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#87:1022年3月 鬼子

「目代よ、何か来よるぞ」


 そう言って雑色が通したのは、背負い子で赤子を背負った、ちいさな少女だった。


「吾子が六位内匠助藤永アキラか」


 そう問われて、困惑したままアキラは頷いた。少女は背負った子供をその板間に下ろし始めた。

 二歳児くらいか。寝ていたのが目を覚ましてむずがる。


「吾子の子ぞ」


 忘れていたわけではない。二年後の春。ネ子。

 しかし、


「えーと、山田さんは」


「そこにおる」


 見渡すが、見知った顔しか見えない。


 下野国府と一応呼ばれている建物は、旧屋敷に隣接したそっけない事務棟だった。

 長さ六間幅四間の土間付きの板間で、土間の廊下に面して机が並び、机には読み書きができるようになったばかりの子供たちが並んで、土間にやって来た来所者たちを応対する。

 建物の裏手には小屋と煉瓦の倉が並ぶ。文書庫だ。


 アキラは最近はここに寝泊まりしていた。自宅を建てるべき費用が右から左に消えてゆき、諸国を巡って足利を留守にする日も多く、こうなるとアキラのメインの勤務地であるところの、この国府の建物の隅に、畳を一枚と屏風と棚で居場所をつくる事になる。


