#91:1023年1月 疫座 (地図有)
いすみの怪しげな上総国府を脱走して、アキラは久しぶりに奥山ライフを満喫していた。
アキラは水干を脱ぐと引き裂いて様々な布きれを作った。
細かい作業には水干の袖に縫い付けていた折り畳みナイフを使う。
このナイフの刃を引き出すためには、適当な木の棒でしばらくこじってみなければならない。小さく作り過ぎた。
作ったものの一つは投石の為のスリングだ。
実は以前少しだけスリングによる投石を試していた。
さぁ、鹿でも狩ろうか。
しかし、これがまた全然駄目であることが判明する。アキラの腕では全く当たらない。
諦めて、椎の実を探す。
ある程度集めると、火を熾す。これまた水干の袖に縫い付けておいたファイアピストンを使う。いい感じで落ち葉が乾燥していて、火は容易に着いた。
椎の実はアク抜きの必要が無く生でもいけるが、火を通すと更においしい。
腹一杯とはなかなかいかない量だ。
木の棒の先を尖らせる。これで山犬が現れても戦うことが出来る。
元水干であった布をナイフで切って、袋をつくる。袋は背中に背負う。
しばらく山を歩いて、湧水のある谷に出た。
水場には動物の足跡もある。
更に歩いて、倒木の下にねぐらに良さそうな場所を見つけた。近くの木の枝を切って倒木に渡し掛け、屋根にする。
寝ているうちに動物に襲われる危険はあるだろうが、仕方がない。
尖らせた木の棒を外に向けて、アキラは倒木の下で寝た。
翌朝、水場に動物がいた。
スリングを試す。
当たった。一発で絶命したか。
タヌキだ。
臭いと言われるタヌキの肉だが、おいしく頂いた。
毛皮はよく裏の肉をこそいで、火にかけて燻しておく。肉も分けて燻す。
烏帽子は袋に仕舞い、伸びていた髭は剃らないことにした。
タヌキの毛皮で皮算用といきたいところだったが、ダニで一杯に過ぎた。多少の煙ではどうってこと無いようだ。水に漬けるか、諦めるか。
・
眼下の道を奇妙な集団が歩んでいく。
しばらく観察して、これは何かの宗教絡みだろうとアキラは見当をつけた。
ほら、なにやらお経らしきものを唱えているのが聞こえる。
奥山生活も4日目、タヌキ肉も尽きてきた。
この時点で、アキラの当初の目論みは崩れている。
ある程度準備が整ったら、山を越えて安房へ。それがアキラの当初計画だった。
しかし、まずここがどこか判らない。どちらへ進んでいるのかも判らない。磁石も水干に縫い付けておけば良かった。
そもそも、あの偽上総国府、上総の端にあるのではあるまい。きっと真ん中辺りだ。ちょっと山を越えれば安房に着けるだろうという目論みが甘かった。
しばらく冬の千葉の山奥をさまよった挙句、もう川を下ってどこか山を降りようという気にもなっていた。このままでは埒があかない。
しかし、上総のうちで人に姿をさらすのはまずい。脱走者として手配がかかっていることを予期しなければならない。
食べ物の乏しいのもアキラを弱気にさせた。盗みでも働くか、乞食でもするか。
どちらにしても厳しいことになる。
決めた。
「そこの方たち、待たれよ」
アキラは両手を振って武器を持っていないことを見せながら、集団の前に姿を現した。彼らがもし盗賊ならこれは命を失う行為だ。しかしアキラは違うとみていた。
山中の共同集団に混ぜてもらう。
傀儡子や坂の者たちがそうやって暮らしていることは知っていた。だが実地にどうしているのかまでは知らない。
彼は、傀儡子でも坂の者でもなかった。
疫座だ。
・
上総の疫座は、種痘を与える代わりに食物を乞う集団だった。
実態はほぼ傀儡子で、やはり元は傀儡子だったらしい。それに屠殺を生業とする者たちが合流して集団をつくっていた。
文字の読める者が手引きに従って石鹸を作り、兎を狩り、痘を他から分けてもらって継代培養する。法師と呼ばれるその人物が一行の指導者だった。
アキラは早速、鹿の解体を手伝った。
肉を燻製にする方法について話す。残りのタヌキの燻製肉を疫座の者に食べさせて、では少し試そうという事になった。少しだけだ。
トチの実を拾う。拾ったものは川の水に漬ける。今頃に拾えるような実には虫が付いていることが多いため、これで虫を殺すのだそうだ。
このまま漬け続けてアク抜きするのかと思えば、違うらしい、ちゃんとアク抜きをすると半月ばかりかかるらしい。これは郷で米と交換するのだ。
