表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
88/111

#88:1022年7月 裏幕

 真夏の遮るものの無い陽光を、新たに舗装し直されたばかりの白い玉砂利の道が反射している。遮るべき街路樹である松葉はまだ根付いて二年、ごく頼りなく道の向こうに揺れていた。

 

「暑き」


 馬車からあずさ殿の声がする。

 彼女は屋根の日陰と簾の中で、馬車の隣、日なたに立っているアキラとは感じている暑さは全く違うだろう。この滝のように流れる汗を見てくれ。

 御者に合図すると馬車は歩く速度でゆっくりと走り始めた。


 玉砂利は太日川の上流で製造したものだ。機工の学生にプロペラ水車を作らせたのだが、とりあえず使い道が無かったので、鉱山の採掘で出るガラを容器で廻して玉砂利にするのに使っていた。

 本当は発電機に使いたかったのだが、まだ磁石が弱すぎて発電機が作れない。


 馬車はすぐに煉瓦敷きの街路に出た。道幅四間というのは都の小路と同じ広さに過ぎないが、この東国では堂々の大路だ。道の脇に側溝と歩道を設けているのは都と同じだが、街路樹を設けているのはちょっと違う。


「朱雀大路の如し」


 朱雀大路は柳が街路樹として植えられているんだったっけか。しかし実際の都のそれは歯抜けであちこち草むらに埋もれた姿で、街路樹として認識できない姿だったことをアキラは思い出す。


 馬車は屋敷の堀に沿って進む。もう新屋敷ではない。旧屋敷をまるごと学校にしてしまったためだ。いまや学生数は百人を超え、一部学科はカリキュラムを二年に延長していた。

 今の足利は清水川の南に広がる新たな商戸と、北の学戸に分かれて拡大を続けていた。

 屋敷の道路を挟んで向かいに、やがて煉瓦の倉庫が見えてくる。銅銭が普及しはじめたこの東国でも、結局は米本位制経済であることは変わりない。富を蓄積しはじめた足利の商業者たちは煉瓦でできた不燃倉を競って立てていた。


 馬車は辻、いわゆる十字路に出る。北東から南西へ延びる交差路もまた幅四間の煉瓦舗装だ。

 南には大日川に架かった大橋が見える。北の清水川に架かった筋交い橋はそのうち架け替えられることになっていた。この道の延長線上、更に北東には新寺があり、これが鬼門鎮護となっている。

 辻の向こうにあるのは掲示台、国府や郡代の令や告を掲げるボードだ。アキラはこの台の上に時計台をつくる構想を披露したことがあったが、屋敷の皆にはさらりと無視されている。


 平日の路地は人で満ちていた。道の左右に並ぶのは宿屋と商店、二階建ての奴はなんとまぁ遊女宿だ。遊女宿は裏通りの太日川沿いにも並んでいる。川を眺めながら遊ぶのだという。

 この通りの最大の問題は行きかう馬の落とす糞だった。あずさ殿が馬車を主に使うのも主にこのせいで、町に住む者たちには馬の糞を踏んでも良いよう下駄が流行りはじめていた。

 糞の回収は道路の掃除を含めて散所の流人たちのうち、身体に障害があって他の労務が難しい者たちの仕事になっていた。彼らは牛馬の糞を集めて肥料にして、百姓に売って小銭を稼いでいた。


 君子部三郎によれば、この道端で糞をする者も多いという。


「あれら、厠というものの分からぬのやも知れぬ」


 君子部三郎は一人でこの町の治安を担当していたが、そろそろ増員してやったほうが良いだろう。検非違使の如きものと言っておだてて任に付けた訳だが、最近は明らかにオーバーワークだ。

 常住人口は既に千人を超えている。季節労働者となるとその倍にもなる。

 冬の間足利はいっとき二千人以上の人口に膨れ上がっていた。その頃の常住人口は今の半分より少し多い程だったかと思う。今年の冬は五千人にまで膨れ上がることを覚悟していた。


