#92:1023年3月 追捕
簗田郡の郡司、藤原正頼殿の大鎧姿は、思ったより似合っていなかった。
少し動くだけでガチャリと鉄の重たい音が鳴る。その鎧に鉄の小札をどのくらい重ねているのだろうか。重さは想像もしたくない。
あ、兜は流石に脱いだか。全鉄製の兜はとんでもなく重い。
兜の下にあった烏帽子の皺を伸ばすと、藤原正頼は郎党の持ってきた文を解いて読み上げる。
「太政官符
鎮守府将軍 従五位下藤原朝臣正頼
下野の官人を拐かし、安房国庁を焼きしため安房国解にて平忠常を追捕する由。このために下総国及び上総国に兵を遣わせよ。
上野国、下野国、武蔵国、相模国の国司はこれに兵馬遣わし糧食を出すこと。
治安三年二月八日」
朝廷の正式な命令だ。
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アキラが足利に戻ってみると、既に様々なことが進行していた。
最大のものが、藤原正頼殿の鎮守府将軍への任命だ。
同時に、父親である藤原兼光の隠居そして出家が発表された。なんというかキナくさい。
藤原正頼殿はこれで下野の藤原氏を束ねる棟梁になった訳だ。鎮守府将軍の地位はそのために相応しい肩書きだった。
平忠常追捕の官符は、安房国司館の襲撃からわずか半月でやってきた。
上野、下野、武蔵、相模の四カ国に動員がかかっていた。太政官符によれば、それら軍勢を統率指揮するのは鎮守府将軍、藤原正頼だ。
今日はこの軍事作戦のための初顔合わせだ。
上座に鎮守府将軍藤原正頼殿、左席に上野押領史である源頼季様、右席に相模の国軍の将である平貞道殿と武蔵の国軍の将の藤原真枝殿、そして下席に下野国軍の将補という名目のアキラという並びだ。
「三月の十日までに邑楽郡の南に軍を集める」
それは一方的な指示だった。
「二十日までに下総国庁、月末までに上総国庁を征す」
時期は農繁期にさしかかっていた。田植えまでに終わらせたいとは、この場の皆が考えていることだろう。
「下野は二千、上野、相模、武蔵は千の兵を集める。兵の少なき国は糧秣多くされよ」
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それから後はひたすら大変だった。
五千の兵を最低ひと月は食べさせなければならない。そして勿論往路と帰路も。
アキラは邑楽郡に軍営を構築し、同時に武蔵の鷲宮にも物資集積を指示した。もし軍勢が下総を南下していくなら物資は舟で運んだほうがいい。武蔵の物資は全て鷲宮に集積する。
相模からの物資は、ずっと後、下総国庁が陥ちてから舟で松戸辺りに荷揚げ集積することにした。
これら計画の実行には全て、藤原正頼殿の裁可が必要だった。
その態度は、尊大と言っていいものだった。こっちがへりくだっているのもあるが、全く親しくする様子は感じられない。
多分、これがこの人物の本性だったのだろう。
考えてみると、相手によってコロコロと態度を変える人物にはこの時代、アキラはあまり出会ったことが無かった。
生粋の武者は侮られれば負けという種族だ。しかしそれゆえに相手への態度は不変で、コロコロ変わることは無い。先祖の仇は今も仇である。
貴族は位階で全てが決まっている。恐らく権力者の周りには相手によって態度が全く変わるような人物が多くいるに違いない。
幸いかどうか分からないが、アキラがこれまでに会った貴族の大半は主流からちょっと離れていて比較的自由な雰囲気がある。ヤンキー的気風と言い換えても良い。
藤原正頼は違う。二年前、下野の国庁屋敷で源頼義殿に近づいた姿を思い出す。あからさまな擦り寄りかただった。