獣脂を使う石鹸について話す。鹿の獣脂を使ってみる。アキラの書いた手引きは内陸の農村部を想定していたから、石鹸は松脂を使う方法しか書いていない。
作りながら、海藻灰があれば固体に出来るという話をする。
タヌキの話をしたが、タヌキなど聞いたことが無いと皆言う。いるのは山犬だと。
ただ、山犬にもおよそ二種いるらしい。危険な方は多分オオカミだ。
素姓を問うことなく受け入れてくれた病座の人々の扱いは、今はとにかく嬉しい。それに、暖かい飯を食べることが出来る。
一行は渓谷を下り続けた。
上総の山奥にはまだ種痘を受けていない人々がいるという。彼らに種痘を施すのが疫座の使命だと彼らは言う。
そしてそれで、疫座の役割は一応終わる。種痘がほぼ終わり、天然痘の流行も去った今、疫座の維持は難しい。
彼らに出会って四日目の朝、アキラは彼らに起こされて目覚めた。
「坂東別当にあられるか」
アキラを起こした一人、法師以外は、その向こうで皆叩頭して頭を伏せている。
「そう呼ぶ者もおる」
「あなたの身の手配が郷に廻りおります」
そうだろうな。
「皆頭上げよ。ここに居るは疫座の藤永のアキラぞ」
・
一行に海岸の漁村まで送ってもらえることになった。そこから舟で安房の国府の辺りまで送らせるという。
人里に降りた一行は、アキラを中心に隠すように密集して南へと進んだ。
「菩薩の化生と見えるに、吾らと似たように思ゆ」
一行の誰かが言う。
「菩薩なればすぐにも衆生救いおる筈。吾は人ぞ」
アキラが答えると、更に訊かれた。
「善き業著しき身で、何故に殺生される。畜生道に堕ちようぞ」
殺生禁断。それはこの時代の、一般的な倫理観だ。
しかし、この疫座の人たちの大部分、屠殺を生業としていた人たちにとっては、自らの存在そのものを否定する考え方だった。
アキラは、ゆっくりと言う。
「人は、いまだ殺生することなく生きることは出来ぬ。
世の定まり、皆飢えることなくなれば、そこで初めて殺生禁断を考えても良かろう。
しかし、今の世はまだその時にあらず。吾が望みは皆の飢える事無き世ぞ。その為ならば、皆に代わりて百万遍畜生道に堕ちようぞ」
屠殺が罪なら、キリストよろしく背負ってやろうじゃないか。
勿論何もかも便法、口先だけの話だ。だが、これで彼らの罪悪感を少しでも減らせるならば。
漁村に出る。どうやら勝浦らしい。
翌日、疫座の人たちの手配した舟に漕ぎ手と二人で乗る。
少し沖まで出ると、険しい海岸線の連続が見えてくる。岩だらけだ。なるほど、これなら陸路より舟のほうが良い。
漕ぎ手は漁師で、やはりこの辺りの交通は舟頼みだという。
「菩薩をお連れすると聞いておったが、散所のごとき」
「菩薩であるものか。後光も射してはおらぬ。ただの下野の者ぞ」
軽口を叩き合いながらも、漁師は力強く櫂を漕ぎ続ける。沖の方だと、真冬とも思えぬほど暖かく思えた。いや、勿論それなりに寒いのだが。
景色が良いため、ちょっと歌でも詠みたくなる。
漁師と帆の話をする。
安房の方では三角帆の船が色々あるという。そりゃ三浦半島のすぐ隣だからな。
鎌倉で安く舟を手に入れる方法の噂があると漁師はいう。しばらく前に始めた融資のことか。年に十四分の一の低金利で船の代金を融資するというものだ。利子は年7パーセント、しかし今なら三年か四年で全額返済できる儲けが期待できるだろう。
砂浜に舟の舳先が突っ込むと、アキラは舟を降りた。
「国府は二十里ほど西につき」
なるほど近いな。
アキラは海岸線沿いに見つけた道を、裸足で歩いて行った。
・
安房の国司屋敷の門を叩くと、雑色には例によって散所の者だと思われた。
しかし鎌倉党の者が出てくると、即座に待遇が変わった。
「目代よ、その姿は如何に」
「まず風呂を施されよ。積もる話はその後にて」
髭をさっぱり剃り、体と髪を石鹸で洗い、湯船に漬かって、そうして髪をまとめ烏帽子を被り、直垂を着るとさっぱりし過ぎてまったく別人にでもなったような気分だ。
ただ、残念なことに用意された直垂は丈がすこし足りない。
「六浦の五郎為尚にあります」
目代の我が名を覚えておられぬのは仕方なき、と鎌倉党の六浦五郎は言う。
六浦の風車を作ったのが彼だった。
「知らせを鎌倉に送っておりますれば」
明日には迎えの来ましょう、と六浦五郎は明るく言う。大きな舟が出払っているのだという。
