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#97:1023年10月 潜伏

 どこに行こうかと考え、上野国の北に向かう事にした。

 まず顔見知りが少ない。その分見つかる可能性が減る。

 それに越後に抜ける(そま)道があると以前聞いた。他国への移動だが、碓氷、足柄、白河といった峠を越えるのは難しいだろう。人の通らない山越えの道があるなら、それを使いたい。


 刀がないのは少々心細かったが、上野、下野の国内では盗賊の心配は全く無かった。

 押領使とその補佐をする警察大尉、少尉の働きのおかげだろう。


 上野下野と武蔵相模の四ヶ国では、押領使の任官した武者子弟に検非違使と同じ警察権と司法権を持たせた、一種の保安官制度を作っていた。

 武者の子弟に法知識の教育をほどこした上で、担当範囲を決めて犯罪の取り締まりに当たらせたのだ。各地各村の領主に押領使警察官の司法判断は優越する。それは法に従い、全てきちんと記録することから生まれる権力だ。

 法知識の乏しい田舎武者にアドバイスを与えるのも警察官の重要な仕事だった。まだ恣意的な法適用が目立つものの、時間が経てば改善するだろう。


 道すがら村で米や作物を買う。取引の対価として塩を多く用意していたが、銅貨の方が好まれているようだった。


 足尾は既に銅貨の年産一万貫を達成し、アキラたちはしばらく前から銅の域外持ち出しの禁制を解いていた。

 今や銅の価値は一時期からするともう五分の一程度まで下がっていた。これまでは銅を地金として密輸出すれば誰でも大もうけができた。しかしそれでは都への貢銅の有難味が減るため、碓氷と足柄の関で取り締まっていたのだ。

 持ち出し禁制が解けると、隣の信濃や駿河との交易も爆発的に増大した。


 更に都との運搬取引に紙幣、銭一貫交換証文を使い始めていた。将来は銅貨需要の大きな部分を紙幣が代替するだろう。富士山と鳳凰を細密銅版画で印刷した紙幣は偽造が困難だと思われた。これほど精細な絵は今だ存在していない筈だ。

 富の移動は巨大なものに膨れ上がりつつあった。


 上野の山中に入ると、アキラはそのうちスリングによる投石に習熟することになった。

 主な相手は山犬だった。群れに囲まれたときは流石に死を覚悟したが、運よく群れのボスに当てたらしく、何とか生き延びることが出来た。


 山奥に道を探して分け入ったが、やがて道も無くなった。

 北へ、尾根筋に続く道は未開の森の中に消えていた。

 辿りついた峠の上で越後側を眺めて、アキラは大きくため息をついた。先にはもう、道らしい道も無い。崖と谷の連続がどこまでも続いている。

 噂の杣道は無いのか、消えたのか、道を間違えたか。

 ここから先を踏破するだけの食料も準備も無い。とにかく水が無い。

 この先に水を探すとすれば、谷間に下りるしかないが、それは自殺行為だ。

 別の道しかあるまい。

 もしくは、山中に身を隠すか。


    ・


 落ち葉のはらはらと落ちるさまの美しさよ。

 深山の佳景なるかな。


「吹き散らす紅の葉の霜 あつき湯霧のまぼろしに見ゆ」


 すこし湯に長く浸かりすぎた気がする。ものには限度と言うものがある。


 妥協とその他諸々を勘案した結果が、この上野の山奥の温泉だった。

 以前鎌倉で、平貞道殿にそのありかを教わった場所だった。碓氷の馬借の子である貞道殿は上野の山奥にすごく詳しかった。

 しかしこの場所、草津かと思ったのだが、どうも違う。


 温泉というのは、実にいい。

 秋が深くなるにつれ、特にそう思うようになってきた。寒風に吹かれながら、川沿いの狭い畑での仕事を終え、冷たい川の水で顔を洗うたびに思う。

 湯は熱く、温かい。アキラは最近、河原に建てた小屋の中まで湯を引いた。これでぬくぬくと冬が越せると思うとうれしくなる。

 毎日温泉。好きなだけ温泉。独り占め温泉。

 とにかく山奥なのだ。隠棲先としては抜群の場所であろう。


 アキラと一緒に疫座の者たちも少数、一緒に暮らしている。

 彼らの法師は実はちゃんとした僧侶で、国分寺の経営状態が厳しいのを悟って出てきたのだという。稚児の頃から国分寺にいたが、孤児であった彼と違い周りの稚児は富農や郡司の家の出で、それぞれ帰るところのあったのだが、彼には無かったのだ。


