#85:1021年8月 予行
陽が落ちたのを見計らって、渡河の第一陣が出発した。
五人ほどが音を立てずに河原を横切り、背負い子を降ろして前に掴み、川の中に入っていく。背負い子は柿渋と鹿革、膠で防水になっていた。食料や武器が入っていたが水よりは軽い。これを浮き輪代わりに使う。
しかし川の流れは思ったより強い。全員川を渡るまで30分くらいかかったか。
早速川に縄が張られる。これを残りの全員が伝って渡る。渡ると皆乾いた服に素早く着替える。
アキラは最後に渡った。もう真っ暗だ。渡河完了まで三時間ほどか。これが冬場だったらどうなっていたことか。
夏でも夜明け頃は冷え込む。火を焚くことを禁じられた一行は、歯をガチガチ鳴らしながら日の出るのを待った。だがそれを待たずにアキラは移動命令を出した。
一行の格好はまだら染めの細袴と細袖の小袖、頭には飾りのない藺笠という姿だ。要するに迷彩である。夏場に合わせてまだら染めは緑の多いものだ。
皆脛まである長い鹿革靴を履いている。更に靴のつま先に当たる部分には草鞋を履かせていた。これで荒地も問題無く歩けるし革靴の消耗も防げる。この草鞋は半分しか無いと言う事で、誰とも無く足半と呼ぶようになっていた。
やがて一行は、一町ほど先に道が見える小さな丘に辿り着いた。
背負い子から油紙を巻いた弩が取り出され、各々自分の弩の調整を始める。数人の弩はひとまわり大きく、そして銅の円筒とガラス製レンズの組み合わせ、つまり望遠鏡が付いていた。十字の照準線は無いがスコープとしても充分使える。
望遠鏡のレンズに使う透明なガラスの生産量は恐ろしく少なかった。使う鉛は三度絞り純度を上げたもので、更にガラスには鉄をごく僅か添加して青みを打ち消していた。
少し明るくなると、望遠鏡の調整が行われる。紐を持った男が走って標的までの距離を定め、目立たない標的を立てる。
標的に向かって各人矢を三本づつ撃ち微調整する。彼らの後ろには、弩の弦を掛けなおす治具が設置され、二人がかりで弦が再装填される。
アキラは現場を事前に視察していたが一行は地図でしかこの場を知らない。しかし一行はごく自然に丘の周りに静かに散開し、伏せて待つ。アキラは全員の準備が出来ていることを見て取った。
よし。
昇ってくる陽が眼下に長い影を落とす。道からはこちらは逆光になる。
「風あるぞ」
囁き声があちこちで交わされる。
出てきた。
騎馬の姿を模したのだろうか。馬に曳かれた藁人形が二つ、道をゆっくりと進んでくる。馬の引き手が綱を切って藁人形を置き去りにしたのを見届けると、アキラは命じた。
「撃て」
小さな鐘が鳴らされると、びゅん、という音が周囲から沸いた。
望遠鏡を覗く。像は歪み、視野のごく中央だけが使い物になる。
外した。
周囲で囁きあうと、射手たちは第二射の装填にかかった。梃子に掛けられた弩と梃子の両方がギシギシと軋む。
アキラは小声で言う。
「風ぞ。南に二つとれ」
準備が出来ると小さな鐘が鳴る。アキラは再び撃てと命じた。
望遠鏡を覗くと、藁人形の頭に矢が刺さっているのが見えた。
・
五射まで繰り返して、アキラは撤収を命令した。
元の渡河地点まで一行が戻る中、アキラは一人残って藁人形の的の方へ歩いていく。
騎馬の一行が現れる。先頭は頼季様だ。
「初めは外したな」
「風の読みが足りておりませぬ。あと、強弩は別に用いたほうが良かろうかと」
竹弓の表に鹿骨を薄く削いだものを膠で貼りつけ、裏に鹿の腱を張り付け、そして蒸し器と木型で強制的に曲げて成形した弓は手に負えない性能になった。念の入ったことにアキラはこの製法で生産した弓の張力をほぼ揃えさせていた。
この技術は弓の生産にも使ったが弩にも使い、そしてうち五台ほど、一人では弦を引けない強さの弩を作ったのだ。
この強弩は鉄の鎧を射抜くことを目的に開発したものだ。が、これは狙撃専用に運用したほうが良いだろう。
そもそも、望遠鏡の補正方式が確立されていない。そもそも望遠鏡の性能がバラバラなのだ。これは各人に慣れてもらうより仕方がない。
運用だが、もう一人付けて二人で弦を引かせ、見張りや交代番、観測手などを手分けさせよう。
「川は冬は泳いで渡るは難しきかと」
敵の背後に回りこむのは、この川だらけの関東平野ではある意味簡単に出来る。例えば利根川と太日川の間の陸路を敵が攻めてきたとする。アキラたちは利根川の下流で川を渡れば簡単に敵の背後に回り込めるだろう。