 馬車は裏通りの一つに入る。とたんに道は舗装されない土剥き出しのものになった。

 この辺りは宅地で、築地塀が左右に並ぶ。築地塀か植木塀かどちらかの許可制としていたが、皆築地塀しか選ばないようだ。植木がそもそも馴染まないのかも知れない。


 しばらく走ると太日川沿いに出る。少し上流に、足利屋敷の別業、すなわち別荘が建っていた。

 この別荘は川向こうをいわば極楽浄土に見立てたもので、中央に舞台と、その正面に観客席となる母屋や西の対、背後に下屋という構成となっていた。東側は意図的に開けていて、斜面になったそこから誰でも自由に舞台を観ることができる。

 要するに小さめの劇場である。


 この劇場、実はアキラが音頭を取って作ったものだった。

 理由の一つは、識字率の低さだ。何を広めようにも識字率の低さが障害になる。

 ならば喋るしかない。できれば大勢に向かって喋るべきだし、たとえ話や身振りで話を分かりやすくしたい。そうなるとこれはもう演劇である。


 しかしこの時代、演劇は存在しない。あるのは歌に踊りだ。

 一番演劇に近いのが傀儡子舞であり、アキラは傀儡子の一座を招いて定期公演を行うようにした。この一座は足尾にも出向いてくれるので有難い存在だった。

 さて、人形劇ではなく人間が演じる方法はどうかと考えるものが出るのも、これはごく自然な流れだろう。


 さて、ここに演劇に取り憑かれた人物が一人。平の貞長殿、あずさ殿の兄背、次郎殿である。

 元々踊りや管弦を好まれると聞いていたが、傀儡子一座と意気投合して最初は歌や踊りを教わっていた筈が、人間が演じる人形劇をやろうと今や凄く盛り上がっていた。

 最初は人形劇をそのまま翻案していたのだが、アキラがまず例の「郎身王と朱里姫」を劇に翻案、というか元の形式に戻し、次いで提供したのがヴェニスの商人の翻案である「安桃院」だ。

 今日はその内輪向けの初演である。


 が、来るのがちょっと早かったようだ。

 舞台には誰も見えない。

 馬車を裏手に廻し、渡り廊下に付ける。馬を外すと御者は馬を繋ぎに行った。


武蔵(あずさ)の方、いかがされた」


 馬車から出てこない。少しあって、


「目代は、いかな人ぞ」


 どういう意図の質問だろうか。


「この通りにて」


「そのような意味に違いて」


 御簾が捲り上げられ、良く寝ているネ子を抱いたあずさ殿が、身を乗り出した。


「まことに、人か」


「鬼ではなきゆえ」


「鬼にあらずとすれば、吾子は何ぞ。宋の人か」


「生まれは筑紫にて」


「空言にあろう」


 あずさ殿の声が大きくなって、ネ子がむずがる。

 

 蝉の声が聞こえる。


「まことのところ、知りたき」



「……まこと知る、覚悟はおありか」


「……何の意ぞ」


 しまった。この時代、覚悟と言う言葉は意味が違う。


「未来においては覚悟の語は今の意味と違い、苦難のあることを予め悟ること意味します」


 言ってしまおう。


「吾は未来、千年後より来ました」


          ・


 夕方の涼しい頃、劇は開演した。



「ただ一つ、こう御証文に付け加え頂きたく。

 もし来年この日までにお返し無ければ、その時は安桃院、御坊の身体からどこでも十両、この六条の望むところより肉切り取り与える、と」


「ああ、まさか、さような御証文なされたのか」


「そう、そして昨日、本寺の船の、筑紫で沈み、全て失われたと」


 元と話の筋は同じだが、背景はかなり弄っている。

 ユダヤ人の金貸しは、大荘園を持ち私出挙で容赦なく財を蓄える貴族、六条の中将、これに金を借りて破産し、自分の肉で負債を返す羽目になったキリスト教徒の商人は大寺の別当、安桃院だ。

 安桃院は利息を月に二十分の一ではなく年に二十分の一で貸す極めて良心的な金貸しであったが、大寺の再建の為に宋に交易船を出そうとしていた。しかしそのための金の工面に困り、六条の中将に借りようとして、先程のセリフとなった訳だ。