小さき舟で送れば良かろう、と言うと、有り得ず、と六浦五郎は断言した。
アキラが攫われてから、世間ではいろいろあったらしい。
まずアキラに常陸の相撲人を殺した容疑がかかったらしい。殺して逃げたと思われたらしい。つまり、公侯有常は殺されたのか。
しかし、証言するものがあって、信太の者、それも上総下総の息のかかった者にアキラが攫われたことが明らかになると、事の雲行きは一気に変わった。
足利はすぐにアキラを解放するように平忠常に要求したが反応は無く、次いで武蔵と相模の国司それぞれの正式の要求が平忠常に突き付けられた。それでも反応は無し。
そうして遂に平忠常に、都に来て状況を説明するよう要求した太政官符が発給されることになったという。
それが数日前の話らしい。
アキラは、六浦五郎と安房国司にこれまでどうしていたかを説明した。
常陸の健児に混じっていた信太の者に裏切られ、犬丸を逃がし、大物部季通を殺され、いすみの上総国府なるところに閉じ込められる経緯を残らず話す。
助け出してくれた者の素姓はぼかす。疫座の者もだ。山をさまよって安房に出たと、アキラは話を締めた。
アキラの話は残らず国司の家司に書き取られたようだ。大きな国印がそれに押されると、なるほどこれは正式な文書になるのだと気が付いた。安房国司という第三者の取り調べによる報告書になるのだろう。
それが終わると急にくだけた雰囲気になった。さぁ夕餉、酒でも、ということになって待っていたが、いつまでたってもアキラの分の膳が出てこない。
「雑色の一人姿見えぬ」
そう聞いて、六浦五郎とアキラは目を合わせた。
「盗賊の手引きの者にありましょう。いつから雇われたか」
聞けばやはり最近の事だ。しかし国司屋敷を盗賊が襲うだろうか。ここには六浦五郎とその郎党がいるのだ。
「目当ては目代にありましょう」
六浦五郎は断言した。
郎党たちが弓を持って駆けていく。
「国司と目代は塗込めの奥に」
六浦五郎は戦支度をしながら言う。しかし、アキラは何かが焼ける匂いを嗅いだ。
「焼き討ちぞ」
声がする。
冬の乾燥した時期は焼き討ちには最適だ。何もかもが瞬く間に燃え広がる。
「外に。火に巻かれば危うき」
アキラは国司を促して外に出る。
庭に、燃える軌跡を描いて火矢が降っている。アキラは文机を頭上に掲げて国司を庇い、庭に走り出た。
「火矢なぞ、そう当たりはしませぬ」
そう言う端から、ズトンと衝撃が文机にかかる。火矢は文机に弾かれて足元に落ちる。
恐慌をきたした国司を抱き掴み、アキラは周囲を見渡す。
屋敷の檜皮葺き屋根に火が廻り始めた。火矢が終わり、正門のほうから騒がしい音が聞こえてくる。
相当な軍勢が攻め掛けてきているらしい。
「裏手はいずこにて」
文机を抛り捨て、国司に聞く。しかし、
「国印の無き」
えっ、まさかあの屋敷の中か。確か袋に入れて、それから。
「いずこに」
火の廻りかけた母屋から取ってこようとアキラが覚悟したそのとき、国司の家司がやってきて、国印はここに、と告げてくれた。持ち出してくれていたようだ。
そのまま裏手に廻る。
「太刀なぞなきや」
誰も持っていない。アキラは足元の石を拾う。
裏手には門など何も無かった。
「早くに言うてくだされ」
アキラは薪小屋を押し倒し、築地塀の上への足がかりを作る。
築地塀の上に登る。塀の上はガタガタだ。塀の向こうは暗いが、どうも畑らしい。
「さあ登られよ」
手を引いて塀の上に国司と家司を登らせる。アキラは塀の向こうに飛ぶ。
暗闇の着地は当然うまくいかない。畑の上を転がる。足を折ることが無かったのが幸いというところだ。烏帽子はどこかに行ってしまった。
すぐに塀の下に寄り、降りる手助けをする。頭と肩を踏ませ、脇を掴むと畑に下ろす。
「浜はあちらにて」
家司の指差す方向、遠くに海面が見えた。
そして、松明を掲げたいくつもの舟が。
・
舟を連ねてやってきた鎌倉勢が上陸すると、戦況はすぐに変わった。
国司屋敷を襲撃した軍勢の残りが逃亡し、残された敵の遺体の装備を点検していた武者が言う。
「印旛六郎為春とシコロに」
シコロとは兜の首のあたりだ。ずいぶんと判りやすいところに名前を書いているんだな。
調べが続く。
「印旛とは下総の郷にて」
「忠常の手のものか」
「太刀に金被せる盗賊がいるとは思われませぬ」
安房国司が六浦五郎に言う。
「国庁を焼くは朝廷に弓引くことぞ。
