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#89:1022年11月 常陸

 陸奥国菊多郡の郡司代はアキラの隣で、ここで三十人死んだと呟いた。

 眼下にはゆるい台地の谷間が続いている。向こうは常陸だ。


 合戦は先月行われた。


 長らく常陸勢に蹂躙され続け、果てに占領された菊多郡南部の郷、窪田には入植者らと共に城館が建設されていた。

 城館に立て籠った武者たちは菊多郡司を自称し、郡司の交代した旨を陸奥国庁に送り付けさえしていた。幸いそんなふざけた通知は間違いだと明らかに出来たが、一歩間違えば郡ひとつ乗っ取られていたかも知れない。


 幸い陸奥国司にもこの陸奥南部の紛争、いや侵略されているという現実が飲み込めたようで、アキラたちは代理としてこの紛争を解決することを請け負った。

 金百両と引き換えにアキラたちは、この菊多郡の入合権、陸奥沿岸の開港入植権、そして奥州押領使の任命を受けることに成功していた。

 今や源の頼季様は奥州押領使、逆らうものは賊であり、これを撃ち滅ぼすことは堂々の朝意なのだった。



 まず先々月、頼季様と足利勢、益子勢からなる勢力が菊多郡入りし、そして早速、窪田に作られた城館を方梁で焼き落とした。

 収穫前の時期に城館、そして倉を焼かれた常陸勢は常陸国内に助けを求めた。


 しかし頼季様の手勢は手早く国境を封鎖した。予め集積しておいた物資を使い、菊多の国境の関を再建したのだ。

 これら物資は夏頃から地元の勢力を動員して運んでおいたものだった。元々ここは彼らの故郷である。裏道まで知り尽くしており、封鎖は完璧だった。


 常陸の軍勢がやってきたのが先月のことだ。

 彼らは関所を焼こうとしていた。となると使うのは火矢、矢を射るのは武者で騎乗して近づくことになるだろう。簡単に予測の付くことだ。

 常陸の軍勢の多くは近郊から動員された歩兵で構成されている。彼らの動員がこの侵攻の遅れた原因だろう。そもそも農繁期である。歩兵たちは一刻も早く帰りたくてうずうずしていた。

 それを統率しているのは少数の騎馬武者だ。


 その騎馬武者がいなくなればどうなるか。

 関所に続く谷の左右に、足利の弩兵が伏せられていた。彼らの着る草木染は季節に合わせて枯草色を強くし、笠にも枯草を載せていた。

 常陸の騎馬武者たちが薄明の頃、火矢を放とうと関所への谷間の道を進んでくる。

 合図とともに、常陸の武者たちは十騎ばかり、弩の矢で針鼠のようになった。


 その日から、強弩による武者狩りが始まった。

 野の真ん中、半町四方に誰も居ないのに、どこからか飛んできた矢が騎乗した武者を射殺す。

 三人が殺されて、常陸勢は馬に乗るのをやめた。馬に乗ると遠くから目立ちすぎる。

 そこに足利、益子勢の騎馬武者が関所から突撃してきた。鍬の前立てに銀の大袖をきらめかせた騎馬武者たちに、常陸の武者たちはさんざ打ち負かされた。

 常陸の武者たちが皆逃げ失せると、歩兵たちは次の日が昇る前に戦場から消え失せていた。


 城館に立て籠っていた郎党は次の日降伏した。

 菊多の全域が郡司代の支配下に戻り、菊多関は陸奥国の管理するところとなった。


「ここを勿来(なこそ)の関と呼ぼうぞ。もはや二度と常陸の兵通さぬ」


 菊多郡の郡司代は強く宣言した。


     ・


 既に上野の炭掘りと火工の学生が菊多郡の山中に入って、石炭があるか調査を始めていた。彼らはすぐに、川の流れがえぐった崖に石炭が露出しているのを発見していた。


 アキラは上野の粉炭需要の増大に焦りを覚えていた。

 上野の養蚕富農たちがこぞって粉炭を燃料にして蚕室長屋を暖房しはじめたのだ。新造された長屋の構造は、足利屋敷の煉瓦を多用したものに明らかに影響を受けていた。

 更に蚕の卵を保管する氷室を持つところも現れていた。蚕の通年飼育が可能になったのだ。絹生産の規模は爆発的に増大しようとしていた。

 この需要を満たす燃料が必要だった。


 目論見としてはおよそ半分、うまくいったというところだろう。

 残り半分は、思わぬ裏切りで失敗していた。


 手元に手紙がある。

 平良衡からの詫び状だ。奴はいつの間にか、従五位能登守になっていた。


 本来の計画はこうだ。

 常陸小掾というのも分類上は立派な国司である。国司常陸介である平維衡が常陸に結局赴任しないことが明らかになり、そこで常陸小掾である平良衡にアキラを目代、頼季様を常陸押領使として任命させようという計画が持ち上がった。