「見えぬか」


 頬に風を感じた。


「本当に、いるのか」


 少女が頷いた。


  ・


 わが娘は、それはそれは可愛い。

 歳は二歳になったばかり、立てるし歩けるし、何か喋るし、そしていきなりガン泣きされるし。

 少女がわが子の背中を叩いて落ち着かせようとするが、わが娘、ネ子はアキラを指さして、そしてまた再び泣き始めた。


「目代よ、うるさき」


 建屋の中の者たちを代表して、事務を任せた娘が言う。傀儡子の娘だ。

 今年から遊女としてデビューする筈だったと聞いていた。その為に文字の読み書き、踊りに楽器、和歌まで仕込まれていたのをアキラが即戦力の事務要員として引き抜いたのだ。

 最近は帳簿の付け方まで仕込んでいる。なんちゃって複式簿記だ。貸し方が右だか左だかも適当だが、とにかく付けているのだ。


 場所を移そう。そう言えば、名前は何という。


「八津の丸子。前世の名は八重加永年」


 新屋敷までの短い道程の間に少女が告げたのは、とんでもない話だった。


「出身は宝来北遷ニルミミイト。死因は多分、テ・マウ圧縮の失敗」


 何を言っているのかよく分からない。


「ニルミミイトは複雑なものを集めて安定させるって意味。古典技術用語にはサンスクリットからの借用語が多いから」


 どうも巨大な筏と生物と海洋都市のごっちゃになったようなものらしい。

 そんなもの、勿論知らない。


「いつの頃の話?」


「私が死んだのは、仏歴2562年、あ、キリスト教徒歴で2019年ね」


 違う歴史、なのか。


 簡単に、できるだけ簡単に、歴史の説明をお願いした。

 少女は慣れているらしく、判りやすく説明してくれた。


 仏暦の22世紀、つまり西暦で17世紀に核戦争をやらかした世界だった。

 西暦で18世紀にはもう人が火星まで行っている。人工知能が人類を優越して、人類の半分が精神をコンピュータに移して不死化した世界だ。


「22世紀の初めにヒンデ連邦と第五協和ペルシャの間で熱核戦争があって、この時の戦後決着でスラブ-イスラムに北メキシコの一部が割譲されたのが遠因になるのかな。

 次にブラジル帝国と共産大明国の世界大戦へと状況の悪化する原因がね……」


 いや、全然判りやすくない。


  ・


 もっと色々聞きたかったが、もう新屋敷だ。

 抱きかかえた時には軽いと思ったネ子も、もうなんか重たい。腕が攣りそうだ。


 誰も居ないと思ったら、下屋に女房たちがずらりと並んでいる。何をしているのかと見ると、水飴を少しづつ舐めては隣に壺を渡してるようだ。


「これ、ひと口ぞ」


 尼女御の声がする。

 竈では小豆が煮えていた。餡子を作るのか。


「誰の子ぞ」


 誰ともなく言うのにアキラは答える。


「我が子ぞ」


「どこぞから拾いおった」


「二年、鬼に預けおったのが帰ってきた」


 笑われる中、尼女御だけが真顔だった。


「まことか」


「まことぞ」


 アキラに代わって少女が答えた。


「預かりおったのを返しに来た」


 わが娘は早速女房たちに構われて楽しげだ。


「見よ、歯の白し」


「これははよ歯黒せよ」


「流石に気の早き事」


 娘の歯がまぶしい。歯磨きなどさぼり気味だった身にはまぶしい輝きだ。


「疱瘡除けの印無き」


 種痘は来月の予定に入れなければならない。最近は種痘は二ヶ月に一度、一歳に達した近郷の子供を集めて接種するのに限られていた。

 ワクチンの元であるグリセリン保管された兎の睾丸は、今は名草谷の氷室に保管されている。崖に耐火煉瓦で断熱した小屋を埋めて冬の間に降った雪を詰め込んだもので、多分五月くらいまでは雪が残るのではなかろうかと期待していた。

 問題はその後、雪が解けて再び雪の降る頃までの間をどうするかだが、ワクチンは生体での継代培養しかいまのところ手が無い。兎の飼育は死活問題だった。


 しかし、無命卵、要するに無精卵の存在を証明し、生産法を記した論が別院から出た。これに基づいてニワトリの飼育が進んでいるが、これでもう少し無精卵の生産が増えれば、卵を使ったワクチン培養に切り替えることができるかも知れない。

 これは殺生禁断の寺院でワクチンを扱うためには必須の技術だ。勿論無精卵を認めた寺は今のところほとんど無い。しかし、再び疫病が襲って来た時には否が応でもこの技術を使うことになるだろう。