勿論それは、そもそも川を渡ることが出来るのか、という難問に阻まれることになる。強力な軍勢は渡せない。知られた渡河地点を除いては馬を渡すのは難しい。
アキラは弩兵を強力な戦力として、任意の地点で徒歩で強襲渡河することを考えていた。存在を隠して、敵と距離を取ることさえ出来れば戦果を挙げられるはずだ。攻撃してすぐ川を渡って逃げ出せば防御力も要らない。
しかしだ、理屈と現実は違う。冬に川に入るのは絶対に避けたい。
「組み立ての筏作り使いましょう」
・
足利の戦力の中枢は騎馬武者であることは間違いないところだった。
揃いの大鎧を着た武者たちが、放生会前日の足利を行進する。
およそ百騎、北郷党と益子党の武者を中枢として編成された重装弓騎兵だ。大鎧は鹿革に鋼板の小札を威しで縫い付けたもので、遠目には普通の大鎧とは全く変わる所が無い。
益子党の兜はすぐにわかる特徴があった。額にあたる部分に光り輝く鍬の刃先が飾り付けられていたのだ。これは財部郷の勝ち戦にちなんでの飾りと聞いた。
普通の大鎧と違うのは、肩の大袖が鋼板の一枚板である点だ。ピカピカのシルバーに磨き上げられた大袖はとにかく目立つ。これは鎧に鉄を使っていることのシンプルな誇示だった。この大袖を矢で射通せるとは誰も思うまい。
とはいえ、強力な弓なら恐らく射通せるだろう。薄いのだ。公言はしないが、試作した大袖の鋼板は強化した弩の射撃に耐えなかった。
次に、槍の穂先を頭上に並べた歩兵たちが歩いてゆく。
長さ一間三尺のその先に、銀色に輝く長い穂先をきらめかせる。但し槍とは呼ばれない。長鉾である。
それを持つ歩兵の姿は二分されていた。まず先頭、隊列を組んで進むのは財部郷の戦いを経て更に増強された、郷村出身の歩兵たちだ。ただ今回の歩兵たちは足利の者に限られていた。人数は百人ほどになる。
その後ろにまた百人、しかしその風体は汚れ、隊列は乱れ、足取りもおぼつかない。兵士たちの多くに酷い疱瘡のあとがあり、三分の一ほどは頭を剃り上げている。
疫病に自分たちの村を捨て、今や帰るところも無い、逃散の者たちだ。
足利荘に流れ着いた逃散者たちをアキラたちは始めは入植者としていたが、やがて家も田地も足りなくなり、それでも流れ者は増え続けた。
彼らは八幡宮の境内に住み着いた。布施屋を占拠し、ある者は出家した僧であると言い張る納税拒否者で、ある者は疫病を理由に郷村を追放された屠者、家畜屠殺を生業とする者たちだった。
彼らを住まわせるために長屋が作られた。この為に下水道工事をおこない地中に木樋が埋められた。彼らの身分は一括して八幡宮の神子とした。氏子みたいなものだが、下級神官としてちゃんと身分がある。
彼らは基本的に労役で暮らす労働者で、足利荘は彼らを住まわせる代わりに兵役の義務を課していた。
今行進しているのは、その兵役義務を果たすためだ。
観衆たちから、神子兵たちのだらしない行進姿に嘲笑が飛ぶ。
・
八幡宮前の馬場には近郷住人たちが既に詰めかけていた。
夏の暑い盛りである。馬場沿いには杉を植えていたがまだ子供の背丈ほどでしかなく、日陰は期待できない。
しかし陽のあたるところには幕を張っていたので、見物人たちは幕の下に思い思いに座り込んで酒や食べ物を並べていた。歌い出すものもいる。
一騎目が走り出す。
馬場の中央に的が設えてある。これを走りながら射るのだ。
一騎目も二騎目も外し、しかし三騎目は見事的を射止めた。
観衆から囃し声が上がる。
・
祭りは既に始まっていた。
去年の祭りを見損ねたアキラにとって、この二年の変化は眩暈がしそうなほど大きい。
八幡宮の隣、新しい足利屋敷はその敷地を巡る堀に水を湛え、建物もあらかた出来上がっていた。敷地を巡る塀はまだ完成していない。ただ、完成した敷地正門には煉瓦が使用され、その色から赤門と呼ばれていた。
煉瓦は倉に更に大量に使用される予定だ。屋敷に隣接する敷地には煉瓦が積み上げられていた。建築がまだ始まっていないのは瓦が出来ていないからだ。
馬場はこの屋敷の前の道だ。およそ都の頼信殿の屋敷前の小路ほどの広さがある。
流鏑馬が終わると、ここに出店が立つ。地割りは既に済んでいるがごまかそうとする者が絶えない。
馬場の小路はその先で同じ広さの小路と交差する。これは清水川の筋交い橋と、来年には架けられる予定の太日川の橋を結ぶ道になる。
道には既に人がちらほらと見える。遠くから来た人々の多くは、河原に張られた幕を借りて泊まる。出店で売られている木酢液を買って手足に塗り、河原で煮炊きをして酒を飲むのだ。