簗田は避けよと言った頼義殿の言葉は正しかった。
官位無ければ殺していたという藤原正頼の言葉も、嘘はまったく無かったのだ。
邑楽郡の軍営に仮の蔵と竈が築かれた。しばらくは糧食はここで調理して前線に運搬される。既に前線には兵士が張り付いている。
すぐ南の栗橋には敵兵士が集まりだしていた。
これら敵方の情勢は間諜が帰還したことでつぶさに明らかになった。菊多の関で別れた男だ。全くベストタイミングの帰還だ。
「今のところ栗橋には千ほどが陣幕を張っておる様子。数日もすれば倍にも増えましょう」
行商姿の荷を解いたばかりの間諜を、頼季様と北郷党とアキラで囲む。
「盗賊働きの者の多くおります。軍勢の動きは全て下総の耳に入っているものと考えられよ」
渡し船を焼こうとした不審者がいたと最近聞いた。不審者はそのまま警備の者に射殺された。
馬車を載せたまま渡せる大型の渡し舟は現在利根川に4隻運行しており、いざとなれば全部を徴発する予定だった。
馬車が載るなら騎馬武者が二騎は乗り、兵士は十人は乗る。四隻でかかれば一日でひと軍勢を渡してしまえる。これが一隻減るだけでも大ダメージだ。
渡し舟一隻は騎馬武者百騎に値する。それを知っているという点だけでも、敵は脅威だった。
「軍は太日川の西のきわを進まれるので?」
追捕軍の進路予定は隠しているつもりが、間諜にもバレていた。敵にも当然バレていることだろう。
栗橋を攻め落とし、そこから利根川と太日川のあいだを南まで駆け抜け、葛飾郡の西半分を一気に制圧する。これが足利勢の従来考えていた下総侵攻案だった。
この狙いは太日川の水運を断つことだ。
利根川と鬼怒川に挟まれた下総の内陸、太日川はいわば聖域、下総の安全地帯だった。ここを物資が移動している間は下総攻略は難しい。
どこでも太日川の水運を分断すれば下総の北側の勢力は干上がってしまう。対してこちらの軍勢は利根川を越えてどこからでも武蔵からの物資供給が期待できる。分断は気にしなくても良いのだ。
問題は、どのように栗橋を攻め落とすか。
邑楽郡と栗橋は陸でつながってはいるが湿地帯で、大軍の移動には向かない。ただ、利根川や太日川の自然堤防の上は別だ。自然堤防の上は普段から道路代わりに使われていた。
太日川の西のきわとは、西岸の自然堤防のことだ。
「栗橋に逆茂木の用意を見ました」
当然の用意だろう。狭い自然堤防を進んでくる相手に対して、逆茂木で足止めして弓を射掛けるのは守備の常道だろう。
隘路の戦いは塞がれたら終わりだ。弓での反撃は隘路では有効打に欠けるし、突撃すればそれこそ逆茂木の餌食だ。
これを正面から破るのは難しい。
足利勢の案は、栗橋の背後から上陸して挟撃する別動隊を前提としたものだ。
そしてこれは藤原正頼に拒否されている。どうも自分の直接指揮下に無い別動隊を作りたくないらしい。
「あの鎮守府将軍、足利の者をここで磨り潰す考えにありましょう」
腕組みした君子部三郎がつぶやく。
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その後の酒の席で北郷党に、大物部季通の最期を語る。
「武者向きに無かったのであろう」
小金部岩丸が言う。
「足尾にそれらしきが居るとは聞いておったが、目代の郎党になっておったとは」
「難しき任と気づかなんだか」
君子部三郎が言う。
「目代は危うき。そもそも、拐かされ二月も行方くらますとは只事で無き。
危うき任にはそれなりの者大勢を付けられよ」
睨まれる。
その通りだ。
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予定通り三月十日に邑楽郡の軍営に五千の大軍は集結した。
