬車の最後尾に付いた。


 道は収穫直前の稲穂の波立つ中を真っすぐ北に続いている。

 そういえば、と思い出す。宋からの土産は茶の樹だけでは無かった。念願の木綿、大麦と小麦、そして早生(わせ)品種の稲。今はどれも相模で種子を増やすべく育てているが、早く下野でも育てたい。気候が合うかどうかだけでも早く知りたい。

 大麦と小麦は思ってもみなかった収穫だった。日本ではこれまで区別のできていなかった大麦と小麦だったが、中国では品種が分けられ改良されていた。

 稲の栽培に向かない土地は多い。土地利用は大きく進歩するだろう。

 早生の稲は二毛作を実現するだけでは無い。寒冷地でも育つわけで、これで東北の稲作は一気に普及するだろう。


 やがて道は西からの道と合流し、山の間の低い鞍を超える。木々の茂るなか道は平地へと続き、太日川の造成堤防の上へとのぼってゆく。


 眺望がいちどに開けた。

 馬車の上の一行から驚嘆の声が上がる。


 川の向こう、赤い煉瓦の壁、白い漆喰の壁、赤灰色の光沢のある瓦屋根が連なる。

 ところどころ菅屋根や檜皮屋根も見えるが少ない。建物の密集に恐れをなした足利屋敷では建物の難燃化を推し進めていた。新築はもう瓦屋根しか許可していない。


 赤く短い煙突が瓦屋根の上にところどころ突き出していた。風呂布施小屋などの石炭焚きをする竈のための煙突だ。それらを圧して赤い塔がひとつ、並ぶ屋根の上に高く突き出ていた。赤煉瓦の時計塔だ。

 見た目通りの煉瓦造りの建物では無い。煉瓦は表面だけで、中は竹筋を入れた三和土で固めたものだ。高さは五階建て程度でしかないが、高層建築の無い中ではひときわ目立っている。

 塔の中には時計と時刻合わせの為の渾天儀、そして音階の違う三つの鐘が納まっていた。三時間ごとに鳴る鐘の音階の組み合わせで時刻がわかる仕掛けだった。


 密集した住居によって構成された都市、寺院ではない一般家屋が屋根瓦を載せたこんな景色は日本のどこにも無い。寺院の塔とは明らかに違う時計塔も目を引く。

 足利の人口はとうに一万を超えた。冬には一万五千人まで膨れる。これは都に次ぐ日本第二の規模の都市だということだ。


 堤防の先には橋が見える。

 長さ六十四間、およそ200メートルのわたらせ橋だ。瀬田の唐橋よりも短いがトラス構造の迫力は圧巻である。

 その瀬田の唐橋も、栗橋に橋脚建設が始まった利根川大橋が完成すると確実に追い抜かれるだろう。日本最大の大橋は坂東に架かることになるのだ。


 橋を渡りきったあたりで一行は渋滞に出くわした。


 この橋は上野と下野の境でもある。橋を渡りきったところには、国司の境迎えの儀式ができるように、ちょっとした広場と東屋が設えてあった。普段は柴垣で道から遮断されているが、いざとなると柴垣を撤去して様々な目的に使うことができる。

 そこに出迎えが来ていたのだ。


 一行の人数が多いために渋滞になっているらしい。馬を降りて国庁の雑色に預ける。足利荘代である頼季様への挨拶の列と思しき最後尾で手持ち無沙汰にしていると、東屋の奥から貴人の姫が、目見麗しい童女を連れて現れた。脇には幼子を抱いた女房も見える、

 あずさと寧子だ。


 できればあずさも寧子も旅に連れて行きたかった。今ならあずさも、顔の痘痕の痕も気にせず都の者たちの陰口にも臆せず、堂々と都の大路を歩めたに違いなかった。その時初めて、あずさは痘痕の呪いから解放されるだろう。

 だが、アキラの子を孕んだ身重の身では旅はできない。

 秋の除目にあわせて都へ行く予定が話題に上がる頃には、既にあずさは懐妊していた。



 わが子は無事に生まれたようだ。

 あずさは既に床離れが出来たと見えるが、出迎えなどまだきついのではないだろうか。クワメは産後の肥立ちが悪かった。全く、出迎えなどさせるべきでは無い。

 しかし、


 彼女はアキラを見つけ、袖を振る。

 釣られて不貞腐れた表情の寧子も手を振ってくれる。

 そこでアキラは、さっきまで何を考えていたのか忘れてしまった。


 ようやく帰ってきたのだ。都に勝る、あずさの都、足利へ。

#98 排水路について


 排水路という技術は11世紀半ばまで日本には無かったのではないかと、実は筆者は考えています。住宅の排水溝は竪穴住居の周りに弥生時代には見られますし、都の大路の端にも排水溝は見られましたが、低湿地を乾燥させるという応用となるとある時期まで見ることができません。この時期は、平安京南部の開発と言うかたちで知ることが出来ます。

 十一世紀初頭、作中時期においては都の事実上の南限は七条でした。七条でも東市のすこし東ではもう宅地ではなくなっていました。鴨川の氾濫による低湿地だったのです。

 時代が少し下り、摂関政治が終わる頃に、八条大路がようやく全通します。それまでは朱雀大路付近にしか存在しなかったのです。しかし出来た大路は幅わずか4メートルという小路よりも狭い代物でした。大路の正規の幅は八間、24mですから大違いです。院政期になると八条や九条、かつての低湿地にも屋敷が立ち並び、更に南には鳥羽離宮が成立します。この鳥羽離宮の造営が十一世紀末、この前身である鳥羽の別邸の造営がその前ほどだと考えられます。その後八条には栄華を極める平家の屋敷が立ち並び、都の中心となった時期もありました。

 これらを実現した排水がどのようなものであったかは知られていません。農地の排水はこの後十二世紀以降、例えば相模国大庭御厨内など新しく立荘された荘園でも見られるようになります。

 ただ、鎌倉時代など土木工事の主流は堤防の築堤で、排水工事の記録はなかなか見られません。本格的な排水路、悪水路建設は他の大規模土木建築などと同じように十六世紀以降となります。

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