「こりゃいかん、しっこさせてこよう」


 女房が二人ばかり、ネ子を連れ出す。


 八津の丸子殿、だったか、今は葛湯を飲んでいる。


「これから、いかがする」


「会津に行こうかと」


 それ以上を聞こうとすると、ネ子が戻ってきた。もう眠たそうだ。

 寝かしつけたところを見計らって、丸子殿に、山田さんについてきてくれるよう頼む。ちょっと相談事が有る。


   ・


 上名草の奥山もすっかり様変わりしていた。麦の芽を陰干しする小屋が谷間を埋め、その向こうに醸造所と赤レンガの倉が並ぶ。

 更に奥に行くと田の残骸にそして牧場の残骸に出くわす。目的地の作業小屋は更にその奥だ。

 アキラと石川法師、そして居合わせた小金部岩丸の三人は作業小屋の奥に座った。


「あ、扉はそのまま」


 開けたままにしておくよう頼む。


「法師よ、ここに鬼がおる筈だが」


 石川法師は首をひねった。


「強き験のある所なれど、鬼は見えぬ」


「まことか」


 現役の陰陽師なら鬼が見えるかと思ったのだが。

 場所が悪いのか。


 とりあえず、ここへ来た目的を果たそう。

 薪の奥から箱を取り出す。皆の前に置いて箱を開ける。


「見せたきはこれよ」


 ぷんと朽臭が鼻をつく。


「臭き」


 真っ黒な枯れ木のように見える。取り出す。

 樹皮のように見えるのは硬い動物の毛のような何かだ。その先には、三つの太い爪がある。


「鬼の腕ぞ」


 小金部岩丸は身体をそらして避ける。石川法師はアキラから鬼の腕を受け取ると、感嘆の声を挙げた。


「物凄き」


「そのまま」


 どこからか、違う声がする。

 鬼の腕が石川法師から誰かに取られる。


 赤い肌の大男が現れていた。


    ・


「なるほど、これは良い繋ぎだ」


 大男、山田さんはこれを、強い(しるし)が化生の者に(うつつ)を与えているのだという。これで見えるようになったというのか。

 要するに、実体のある非現実的な実物が、非現実的な存在の現実感を増したという事らしい。


「これ、まこと鬼か」


 石川法師は感嘆の声を挙げた。

 薪の崩れる音に振り向くと、小金部岩丸が薪の中に頭を突っ込んで尻を出していた。それで隠れたつもりか。


「心配要らぬ。これ善鬼ぞ」


 そう言って小金部岩丸を引きずり戻す。


「はじめまして、そこのアキラくんと同郷の、山田と申します」


 大男は座るとそう言って頭を下げた。

 変なことを言うな。


   ・


「この話の大事は何ぞ」


 小金部岩丸が言う。


「どこぞの陰陽が悪き事するのを如何にするか、その辺り何かしたき」


「何ぞ陰陽に心当たりはなきか」


 一応、候補はいる。関東で唯一、陰陽がいるという話を聞いた。


「下総の国司屋敷におったらしき話がある」


「ではそれ討たれよ」


 小金部岩丸は気楽に言うが、相手は鬼とか呪いとか使う相手だし、何か対抗手段が欲しい。


「その為の、吾か」


 石川法師よ、その通りだ。

 それとこのでっかい山田さんね。待っていたのだ。


「しかしオレはこの通り今にも消えそうな身だから、アテにしてもらっては困る」


 助けてくれるものと期待していたのだが。


「無理だ」


 鬼パワー、期待していたのだが。


「しかし吾子に呪法利かぬなら、そのまま行けば良かろう」


 小金部岩丸はまた言う。だから鬼が出てきたらどうする。


「切ればよかろう。そこに腕があるのだから切れようぞ」


 気軽に言ってくれるが、最悪、それしかない気もしてきた。


「しかし何故、この鬼の腕盗られぬか判らぬ」


 石川法師はアキラに訊く。鬼が取り返しに来なかったか、と。

 いや、そんな覚えはない。


「盗らぬが良いと思っているのであろう」


 山田さんが言う。


「あの時は天然痘の、その、疱瘡(もがさ)の流行りの頃だったろ。陰陽では疫病は鬼のせいだからつまり、そこら中に鬼がいたことになる。

 鬼の気が満ちているなら、つまり下手な陰陽師でも強い鬼が使えたのではないか」


 で、今は取り返しに来られるほどの強い鬼が呼べない、と。


「もう一つ、わざと取りに来ないのやも知れぬ」


 腕が消えていないのだから、恐らくあの緑の鬼は消えていない。

 だが、山田さんが消えかけているのと同様に、緑の鬼も消えかけているとしたら、この腕が現世に鬼を繋いでいるとも言える。


「その通りなれば、いま護摩焚きして鬼の腕焼いて進ぜようぞ」


 石川法師がそう言うのを、アキラは止めた。


「これは我が焼く」


   ・


 新屋敷に帰ってみると、わが娘はあずさ殿のおもちゃになっていた。


「ようやく帰りおった。甲斐無き父よのう」


 あずさ殿の膝の上で、ネ子は眠たそうに身体をくねらせる。うみゃあと変な声をあげて今度は腹這いになる。

 母屋の廻り縁はまだ夕日の暖かさが残っていた。


「……この子の母御はいかな人にあったか」


 そう言われると困ってしまう。人と人の絆は言葉で説明するのは難しい。


「よき人にあった」


「何かされたか」


 何をしたかと言われると、具体的には思いつかない。


「傍にありました」


「それだけか」


「夫婦など、それで十分にありましょう」


「そうか」


 ネ子は立ち上がると、ふらふらとあずさ殿の膝に向かう。父は嫌われたか。



 山田さんと差し向かいで話した内容を、頭の中で反芻する。


 歴史は改変された。丸子殿は新たな歴史の未来からの転生者で、そしてアキラと同じ未来を共有する転生者たちは消えつつある。

 そりゃ、歴史を変えれば、変わる前の未来、もはや存在しない未来からの転生者は存在そのものがおかしい。もはや転生と言う理屈さえも通らなくなってしまう。彼らが消えるのも分かる。

 そもそも、彼ら転生者が鬼や超常の存在に変化してしまうのも、この消える可能性を前提にしたものではないだろうか。


 そんな山田さんが心配しているのは丸子殿の事だ。


 彼女はあまりに進んだ文明からやってきた。

 アキラの歴史改変が文明の発達をとんでもなく推し進めた結果、彼女は天上の楽園、テクノロジーの極楽からこの地獄へとやってくることになった。

 彼女の未来では人工知能によるサポートは服を着るように当然のものらしい。山田さんたちが彼女から探り出した言葉に、精神補綴というものがあるそうだ。未来人はどうも精神に人工知能のサポートを入れるのが当然であるらしい。