 あとは力づくだ。上総下総の平忠常と揉める恐れのない北から、軍勢と共に国府を占領し、常陸の経営権を力づくでもぎ取る。

 この軍勢は単なる常陸内の賊徒鎮圧のためのものであり、頼季様もアキラも常陸の官史である。それに鹿島とも既に話が付いている。

 これは全く正当な行為だ。


 ……そらぞらしいにも程があるが、この程度でひっくり返せるほど常陸大掾平維幹の勢力は弱っていると分析されていた。彼らは平忠常の軍勢に小貝川の東岸まで押されていたのだ。彼らの背後にはもう防衛線は無い。


 さて、肝心の平良衡が常陸の在庁では無いことになってしまったら。

 これら計画は全て終わりだ。


 そりゃ、平良衡の気持ちはわかる。いきなり受領にと言われれば飛びつくのもわかる。だがそれが罠だと何で気が付かないのか。

 能登というのは各国を上中下で分類すれば中の下、なかなかランクの高い国なのだが、人気はもっと高ランクの国に集中する。

 つまり魅力的なのだが、こういう国の受領と言うのはちょっと貢げばちょろく手に入る職なのだ。対して常陸は違う。常陸の受領と言えばとほうもない財を誇る大身だと皆考える。実入りが全く違うのだ。

 そしてその財力が有れば、自分の国の国司を別の国の国司にしてしまうことも出来る。


 頭の中でさんざん平良衡を罵倒しながら、アキラは困難になった次の手を考える。


 上総下総包囲網の計画は泡と消えた。

 現在進めているのは安房侵攻計画、とはいっても物騒なものでは無く、安房の国司や郡司を懐柔しながら勢力拡大を狙う、地味な計画だ。これは主に鎌倉側が担当し、順調に事は進んでいるらしい。

 既に安房では測量や行われ、様々な物品が流入していた。逆に暖かな気候の安房の産物も海を介して関東各地に流通するようになっていた。三角帆の普及のおかげだ。



 上総下総を経済的に追い詰めるのは難しい。

 上総下総は塩にも米にも困っておらず、良質の絹と麻を生産していた。特に麻布は望陀布と呼ばれる高級品が生産されていた。

 牧も多く馬も多い。鉄も砂鉄として大量に採れた。問題になるとしたら燃料不足くらいだが、房総半島が禿山だらけになるにはまだ時間がかかるだろう。

 最近は商業製品もいくらか見るようになっていた。下総製の醤油は利根川と太日川、常陸川流域に販路を広げつつある。清酒も造っているようだ。


 傍に立つ行商人姿の男に聞く。


「下総の武者塚という代物、数は幾つほどか」


「知っておるのは三つ。何れも大小便混ぜて常陸武者の屍それぞれ百は埋めたると聞く」


 いつぞや、放生会の夜に足利の偵察に来ていた男だ。

 菊多の城館から投降してきた者たちの中に紛れていたのだが、顔を覚えていたのでスカウトした。今度はアキラが間諜として使うつもりだ。


 しかし何だかなぁ。

 転生者、か。


 漫画の読み過ぎだとアキラは思った。

 硝石の製造か。真面目に継続的に硝石が欲しければ、厄介事の多い死体を使うのは避けたい。

 プロセスに本当に必要なのはアンモニアとこれを分解する硝化細菌、そして細菌の繁殖を支える温度だ。これはし尿処理の基礎でもある。水生動物飼っていれば硝化細菌知ってるよね。

 硝石は尿のアンモニアで作るのが一番面倒が少ないだろう。ただ、最近アキラは別口で硝石らしきものを手に入れていた。とはいえ少量である。



 しかし、転生者がいるとすれば腑に落ちることが多い。しかもアキラには工学の水準で及ばないらしい。実に安心できる話である。

 この転生者が火薬を作ろうとしていたなら、勿論硫黄も集めているに違いない。しかし硫黄なんて何処かに売っている訳ではない。自分で、もしくは代理人が集める必要がある。注意が要るだろう。