既に周囲の田は代掻きも終わり、田植えを待つばかりとなっていた。良く晴れた空を水田が映す。
全力で栗橋を攻め落とす。それが鎮守府将軍の命令だった。
予想通り先発は下野、足利勢だ。
自然堤防の進行方向先に障害物を認めて軍勢は停止し、騎馬に代わって長鉾兵が前に進む。更にその前に楯兵が陣取る。
盾兵と長鉾兵は密集して障害物へと進む。
頼季様が前に出て、敵陣に呼びかける。
「吾は上野陸奥押領使三郎頼季なり。
よく聞かれよ。上野、下野、武蔵、相模四国に、平の忠常追補の命の下りて、そのため兵を進めておる。聞かば道を空けよ」
返答は矢の斉射だった。ただ距離がちと遠い。頼季様は大袖で難なく矢を弾くと、命じた。
「進め!」
太鼓が打ち鳴らされ、楯を担ぐ兵と長鉾を構える兵は同時に歩列を合わせて歩み出した。降り注ぐ矢は難なく楯で防がれる。
しかし、その歩みは逆茂木の前でおかしくなる。狭い自然堤防の上の、先頭のほうの様子はアキラの位置からは確認できない。
変事を感じた頼季様は後退の太鼓を叩かせる。
後で話を聞くと、うまく隠された逆茂木の切れ目から、刀を抜いた徒歩の兵がこちらに突っ込んできたのだという。
後退の指示が早かったから良かったものの、味方の前線はあっというまに崩壊寸前まで叩きのめされていた。
結局、その日の戦闘はこれで終わった。
翌日は騎馬の兵を前に出したが、自然堤防の下から駆け寄った徒歩の兵に苦戦することになった。
その次の日は軍議で潰れて戦闘は無かった。
「軍を二手に分けるそうだ」
頼季様の聞いた話では、足利勢一千をここに張り付けて置いて、主力四千が北から遠回りして栗橋を攻撃するという。
足利勢はここで下総の軍勢を前線に引き付けておく使命が与えられた。
「それで、こちらは進む限り勝手にしてよいと命あった」
つまり、別動隊作戦も勝手にできるという事だ。
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アキラは弩弓兵と神子兵と共に、足利へと戻る道を進んだ。
利根川の渡しで、足利からの馬車と落ち合う。馬車に積まれているのは筏の部品だ。
こんどは武蔵国内を栗橋のほうへ戻る道を進む。元の場所へと引き返す格好になるが、こちらは利根川の反対側だ。
道筋には既に先触れを出しているため、部隊の宿営はスムーズに済んだ。
三日目には栗橋の南、関宿を川向こうに臨む地点に集結することができた。
筏を組み立てると、陽が落ちてくるのを待って川に運び浮かべる。
弩弓兵の渡河は訓練通り、陽が落ちてしまう前に完了した。彼らは手筈通り、これから関宿の武者、兵を掃討にかかる。関宿には栗橋との連絡を担当する伝馬と少数の兵士がいるのだ。
やがて川向こうに松明が灯され、襲撃が成功したと知れた。
松明の明かりを頼りに、神子兵の渡河が始まる。
訓練されていない神子兵の渡河には時間がかかったが、陽の昇る前には全員が作戦の準備が出来ていた。
長鉾と楯の階梯を組む。自然堤防の上で組んだものと同じだが、ずっと横幅が広い。
階梯とはいってもわずか一重、薄っぺらな頼りない陣だった。これを隠すためにも盾は必須だったのだ。
弩弓兵は既に先行していた。騎兵のサポートが無い神子兵にとって、弩弓兵の伏兵が命綱になる。
日の出が近い。
「風はあるか」
アキラは神子兵の長に聞く。
「北西より弱い、半点ほどの風があります」
さて、北の方にわずかに煙が見える。
頼季様が逆茂木の前で柴を燃やしはじめたのだ。敵はこの煙の風下になる。
「進め」
太鼓が単調に響き始める。
こちらに気づいたのか、前方から騎馬が数騎やってくる。