 山奥にて穀断ちして(ひじり)暮らししようとして疫座の者たちに出会って、彼らをまとめる法師の役を買って出たのだという。

 彼らは今では温泉に治療目的で来る人たちの世話をしていた。


 法師にはそれなりの学識があり、アキラは法師と議論して楽しい日々を過ごした。

 アキラは今や、厳密な測定によって阿頼耶識の本質(ほんぜつ)に迫ろうという実証学派の生みの親であり、それなりに学派の話題にはついていっていたつもりだったが、甘かったと痛感させられた。


 唯識論は上手くできたもので、それなりに何でも答えがある。時間順序の保存は縁起という考え、要するに因果律によって自明に保障されるのだそうだ。ただ、(えん)の元が(ごう)、カルマだから話がオカルトになる。


 アキラはこのあたり裏付けに欠けると批判し、更に業と縁の関係を測定する実験まで提案してみた。要するに転生すれば確実に背負うだろう業を背負わせて殺し、転生までのサイクルを測定するのだ。

 勿論冗談だが、アキラは衆生を救いたいならそのくらいは明らかにしてはどうかと煽ってみた。勿論烈火のごとく怒られた。

 冗談であるとは理解して貰えたが、法師はそれでも数日はぷりぷり怒っていた。真面目な人たちだ。


 山奥の暮らしはすぐに軌道に乗った。

 鹿や猪を狩って肉を燻製にし、脂から石鹸を作り、膏薬も作って皮膚病の患者に塗る。

 皮膚病の痒いのを引っ掻いてしまい、いつまでも治らない重傷にしている人のなんと多いことか。アキラは、皮膚病患者の大半が、皮膚を保護するだけで治ることを発見していた。

 訪れる人に話して硫黄を手に入れ、皮膚病の患者に硫黄を溶いた湯に浸らせ、膏薬を塗って麻布の包帯で皮膚を保護する。明礬も欲しいが今のところ手に入っていない。


 今やこの温泉は、万人の皮膚病を治す霊泉として有名なものになりつつあった。

 隠れ住む先として抜群だとは言ったが、当の本人が隠れることができるかどうかは全く別の話だ。


 ただ、そもそもアキラはもうかなり投げやりな気分、どうにでもなれという心境である。見つかることに関してかなり無関心であり、その先のことについても無関心になっていた。

 大事なことは既に済ませてしまったのだ。


 治療代として受け取った硫黄を砕きすり潰していると、


「目代よ、ここで何をしておる」


 よく知った声が頭上から降ってきた。しかし、いや、まさか。

 あずさ殿、本人だ。


   ・


「そもそも、目代は罪に問われておらぬ」


 どういうことか。


「藤原の文行殿の遺せし郎党の仕業と決まったゆえ。兼光殿もこれで口合わせておる」


 筋書きはこういう事のようだ。

 主君と仲間を失った藤原文行の郎党残党が、藤原正頼が岩舟山に居合わせたタイミングを見計らって焼き討ちした。藤原正頼は焼死、残党はどこか消え失せた。


「田部郷の郷長はいかに」


「何のことか」


 目撃者に身元を割られていなければ、いや、割られていたとしても黙っていると決めていれば、こういう事にもなるのか。


「ここは疫座の者の知らせおった事ぞ」


 山奥で聖が唯識の深い理論について問答する内容の書簡が足利の別院に持ち込まれ、わかる者には皆一発でピンと来たのだという。

 別院につてのある女房から聞いたあずさ殿は、口止めを払うと早速、伊香保温泉に湯治に行くと宣言してやってきたのだという。お供は平光衡殿の従者から幾人か、つまりフタロウ改め富太郎明信その他である。


「恐らく、三郎殿はこの場のこと知りおろう」


 好きにさせるつもりであろう、と彼女はアキラの傍、落ち葉の上に座る。


 確かに、頼季様にこの場所を知られるのは時間の問題だっただろう。

 頼季様は上野押領使、警察権と実際の法執行を一手に押さえているのだ。そしてわずか十名程度ではあるが部下、押領使警察官が任命されてある。真剣に聞きまわればあっというまに所在など割れることだろう。