この道沿いには既に、都で見た町屋風の建物が幾つか建っていた。
まず宿屋が二軒あった。木地物屋が一軒、これは木工の卒業生の一人が郷里に帰らずに開業したものだった。彼は材木商も兼ねていた。
一軒は味噌と醤油屋だ。生産量が増えすぎて、祭りの時期だけでは生産量を全量捌けなくなっていた。
そして一軒出来立ての酒屋、これは足利屋敷の直営店だった。
酒造りの利潤の大きさは見逃すことが出来なかった。
こんなもの民間に好きにさせたら、あっという間に豪商になるに決まっている。
醸造所が上名草のアキラの所領内に建設された。もうここ位しか広い空き地が無かったのだ。水にはアキラが将来の屋敷にと掘った井戸を使う。
ただ、敷地は広いが、最初の建物は蒸し小屋と穀物倉と貯蔵小屋の三つだけだ。生産量もたかが知れている。
酒屋の中身はまだ寂しいものだった。
ただ、今回は麦酒を試しに作っていた。麦芽を発酵させただけではアルコール度数が低く甘くて匂いがあるため、麦芽に乾燥させた生姜を混ぜてみた。これで匂いと口当たりはある程度ごまかせる。
麦は水車小屋の使用料が使えたが生姜は高くついた。ちょっとコストは計算できない。
仕入れた濁り酒と同量の麦酒を用意していたが、今回店頭の値段は双方同じとしていた。さてどうなるか。
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この新しい街にも裏通りがあり、八幡宮神子の長屋のほか、他の地所に本籍のある住人が住む長屋も建っていた。
千歯扱きや籾摺りによって生まれた剰余労働力の受け皿、出繕いと呼ばれる季節労働者たちの住む長屋だ。ここは農繁期である今はほとんど空き家で、祭りの間は宿舎として提供されていた。この破損被害などを防ぐのもアキラの仕事だった。
細かい仕事ばかりだが、皆前例のない新しい仕事であるのが厄介な所だ。仕事として名前が付いて確立されないと、なかなか他の人に仕事を振ることが出来ない。
仕事を任せる事ができる柔軟性のある人材が育っていない。柔軟性がありそうな連中は揃って元服前とくる。
というか、多分変化が速すぎるだけだろう。反発が無いだけマシというものか。
一通り宿泊者に注意を与えると、馬場に戻る。
あちゃ。
喧嘩だ。
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新屋敷の政所を使うのは初めてだ。
政所は現在建設中の足利国庁とほぼ同じ構成だった。つまり事務棟と背後の書物棚、更に背後の書物倉だ。規模は国庁の半分ほどだが、既に出来ているのは大きい。ここでは足利荘、そしてこの町の行政を扱う。
但し書物棚の中身は空だ。まだ旧屋敷に足利荘行政の文書は残っていた。
喧嘩していた二人を引きずって事務棟に来て、紙を探している間にまた喧嘩が始まっていた。二人を引き離して落ち着かせると、アキラは懐から筆箱を出してインク壺を開き、竹ペンで二人の名前と日時を書いていく。
一人づつ喋らせる。すぐに隣の男がうるさく言いたてるが、とにかく一人づつだ。
整理すると要するに、売り上げの分配でもめているのだった。
男Aは竹を提供し、男Bは労力を提供し、さて出店を構え売ろうかという時に売り上げの分配で二人は喧嘩になった。どうも二人ともその辺よく考えておらず、事前に決めてもいなかったらしい。
男Aは材料を提供した自分の方が分け前が多くなると主張するし、男Bは自分の細工なのだから自分のほうが分け前が多くなると主張する。
さて。
原価で考えてみよう。アキラは男Aに、竹はほかの者相手ならいくらで売るか聞いた。米一斗と。ふむ。男Bに全部売れれば売り上げは幾らになるか聞く。三斗か。しかし全部は売れまい。売れ残りを考えるといくらで売れるか。
男は皆売れると言い張ったがやがて、二斗ほどか、と漏らした。
「ふむ、売れた料からまず一斗を竹代として分け、残り一斗を作り代として分け、残りを二人で二つに分けよ」
「二斗売れずばどうなる」
「残りを分けずとも良い。一斗は竹代として渡せ。そもそも皆売れるのではないか」
二人はぶつくさ言っていたが、まとめた内容を紙に書いて見せると、なんとなく従う雰囲気になった。
「よいな、売り上げ争う際には又ここへ来よ。これ見らば決めた事思い出そう」