 その先も勿論翻案してあるが、大事な点は法廷というものの教育であり、法は曲げられない、万能で強力なものであるという印象付けだった。

 その上で、血を流すことなく安桃院から肉を切り取らねばならなくなった六条の中将が、御仏の慈悲で改心するところで、高利の貸し付けは悪で、しかし年5パーセントの利子なら大丈夫だという暗黙のメッセージを伝えなければならない。


 ディティールに関しては弁徴法師にも協力して貰っていた。

 しばらく前にアキラと弁徴法師との間では、倫理教育について大激論をやっている。儒学のエッセンスをちょっと入れたいというアキラに弁徴法師がキレたのだ。

 とはいえ最終的には弁徴法師もすごく積極的に協力してくれるようになった。便法という言葉は便利である。


「何か踊りか歌か欲しき」


 隣で次郎殿がつぶやく。冷静な意見だ。大衆受けを考えれば歌や踊りが要る。

 うん、突然踊らせても良い気がするな。


「文行殿にもお見せしたき」


 文行、一体誰かと考えて、ようやく思い当たった。藤原の文行、藤原の兼光の兄だ。

 しばらく前に都から一家で地元に戻ってきたが、在庁仕事をする訳でも無く、どこかに引き籠っているらしい。


「どこにおられるか、ご存じで」


「岩舟山の麓の寺に居らる」


 押し込められておると見えたが、つい先の日、兼光殿と狐狩りしたと聞いた、と次郎殿の話は続いた。

 どうも次郎殿、藤原文行とのルートを持っているらしい。下野の藤原一族とフランクな付き合いをしていた次郎殿には様々な伝手があるようだ。


「目代にも会いたきとの事よ」


 会えるのなら会いたい。


「吾もお会いしたく。居られる所に出向けば宜しいのか」


 次郎殿は渋い顔をした。


「やめよ。押し込められておるのよ。表向きはそうではないが」


 閉じ込められているというのは何故だろうか。勿論権力争いが原因だろうが、誰と争ったのか。


「では、どうすれば」


「何か時節都合を付けねばなるまい」


 吾には思いつかぬが、と次郎殿はその辺りはアキラに丸投げのようだ。


「文行殿を押し込めおるのはどなたぞ」


「それは勿論、正頼にあろう」


 長であるからな、と次郎殿は言う。

 そうか。藤原の正頼、簗田郡の郡司、確かに藤原の兼光の長男だった。


         ・


 それからしばらくして、上野国邑楽郡からの帰りにふと思い立って、簗田に正頼殿を訪ねてみようという気になった。

 何でも本人に問いただしてみるのが一番手っ取り早い。

 雨の中、犬丸を郡司屋敷に使いに送る。


 簗田は太日川沿いの豊かな郡だ。既に多数の大学出身者が戻って仕事をしている。

 その一つが、釣り針だった。


 釣り針は簗田の深川郷の郷長の子が熱心だった仕事だ。質の良い鋼鉄はこれまでになく細い釣り針を可能にしていた。彼は釣り針の開発に夢中だった。上野国司、藤原兼貞殿に贈ったのも彼の釣り針だ。

 新しい釣り針に絹糸を使い、棒浮きを組み合わせ餌にミミズを使うと、これが面白いように釣れるという。


 最近簗田郡から釘の注文が多いと思ったら、実は釣り針の原料にしていたらしい。

 建造ラッシュかと思っていたが全く違った。隠したいのか。


 見回すと、雨の向こうに大きな建物の影が見える。

 犬丸が帰ってきた。


「郡司はおらぬとの事」


「何処に行きおるか訊いたか」


「安蘇の太田と」


 ふむ。藤原兼光の屋敷か。


「少し、向こうを見てくる。ここで待っておれ」


 建物を指差すと、犬丸は大人しくうなづいた。


 畦道を歩いて近づく。稲はまだ青いが既に稲穂を重く垂れていて、その間を進むアキラを濡らす。


 ふと、うなじに何かが這い上がるのを感じた。

 生暖かい雰囲気が、顔のすぐ先に渦巻く、そんな予感がする。

 覚えのある感覚だった。悪夢の感覚だ。これが呪いなのか。

 