「されど、われは違うゆえ」


 あずさ殿は落ち葉の中からどんぐりを拾うと、ほいと向こうに投げた。


「そういえば確か、先の妻には見初められて夫婦となったと」


 覚えております、と言って更にどんぐりを投げる。一つ、二つ。


 何のことかとしばらく思案して、4年前の正月のことだったかと思い出した。

 クワメと夫婦になってすぐの頃だった筈だ。まだあずさ殿の乳母殿もご存命で、あずさ殿は、物語が好きな、まだ小さい少女だった。


 出会いだけで言えばあずさ殿とのそれはクワメよりも前の、硯と墨を借りた時まで遡る。

 確か、浮舟を名乗られたのだ。今考えると全く生意気な中二病だ。


 今目の前にいるのは、成長した女性だった。


「確か、歌を贈られたと」


 思い出した。


「然り。日頃管弦して過ごしております」


 確か、こう返した筈だ。あずさ殿が振り向く。


「ずっと思っておったのよ。目代の管弦なぞ聞きたきと。しかしいつまで経っても笙の音の一つせぬ」


「琵琶は作ったのですが、あまり上手でなきゆえ」


 弁解する。音楽はやっぱり苦手だと再確認しただけだった。笛のほうは最初から駄目だった。リコーダーとか駄目だったし。


おこ絵(イラスト)も描かると聞いた」


「描いたものは都に送りおるゆえ」


 いや、最近は自分で描いていない。

 こないだは木工細工の学生数人に白(さぎ)のスケッチをさせ、出来の良いものを添削してそのまま都に送った。捕まえられてきた動物のスケッチは彼らに定期的にさせている科目で、将来は彫刻や屏風絵にこういう技能を用いていくことになる。

 忙しいのだ。のんびり絵を描くなんて暇は全く無いのだ。


 いや、今がその暇なのかも知れない。 


「なれば、歌くらいは詠まれよう」


 あずさ殿はそう言って、ひと息ついて、詠んだ。


 秋の葉の深山の色の変わるともこの浮舟の岸にぞ結ぶ


「引き歌にありますな」


 引き歌とは引用によって意味を持たせた歌だ。

 引用先、本歌はそのものずばり、源氏物語、浮舟の名の由来となった歌だ。確か、男の心に例えられた島に対して、浮舟に例えられた女心は行き先も定まらず流れていくという不安が詠われていた筈。