 問題は鉄砲だ。

 アキラは鉄砲をこの時代問題外だとみなしている。今なら鋼が安定して得られるようになり、アキラもちょっと試してもいい気にはなっているが、それ以前の砂鉄を還元しただけの鉄で鉄砲を作ればどうなるか、あまり考えたくない。

 そういえば、戦国時代はどうやって鉄砲作ったんだろう。


「塚はどれか見たか」


「一つ見たが、草の長く生えたるにて」


 そりゃそうだろう。硝酸はすてきな肥料だ。今頃硝酸はみな窒素に分解され、雑草たちがすくすくと育ってそれを消費しているに違いない。

 しかし、この間抜けさは塩の供給統制で見せた冴えとは別物にも思える。それに加えて陰陽だ。一体何なんだ。何かの伏魔殿か。


「では行くぞ。絹七反忘れるな」


 行商姿の間諜は背中に長箱を担ぐ。


「良き知らせあらば、もっとくれてやる。

 では、春先に足利で会おうぞ」


「わかっておる。陰陽、醤、いくさ支度、分かっておる」


 男は手を振って関所から旅立っていった。


    ・

 

 その三日後、待っていた使者が来た。


「兄背の来られたか」


 捕虜の一人、公侯常材(きみこのつねもと)が言うには、使者は彼の兄、公侯有常(きみこのありつね)だそうだ。

 すごく体格がいい。身長はアキラと同じほどか。公侯有常は国衙健児(こんでい)の長であると同時に、常陸の相撲人(すまいびと)でもあるという。

 直垂が良く似合う。彼は相撲人として都勤めの長かったエリートなのだ。


 常陸には在庁の兵、受領の兵、そして国衙健児の兵の三種がいるという。

 一番多いのが在庁が自分の地元で養っている兵、一番少ないのが受領の兵、そして精兵だが騎馬も大鎧も持たない、そしてさほど多くもない古風の歩兵が国衙健児の兵だった。

 彼らは源頼信殿に従って従軍したこともあると公侯常材は語った。平忠常に対して討伐軍を出した時の話だ。

 彼らは職務には忠実だが、受領にも在庁個人にもさほど忠誠を誓っている訳ではない。故にうとまれ、こうして僻地でほとんど侵略行為に従事させられる羽目になっていたのだ。


 約束通り捕虜を解放する。ただ実際にはうち公侯常材を含む数人は早いうちに客人待遇で扱っていた。事情の分かってみれば同情する境遇である。


 アキラと犬丸、そして大物部季通の三人は、公侯有常と健児の護衛を伴って、常陸国庁へと出発した。公侯常材は人質としてここに残ることになる。


 目的は和平の実現だ。

 この和平が成立すると、足利勢が信太郡に常駐して、下総と常陸の間の中立緩衝地帯として機能することになる。信太の収穫は足利勢の管理のもと、常陸に納税される。

 足利勢としては特に旨みの無い提案だった。しかしこれで信太の平和が実現できるだろう。


     ・


 道は陸奥の山道を縫って続いていた。

 流石に北茨城のこんな場所は土地勘はおろか地名も知らない。水戸までどのくらいあるのか、もっともこの時代に水戸は無いだろう。国庁は更に南にある筈だ。何せ香取の海、霞ヶ浦の沿岸にあるというのだから。