平の忠常の叛きし事、急ぎ都に伝えねばならぬ」
#91 平忠常の乱について
平忠常は万寿4(西暦1027)年末、安房国司を焼き殺します。平忠常の乱の勃発です。
この報を受けて翌万寿5年(1028)年に朝廷は平直方を追討使として任命します。この時の平直方の官職は検非違使、つまり六位です。追捕ではなく追討である点など重大な任務である筈ですが、改めて6月になるまで何も起きませんでした。
そのうち上総国司は国内での平忠常のふるまいについて朝廷に報告します。いわく国府は平忠常に掌握され国人は国司の言う事を聞かず、国司の館は平忠常の従者に蹂躙され、国司の郎党は乱暴されたと。はやく追討使は何とかしてくれという内容でした。上総国司は厩舎人を使って都と連絡をとっていましたが、家族を上京させるのが困難だと言っています。
ここで改めて追討使に平直方と中原成道を任命、東海諸国に追討使を助けるよう太政官符が発給されました。中原成道は平直方と同じ検非違使ですが明法家、つまり法解釈が専門でした。ここで中原成道は九か条の申文を提出しています。しかし右大臣藤原実資はうち三か条のみの内容に改めさせた上で全て駄目だと返答しました。対して中原成道は様々な病状を訴えるようになります。藤原実資はこれを任をを逃れんための仮病と最初からみなしています。
改元されて長元元年の8月に入ると平忠常の関係者が都で様々な接触を行うようになります。平忠常は釈明する内容と見られる様々な書状を都の関係者に託した筈です。
しかしこの運動は成功せず、そしてようやく追討使は都を出発します。陰陽で吉日吉時を選び、見物人まで出た上での出発ですが200名ほどの小勢でした。
この頃、平忠常は上総の伊志みの山に二~三十騎ほどと籠もっていると、平直方の使者は言っています。
しかし一行はさっぱり進まず、10日経ってもまだ美濃にいるなどと噂になります。更に中原成道は母が危篤だから都に戻りたいと上申しています。平直方と中原成道の不仲を藤原実資は疑っています。
そしてこのまま恐らく何の成果も無いまま、翌年二月に改めて太政官符が発給され、更に直方の父である平維時が上総介に任命されます。それでも状況に変化は無く、その年末に中原成道は解任されます。翌年には新任の安房国司が平忠常に追われて都に逃げてきます。
長元三(1030)年6月の平直方と平維時、それと武蔵国司の報告によれば、平直方はずっと戦っており、坂東諸国の協力を命令する太政官符の給付を求めています。平忠常の居場所はわからず、しかし藤原兼光が平忠常に協力しているのではないかと疑っています。
同年9月、平直方は追討使を罷免され、源頼信が代わって任命されます。源頼信は前年に甲斐守に任命されており、翌年更に源頼信は従四位下に叙されました。
長元四(1031)年3月頃、平忠常は出家姿で二人の子供と三人の郎党を伴ったきりで源頼信のもとに姿を現します。こうして3年以上に及んだ大乱は終結しました。正式な降伏は翌月に正式な書類で行なわれています。
5月頃平忠常は病に倒れ、6月に美濃で平忠常は死んだと報告されました。
平忠常の乱がそもそも何で起きたのか、詳細は全く判っていません。平忠常は源頼信が常陸国司であった時代に対立していますが、今昔物語集の記述によれば平忠常は香住の海の舟の運行に関して、常陸側まで含めてほぼ掌握していたことになります。源頼信と対立した理由も、常陸国側での平忠常の活動にあった筈です。
平忠常は同様に国境を越えて安房国にも勢力を広げていたものと思われます。考えられるのは同じように水上交通の支配でしょう。ただそれだけでは例えば源頼信と対立しなかった筈なので、田地支配も絡んでいた筈です。
ここで考えるべきは疫病です。源頼信との対立前には長徳四(998)年の麻疹の流行が、同様に平忠常の乱の前には万寿二(1025)年の風疹の流行がありました。こうした疫病は住民の逃散を招きました。平忠常の田地支配は徴税代行、名主制ベースのものだった筈です。恐らく国衙側の徴税と対立することも多かった筈です。
疫病後、徴税困難な状況で徴税しようとした国司との対立があったものと想像されます。この年、安房国司は任期の四年目、受領は任期の最終年に根こそぎ任国から財を奪うことで悪評がありました。そしてこの万寿二年の疫病では、徴税免除の勅令は出なかったのです。