 石川法師に習った反閇(へんばい)を試す。胸の前で九字を切り、足運びは九歩、右足を前に出し、左を更に前、右を並べ、今度は左を前、右を前、左を並べ、


 馬鹿らしいと思った陰陽の術だが、試すとさっきまでの嫌な雰囲気が消えているのを感じた。

 気分だけなのかも知れないが、何か効果があったのかも知れない。


 更に建物に近づく。

 

 体育館くらいの大きさに見えた建物は、実際のところそこまで大きくなかった。トラスの三角屋根を重い茅葺きにしている。

 建物の窓は(しとみ)を上に跳ね上げるタイプで、外から内がよく見渡せた。


 金属を叩く音がする。数人がハンマーを振り上げ、その成果を別の数人が取って次の数人に渡す。ここでまた金槌が振るわれ、更に次に渡される。

 その先には砥石轆轤(ろくろ)が廻り、製品を研いでいるらしい。更にその先には燃える火床がある。焼入れをしているのか。


 ここが釣り針工場で間違いない。

 工場だ。分業、流れ生産だ。


 どのくらい生産し、出荷しているのか。しばらく眺めてアキラは一日の生産量を百本ほどと見積もった。関東、いや、日本全土に出荷できる生産量だ。

 多分一本の釘から五本は釣り針を作れるだろう。百本作るのに釘20本、原材料費米四斗として、多分釣り針は一本半斗で飛ぶように売れる。利率は素晴らしいだろう。


 ここで何かが起きている。

 陰陽のまじないの使われているらしいのも気に食わない。

 多分、それは直視したならば一つの答えになるのではないか。

 不吉な思いがアキラの内側に湧き上がっていた。

#88 履物について


 この時代、人々は基本的には裸足でしたが、様々な履物も同時に使用されていました。日本に現れた履物で最も古いのは、縄文時代の革長靴で、縄文後期の土器に革長靴を模したものが出土しています。かんじきは縄文時代の遺跡から実物が出土していて雪中での生活が窺えます。

 下駄(げた)は古く弥生時代から見られますが、湿田の農作業などには欠かせないもの、農具の一部だったようです。かんじきも湿田の農作業に用いられました。

 歯のある下駄も古墳時代には見られます。時代を下り中世、都では牛馬の糞を踏んでも汚れないようという理由から歯の高い下駄が使用されました。また当時は民間に便所がなく、そこらでしゃがむと大小便を勝手にしていたので、都市では下駄はよく使用されていました。これも皆が履く訳ではなく、やはり裸足が大多数を占めました。

 下駄は中世、例えば枕草子によればアシダと呼ばれたようです。


 足袋(たび)は平安時代の革沓(かわぐつ)の薄い、単皮(たんぴ)と呼ばれたものを起源としています。平安時代に板間が現れたことにより板間履きとして使用され、やがて江戸時代に座敷の普及と共に布足袋が現れとって代わります。マタギの履くカモシカの毛皮の革沓をタビと呼びますが、これは元の単皮が語源です。

 武士が履いたのも革の(くつ)で、これは大陸の騎乗文化を強く匂わせる立派な革沓だったものが、時代を下るにつれて簡略化されていきます。

 

 草履(ぞうり)は平安時代にはその存在が現れています。藁沓(わらぐつ)は草履よりその起源が古く奈良時代には文献に見えます、草鞋(わらじ)はその語源から藁沓から派生したものと考えられています。平安時代当時、中国や朝鮮には鼻緒の無い草鞋スタイルの履物が存在していました。鼻緒のある草鞋が確認できるようになるのは12世紀末の各種絵巻物からです。当時はワランヅと呼ばれていたようです。アイヌは草鞋をモノクシャと呼び、おそらくは物草と呼ばれていた時代があったのではないかと思われています。

 足半(あしなか)は鎌倉時代から現れた草鞋の変種で、足の裏の前半分のみの草鞋です。初期には半物草と呼ばれていたようです。これは山歩きなどに便利で、江戸時代まで多用されていました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