そろそろ、ちゃんと原価計算とか帳簿とか、そういうのも整備しないといけないだろうなぁ。
・
アキラは判例、いや、全くの偽判例を精力的に整備している真っ最中だった。
前例の無いものは全て駄目だという時代は、逆に言えば前例があればそれに無条件に従う時代でもある。その前例が捏造であろうと、バレなければ立派な前例だ。
こないだアキラは、疫病で家の主人が死んだ家の遺産相続のもめごとを仲裁した。
古い古い律令の遺産分与を定めた項目は複数の解釈を許す。調べた実際の判例は過去誰に属していたかで決まるだけ、過去の慣習が重視されるだけだった。きちんと法理で整理されている訳ではない。
昨日は水争いの喧嘩の仲裁をした。真夏の盛りで水が乏しい頃だ。水を巡って各郷の血の気の多い連中が水の分配を巡って争うのだ。
勿論分配方式は決まっている。しかし昨日のやつは悪質だった。水路に差した分配板を夜のうちに抜いて自分らの田に水を全量流して朝には分配板を元に戻す、これを繰り返していたのだ。これを疑った隣の郷村の若い連中が見張っていて捕まえ、ボコボコにしたという。
こんなものは律令にも判例にも、参考になる物は全くない。
これは喧嘩両成敗、ってのが一番簡単かなぁ、等とも思ったりもする。
中世の法の生まれる原因を肌で知ったと思った。
だが、アキラは法でも中世を飛び越える気でいた。
水争いで持ち出したのが、アキラが捏造した過去の判例だ。
ひとつひとつ、結果と原因を分解して、一つ一つに処置を定めたものだ。
その偽の過去の事例に従い、喧嘩は喧嘩、水争いは水争いに分解する。分水に対する補償の命令、被害額賠償の命令、負傷に対する賠償の命令、これは被害額賠償と相殺できる分は相殺する。
遺産相続も偽判例を作った。遺言無き場合は嫡子で等分配、元服前であれば後見人に預け、庶子は生前認知あれば嫡子の半分を相続する。但し、代々の相続財産の処分は長子の合意なしに行なうことができない。
死者の弟が一族の長に繰り上がるついでに死者の資産も併合するって奴は、武者ではよくあることらしいが揉めるのもよくある話であり断固阻止だ。
遺産相続のもめごとでアキラは、分配を容易にするために一度遺産を全て米の量に変換して見積もり、それから分けてはどうかと助言した。
これは資産税、相続税導入へのひそかな準備だった。各家の資産を把握するのが目的だ。
税は大事だ。商業が発達すれば、そちらへの課税は当然考えなければいけない。
あと、金貸しが最初の蔵を立てる前に金融規制を考えないと。
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偽判例を作るという事は、偽の歴史を作るという事だ。
アキラは下野の各地に架空の郷、架空の人物を、架空の歴史と共に創造した。家系図も作成した。架空の争いを捏造し、その和解の茶番を判例として創作した。
すごく近代的な考え方をした連中ばかりで、すごく書きやすい。
いいよね、歴史改変。
#85 中世法と商業行為について。
律令法もそうですが、中世法にも商業行為に関する法規定はほとんどありませんでした。古代においては商業の発達は見られなかったので問題なかった部分ですが、中世に入ると様々な問題が生じるようになります。
当時の貸付の利子は二か月で八分の一、つまり12パーセント、これは穀物の利殖率を前提とした私出挙の利率です。実際には近似のひと月あたり5パーセントという利率が多用されます。この利率では一年後に貸付額の二倍を返すことになります。つまり年利10割です。これら利率が穀物以外、年を跨ぐ貸付には向かないことは明らかです。
しかしこの利率は中世を通じて維持され、やがて徳政令の原因となる重債務の原因となります。
中世において金融に関する法は15世紀最大の業者だった延暦寺がようやく整備します。ここで負債額が貸付額の倍になった時点で加算を留める規定が出来ました。しかしこれは、一年以上借りたらもう返すモチベーションが無くなる事も意味します。
近代に入ると商取引に対して各地で法制度が整えられていきます。戦国時代の分国法、例えば甲州法度56条のうち14条、1/4が商取引に関するものでした。但し、利子率の制限や破産などの制度はまだ存在していません。この代わりか、ここでは負債が倍に達して催促に応じない場合、強制的な取立てを許す規定を含んでいました。これは勿論、負債額を貸付額の二倍を上限とすることを暗黙の前提としたものでしょう。