「ちょっと想像してみろ。どんな時にも最適な考えがポンと思いつく、しかも周囲と既に調整済みで、ストレスを感じることは全くない、そういう未来をさ。

 思いついたままに何をしても、何も怖いことが無いんだ」


 山田さんは、人工知能のサポートの無い丸子殿の今の状態を、多分本人は精神異常に似たものと認識しているだろうと言う。


「もし、前世の記憶に目覚めたのがほんの去年ではなく、もっと前だったら、彼女は狂っていたかもしれない」


 今の時代の生き方を既にしっかり確立していたからこそ、正気を保てたのだ。

 前世の記憶に目覚めた彼女はしかし狂女として家を追い出され、能登の国司屋敷の下人として働くことになった。

 そうして普通の人にはもう見えない筈の山田さんを見たのだという。


「今や、素の俺が見え、会話できるのは彼女だけだ」


 そして、丸子殿もまた、異形の者に変わり果てる可能性があるという。


「まだ分からない。今のところは特殊な変異の気配はないし、もしかすると我々とは違うのかもしれない。

 しかし、我々と違うプロセスが適用されるという傍証は、全くないんだ」


 山田さんは彼女についていくという。

 そもそも今、山田さんが見えるのが彼女だけなら、そういうことになるだろう。


「何処へ行く」


「陸奥のどこか、彼女と同じ未来からと思しき転生の噂がある」


 アキラは再び、巨大な暗い何かの中に漂流する気分を覚えた。

 未来とは、もう本当に、幻なのだ。


      ・


「では二反でよろしいか」


 あずさ殿の声でアキラは我に返った。


「あ、ああ、よろしいかと」


 で、何がよろしいのか、聞こうとすると、決めた事ゆえ今から何言うても遅き、と言われる。


「乳母、と」


 あずさ殿の言うには、尼女御がネ子の乳母役を押し付けようとする気配がある、という。そこで先手を打ってアキラに乳母として雇わせようという算段らしい。そうすれば少なくともタダ働きではなくなる。


「二反はもう決まりゆえ」


 月に絹二反。およそ相場の五倍から十倍であるが、値段に文句はない。

 しかし、あずさ殿に任せて良いのだろうか。


「この代で更に乳母雇わば、労無くして実入りあるという(ことわり)よ」


 うわ、ずるい。

#87 お歯黒について


 鉄漿、いわゆるお歯黒の風習は古来からあったようですが、これは中国由来の化粧文化には存在しないもので、鑑真和上が伝えたという明礬をつかう鉄漿染め法も、これは元々お歯黒を目的としない技法であったのではないかと思われます。

 お歯黒は古事記の応神天皇の条にある角鹿の蟹の歌に歌われているという説がありますが、これは歯並びを指したもので歯を染めた描写とは取りにくいとかと思われます。

 律令時代の美醜は唐の文化が基準だったので、お歯黒が生き残って伝わったのは意外な気もしますが、国風文化が盛んになると表に再び現れるようになります。


 文献にお歯黒が出てくるのは十一世紀初頭、源氏物語や枕草子、堤中納言物語や紫式部日記にごく普通の風習として登場しています。この時代は歯黒(はぐろめ)と呼ばれていました。源氏物語の紫の上は11歳で、大抵は16歳頃までに任意のタイミングで、社交年齢に達する頃におこなう化粧の一種として行われていました。堤中納言物語の蟲愛づる姫君は、成人に達したにも関わらず化粧も眉を描くことも歯黒もしないと描写され、つまりお歯黒は化粧、美容の一種であったことがわかります。


 お歯黒の目的は歯を隠す事です。これは歯を剥き出しにすることを避ける狙いがあったのかも知れません。虫歯予防だという説もありますが、そういう主張は歴史上過去には存在しませんでした。しかし確かに歯は皮膜で保護されます。

 裳着、要するに成人の儀式の頃におこなうという説もありますが、紫の上の裳着は14歳ででした。また裳着は重要な儀式で、吉日の深夜真夜中に行われましたが、お歯黒の時期について書いているものはこの時期ほとんどありません。

 とりかえばや物語の内容を考えると庶民もお歯黒をしていたことになりますが、傍証はありません。お歯黒はやがて男性にも広がりますが、戦国時代に男性武士のお歯黒は廃れます。


 お歯黒の染色はこの時代は酸化第一鉄を用いる古来からの手法で、鑑真が伝えたという明礬の硫化第一鉄を使う手法はこの時代使われていません。

 具体的には酢に酒と米のとぎ汁、鉄釘などを溶かして作った鉄漿水と、五倍子粉(ふしのこ)を交互に歯に付けて染めていました。鉄漿水は発酵し強い悪臭を放ちました。五倍子粉とはヌルデの木に出来る虫瘤を取って乾燥させて粉にしたもので、要するにこれはほぼ没食子インクです。

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