 しかしこちらは、意味は正反対というか、やばい。

 気づかずにはいられない。

 浮舟を岸に係留する、つまり自分のポジションは変わらないという歌だ。では何に対してか、秋の葉に例えられているフワフワヤローは一体誰なのか。


 アキラは今、彼女から求婚の歌を受け取ったのだ。


 返さなければならない。返事を。歌を。


 しかし、ちょっと待った。

 待って欲しい。

 自分は、こんな風に新しい女性を伴侶に受け入れてしまって良いのか。


 固まってしまったアキラに、彼女は、


「待ちますゆえ、よき返歌を」


 彼女はそう言うと、立ち上がった。


「せっかくの湯ぞ。入りたき。案内されよ」


  ・


 富太郎たちが持ち込んだ荷物の中に野営用の陣幕が用意されていたので、これを湯船にしていた石囲いの一部を囲む。


「景色のよう見えぬ」


 ぶつぶつ言われるが、川原に向かって陣幕は解放しているのだから、それで勘弁してほしい。


 富太郎と少し話す。


「兼光は頼季様と取引されたらしき」


 次の下野国司に藤原兼光の子、藤原正頼の弟で藤原能信の家司である藤原頼行を推せという事らしい。そう、今の国司藤原定輔殿の任期は今年で終わりだ。

 なるほど、藤原兼光にとっては十分に元が取れる取引になる。


 結構な悪名を聞いている藤原頼行殿だが、一体どういう人物か。

 国司として好き勝手をされてもらっては困る訳だが、藤原兼光は下野の勢力拡大をどうしても実現したいところだろう。

 国司の勝手な活動を牽制しながら、藤原兼光に美味しい所をあたえる。


 普通に考えれば難しい話だが、今のアキラには腹案があった。


「こう、川に堤を二つ並べて作る」


 アキラは河原の石を積みながら富太郎に説明する。


「下の堤を開け、堤の間に川下より舟を入れる」


 石を置いて、上流側の石組みを崩して水を入れる。石組みの間の落ち葉が浮かび上がる。


「水が入り、上と川面の高さが同じになったところで、舟を川上に出す」


 (こう)門を使った川の遡上の説明だ。

 逆にすれば川上から川下にも舟は動けよう。そういう説明を聞いて富太郎は、


「冬など水少なき時は、ああ、堤で水増えるか。堤の開け閉めは板などでおこなえば良いか」


 細かい部分を勝手に補完して勝手に納得してくれる。頭が良い相手への説明は本当に楽だ。


「これで海から足利まで舟入れようぞ」


 で、この閘門運営の権益を藤原兼光にくれてやるのだ。


 にこにこ顔で将来図を頭に描いていたらしき富太郎は、ここで、は? と聞き返してきた。本当に聞き返してきた。

 もう一度言うと、信じられぬ、という表情で、


「ありえぬ」


 富太郎ほどになるとこの権益の大きさがすぐに想像できてしまう。

 だが、これくらいは必要だろう。むしろ、足りないかもしれない。藤原兼光は富太郎ほど想像力が働くわけではない。直接的な、例えば貢物なども要るだろう。


 だが、閘門運営の権益は、藤原兼光をいずれ変えるだろう。商業の可能性に眼を開かせることに繋がる筈だ。


「さて、そろそろ」


 富太郎は立ち上がると尻の埃をはたくと、


「吾らは物忌みにて、皆々揃って川下で休みおるゆえ」


 ゆっくりなされよ、と去っていった。

 気を利かせたつもりか。



 湯気が川面を滑り流れてゆく。


 クワメが死んで3年、か。

 ここで受け入れねば、一生受け入れることができないだろう。


   ・


 陣幕をくぐる。

 水音に、あずさ殿は振り向いた。


「恋しく思いし君の、今はなんとあさましき」


 と言いながら、彼女は笑う。

 

「これはほれ果てひたすらに思いしゆえ」


 湯に身を浸しながら、アキラはそう弁明する。 

 咳払いをして、詠む。


 千代経とも変わりはすまい奧山の紅葉ふみ分け岸にぞ寄る


 出鱈目な気もするが、いいのだ。今だけ、言葉の代わりなのだから。

 彼女は微笑みながら言う。


この宮(匂宮)は歌の下手よの」

#97 藤姓足利氏について その2


 藤原兼光の四人の子供はそれぞれに勢力を広げ、その子孫は勢力地を苗字に名乗るようになります。

 奥州藤原氏は長男藤原正頼の子、藤原頼遠を祖としています。

 次男藤原頼行は藤原能信の家司を経て受領を歴任し、太田氏と藤姓足利氏の祖となります。

 太田氏からは小山氏、藤姓足利氏からは佐野氏など近郷の武士の祖がそれぞれの所領から現れます。彼らはもはや受領や在庁になることもなく、郡規模の領主に留まります。


 足利荘は康治元(1142)年に安楽寿院領として立券されます。この時期、藤姓足利氏は源義家の子孫の郎党であり、足利荘の荘代として荘園を管理しました。簗田郡はそのほぼ全域が康治二(1143)年に伊勢神宮に寄進され簗田御厨となります。

 足利氏は下野および上野国に勢力を伸ばしましたが、源義家の子孫たちもまた足利氏を名乗り支配権を主張するようになります。この源姓足利氏からは上野国新田荘を開発した新田氏が出ており、上野でも両足利氏は対立しました。1108年に浅間山が噴火し、その東側の広大な面積が火山灰に覆われて亡びました。これを再開発したのが新田荘の始まりです。藤姓足利氏は足利荘の荘代の地位を維持し続けましたが、その地位は常に脅かされていました。

 12世紀半ばに、赤城山山麓に長大な用水路、女堀が建設されましたが、その目的を達することはありませんでした。この用水路は藤姓足利氏とその累族の所領に沿って建設されているため、藤姓足利氏によるものと思われていますが、文献資料等は存在していません。成功していれば広大な面積の耕地が実現できていたと思われます。

 女堀の名称は他の場所でもいくらか見受けられ、おそらくは失敗した用水路の類の俗称でなかったかと思われます。


 源頼朝の挙兵の際に源姓足利氏は早い時期から応じたのに対し、藤姓足利氏は平家側に付いたため、その後一族は分裂して藤姓足利氏は滅びました。以降八条院領足利荘は源姓足利氏の支配するところとなりました。

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