うち一騎が突然落馬する。弩弓兵の狙撃だ。
どこから狙われたのかと敵の騎馬は首を巡らせるが、その間に神子兵の長鉾が間合いに入る。
「押し刺せ」
鋭く尖った鉾の先を避けようと馬が躍り背中の武者をふるい落とす。身を翻す馬の尻を鉾先が刺し、馬が足をもつれさせる。
盾を持った兵は、馬から落ちた武者の鎧の間に刀身を突き立て、殺していく。
敵の騎馬の数は少ない。たとえ鎧武者であろうと、この長鉾の列を突破することはできない。
盾と長鉾は巨大な動く壁のように騎馬武者たちを突き殺し、圧し潰す。
敵の騎馬一騎が逃げ、代わりに敵の歩兵がやってくる。
「礫投げよ」
盾を置いた兵はスリングを振り回し、そして前方に石を投擲する。
刀を持った敵歩兵たちが飛び出してくることがなくなったのを見計らって、再び前進を号令する。
太鼓の連打のピッチが上がる。隊列は揃ったままだ。煙の中でもここまで密集していれば、敵を逃がすことは無い。
煙の中から騎馬武者たちが現れた。頭数が多い。
しかし、神子兵たちはさっきの経験で自信をつけていた。そして太鼓の響きは変わらない。掛け声を何か叫ぶ必要も感じなかった。
この壁は無敵だ。
騎馬武者たちは長鉾の前で、さっきのように身を翻し逃げ、あるいは落馬した。
長鉾の列の端へと廻り込もうとする武者たちは、それと気づかないうちに弩弓で射殺される。だが、煙の中で討ち取り損ねた騎馬がそこそこいる筈だ。まずいかも知れない。
しかし、ここで敵勢の崩れるのを感じた。逃げ始めたのだ。
あとはもう無理することはない。アキラは隊列変更の号令を出した。太鼓のリズムが変わる。隊列の端が後ずさり、やがて密集した円陣をつくる。防御陣形だ。
敗走する敵兵はこちらの陣にあえてかかってくる事はない。
煙が晴れはじめ、騎馬が見えてくる。味方、足利勢の騎馬だ。
味方と合流した事を告げる太鼓のリズムが聞こえてくる。河原に逃げ出した敵兵に弩弓の追い撃ちがかかる。味方の騎兵が駆けてゆく。
「関宿まで進むぞ!」
頼季様の号令が聞こえてくる。
「さて、鎮守府将軍も驚くことにあろうぞ」
#92 鎮守府将軍について
征夷大将軍をはじめとして、武士の最高位を示す将軍の位はそのほとんどは令外官で、律令に示されているのは一万人規模の軍団長として将軍が、三軍の長として大将軍が規定されているだけです。
鎮守府将軍は初期には鎮守将軍と呼ばれ、これは奈良時代に遡る役職でした。こういった将軍の種類、名前は征夷将軍、征東将軍などと同じ中国由来の官職名がメインでしたが、持節将軍や征狄大将軍など、さまざまな職名がありました。
これら将軍の権限は特に軍の統率の最上位者である事以外には明示されていません。将軍の任期は都を出発して都へ帰るまでになります。
こういった例が変わるのは鎮守府将軍からになります。東北の戦争が長引くにつれて、陸奥や出羽の軍団の統率権を鎮守府将軍として陸奥国司が兼任するようになりましたが、征夷大将軍坂上田村麻呂の遠征以降、国司とは独立に任命され、定期的に交代する職になります。鎮守府将軍は平時に任命される最高位の武官職でした。
鎮守府将軍に何らかの行政上の権限があったかどうかは説が分れるところです。出羽城介の職務を吸収した際に出羽国北部の行政権を有するようになったという説や、陸奥最北部の奥六郡の行政権を持っていたという説、逆に単なる武士の名誉職であるという説など様々ですが、鎮守府将軍に任命された各人のその権限の活かし方は様々でした。
征夷大将軍は、坂上田村麻呂がその任務完了後も名乗り続けた事により終身官とみなされるようになります。要するにこれら将軍職の扱いには明確に決まったものは無かったのです。