 海沿いを通るのだと思っていたのだが随分と違う。


「山中で何ぞ歌でも聞こえても、合わせて歌われるな。魂奪われると聞く」


 そんな奇妙な注意を公侯有常から受けるが、他人の歌に合わせるなんて自分には出来ないからそんな心配は無用だ。

 そんな道も夕方には浜辺に辿り着く。その日は漁師たちの村に投宿した。


 寒々とした家の中、寝転がり耳を澄ませると、遠くに荒々しい波の音が聞こえた。


「この任にて吾に働き功あらば、足利に行こうぞ」


 横に寝る大物部季通が、小さな声で言う。

 そうか、ようやくかつての仲間たちと会う気になったか。

 アキラは、よし、と小さな声で応えた。



 翌日もまた道は山へと向かう。

 要するに川を避けているのだ。騎乗しているアキラたちと違い、健児の兵は徒歩だ。冷たい川の水はそれだけで障壁なのだ。

 この辺りは集落は海岸沿いにしかないが、道は内陸を通すしかないのだろう。

 寒風の中を一行は進む。


 やがて道は律令制のもとに作られたとおぼしき、真っすぐなものに変わる。

 勿論、荒れ放題だ。路肩は崩れ枯れ草に遮られ、道の一部は森と化し、川が削ったあとはどこを通ればいいのかもわからない。


「この辺り盗賊多きゆえ気休められるな」


 公侯有常が言う。

 あの疱瘡禍も終わって久しい筈だが、ここ常陸ではいまだ郷村は荒れ果てたまま、逃散して戻って来ない者も多いという。


 久慈川を渡ると平坦な土地が眼下に広がる。常陸が豊かな国だと言う事がようやく納得できるようになる。

 とはいえ、その平野の多くはまた台地と森、沼地だ。

 那珂川を渡る。那珂川の上流は下野の那須に続いている。この川が水路として使えれば。


 那珂川のほとりに宿をとると、翌日は小雪の降る中、常陸国庁に辿り着いた。

#89 兜と前立について


 兜の前立てのうち、鍬形だけは一つだけ飛びぬけて起源が古く、平安時代末期まで遡ることが出来ます。それから長い間、兜の前立ては鍬形があるか無いか、それだけでした。

 鍬形の起源はよくわかっていません。そもそも何を意味するのかも不明です。大鎧の起源を衛門府とする説には鍬形の付く余地はありません。現存する鍬形の最古のものは12世紀のものとされています。

 鍬形には先の開いたものと閉じた(高角打たる)ものの2パターンがありました。古い鍬形には金物が途中で屈曲しているものが見受けられます。この特徴から鍬形が鹿角の模倣であると云う説があります。面白いのはアイヌに伝わる鍬形の宝器にも根元に近い位置ですがこの屈曲が認められることです。

 室町時代になると鍬の真ん中に剣型の三本目を立てるものが出てきます。これも元は三叉鍬を模したものかも知れませんが、剣を立てるバリエーションは更に他のものを立てる可能性を広げることになります。


 源平盛衰記には兜は甲と書かれ、白星、三枚甲、五枚甲、甲の鉢弓、鍬形打たる甲、と各種の兜が描かれていますが、この中に那須の与一の兜として、鷹角反甲という描写があります。これが本当なら鷹角、つまり鹿の角を兜に飾っていたことになります。

 この部分は平家物語では”たかのはわりあはせて、はひだりける、ぬためのかぶら”と、鏑矢の描写になっています。

 なお、源平盛衰記では屋島の戦いで小林神五宗行という武者がその著しい働きにより義経より銀にて鍬形打たる竜頭の甲を賜っています。これは源為朝由来の兜だとされています。実のところこの時代の竜を飾った鍬形の兜は現存が知られていないので、本当ならこれは貴重な証言です。

 三枚甲と五枚甲はおそらく兜の後ろに付けるシコロの枚数でしょう。兜は複数の剥板と呼ばれる鉄板を鋲で留めて作られますが、この剥板枚数は五枚、十枚、十四枚などがありますが三枚というものは知られていません。なかには一枚の鉄板から成型したものも存在しますが、筋板と言う補強板を付け鋲を打つと他の兜と変わらないように見えます。

 兜の材料として革製のものも存在しますが、作中年代だと全て鉄製です。

 白星というのは鍍金です。金メッキ、銀メッキ双方あったようですが、銀メッキのほうがメジャーです。兜全体の鍍金ではなく部分鍍金で、剥板を互い違いに鍍金する事で筋と呼ばれる縞模様を作るパターンが多いです。


 源平盛衰記の成立年代によっては那須与一の兜という変わり兜の元祖的なものが認定されれ、また鍬形に竜を飾るのもその時代まで遡ることができると考えられます。ただ、源平盛衰記も平家物語のほうも鎧兜の描写はあまりアテにはなりません。異本によっては三枚甲であったり五枚甲であったりバラバラです。

 平家物語の解釈本では、鷹角反は鍬形の先の閉じたもの、高角打たると書くべきものであると書くものもありますが、これもどこまで信用して良いか判りません。また鷹角反が古風の金物屈曲を指しているという考え方もあるかも知れません。

 冑もまた兜を指す漢字なのですが、冑が意味するタイプの兜は史上早いうちに使用されなくなりました。

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