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#84:1021年5月 相模

 相模原は狐狩りに格好の草原、つまり例によって耕作に不向きな黒ボク土の台地だった。


「あの草の根の辺り、まだ一匹居るのではなきや」


 相模国の国司、大江公資殿は指さして言う。アキラは背後の郎党たちに合図すると、彼らは再び手持ちの太鼓を叩き始めた。

 草むらから何かが飛び出す。


 公資殿は素早く矢を射たが、外す。


「あれは兎にて」


 明らかにがっかりした表情で、公資殿は馬を巡らせる。


   ・


 相模原の狐狩りは、国司の接待と同時に、鎌倉方の勢力の軍事的威示行為を兼ねたものだった。

 これは軍事演習も兼ねていた。鎌倉方の武者たちは太鼓の合図で隊列を替え、縦横に行動するようになっていた。


「この辺りは流石に検田してはおらぬか」


「道は測っておりますが、流石に荒れ野までは手が廻りませぬ」


 この台地の開墾には化学肥料の登場を待つ必要があるだろう。


 相模国の検田は順調に進んでいた。

 国司の完全な認可のもとで行われる検田は、相模ではこれに抵抗する勢力を武力で排除する格好の機会を提供した。

 激しい合戦が相次ぎ、ある一族は皆殺しにされ、ある一族は恭順した。今や相模は足柄峠近くを除けばほぼ全土が鎌倉に服従していた。


 三浦半島の入植の余地ありとされた土地には、源頼光殿の郎党たちが相次いで入植していた。

 そんな中でも異色の存在が、三浦半島の先に領地を得た多聞だった。

 多聞は信太党のうち船乗りたちを従えて入植し、今は全長十間の船を建造していた。どうも伝え聞く話を繋ぎ合わせると、乾ドックらしきものを作っている。潮の干満を利用して締め切るだけらしいので、あまり大きな船は入れることができないようだが、早晩ポンプも使うようになるだろう。

 多聞はいまや、三浦半島の武者たちを海軍戦力として再編する構想の中枢となっていた。最近では入植した地、野比を名乗っているらしい。


 但し、これには残念な理由があった。


「常陸の件、あまりうまく行かぬと聞く」


 信太郡の小一条院の荘園への立荘は難航していた。

 大江公資殿からの情報でも、やはり情勢は思わしくないようだった。

 平良衡はちゃんと立荘のために運動していると言う。足利の銅貨を最近十貫、運動費として届けたばかりである。何が原因なのか。


 速やかな立荘を当てにしていたアキラの計画にはズレが生じていた。多聞たちを置いておける場所が無くなり、その為に急きょ三浦に領地を与える話をまとめることになった。

 信太の武者たちは頼季様のもとに組織化されていたが、問題はそれ以外の普通の人々だ。多くの人々が戦乱の地に置き去りにされている。

 信太をまとめる人物が現地にいなくなるのはリスクだったが、少しでも避難させたい。


「お力添えの件、物にならぬは悲しけれど、仕方のなきことかと」


 アキラとしてはそう言うしかない。


「陸奥の件は、返事あったぞ」


 搦め手の、陸奥菊多郡の山地入合いの権利についての交渉の返事だ。狙いはもちろん、常磐炭田の石炭である。確か常陸と陸奥の境辺りだと思ったのだ。ならば陸奥の方からアクセスすれば良い。


「やはり陸奥では砂金採り尽くしたらしき」


 今の陸奥の国司は源頼信殿の兄弟といさかいがあるという事で、この相模の大江公資殿を頼ってみたのだが、奥さん繋がりで親交があるとの事。有り難い。

 で、返事の内容だが、すごくふっかけられた。絹五百反だと。


 陸奥の調税である砂金は昔は豊富に採れていたのが最近はもう採れないために、絹で代納するらしいのだが、それがおよそ年に絹千反である。

 そりゃ大変だ。


 大変なのは判るが、流石に絹五百反は出せない。勿論砂金も出せない。かつては下野からも砂金が出ていたそうだが、何百年も前にきれいさっぱり枯渇してしまったようだ。

 もし黄金を調達するとすれば、金鉱の開発になるだろうか。

 いや、しかし奥州藤原氏って砂金採掘してたよな。違う場所なら砂金はまだ採れるのだろうか。


「流石に五百反は出せねど、陸奥守お困りとなれば、いささか手伝い致しましょう」


 とりあえず交渉の糸口は掴んだ。色んな条件や事情はこれから詰めていけば良い。

 そもそも、山野の入合いの権利だけなら、郡司だけでも勝手に決めることが出来る。国司に話を通したのは後から難癖を入れられるのが嫌だったからだったが、先に菊多郡の郡司と交渉を進めても良いかもしれない。


   ・


 相模の国司館に戻ると桐生五郎たちが待っていた。相模川に橋を架ける相談だ。


「柱持つ筋交い橋を初めに作るのは、何も相模であらずとも良かったであろうに」


 桐生五郎の言い分はもっともだった。しかしアキラは既に相模川に橋を架ける約束をしてしまっていた。アキラは鎌倉を味方につけ続けないといけないのだ。


 相模川は相模国の交通を東西に分断していた。そもそも国府が相模川のすぐ西岸にあって、鎌倉はその川の東なのだ。今日はアキラたちは相模川の上流で川を渡ったから良かったものの、下流だと渡し舟を使う事になるのだ。

 ここに橋を架ける効果は大きい。鎌倉の手が国府に、そして相模の西の端、足柄峠まで容易に届くようになるのだ。

 また、相模川はそれほど架橋が困難な大河でも無かった。橋脚を3つも立てれば済むだろう。


 しかしそれは、従来の筋交い橋を4つ架けるのと同じことだ。

 勿論最大の問題は橋脚だ。洪水で流されるようでは架けるだけ損だ。

 アキラは三和土(たたき)でブロックを作る事を考えていた。大き目の石を正面正方に削りその面を底にして置き、側面に板を立て、中を石混じりの三和土で充填する。

 半年放置してよく固まった頃、冬の川の水が枯れた頃の川原にこのブロックを設置する。石の面を外側に向けて並べて、橋脚の基礎とするのだ。


「これらは今頃より川のそばで造り、冬まで置いておけばよい。石は川の上下より運ぶ。木枠は一つか二つ作りて、使い廻せばよい」


 ブロックの試作は既に足利で済ませていた。試作したブロックで小さなアーチ門を作ったのだ。ブロックを寝かせる期間は三ヶ月ほどと短かったが、自重を支える以外の強度を要しない構造でもあり、全く問題は生じなかった。


 桐生五郎とアキラは、出来立ての測量地図を見ながら、架橋地点について話し合った。

 架橋地点は冬のうちに橋脚工事ができる場所でなくてはならない。場所が決まれば設計の基礎が固まる。

 そして橋の本体については鎌倉の大工たちを大いに当てにする事が出来た。これはこの大橋を最初に相模で作る理由の一つでもあった。

 労役は国司の賦役命令でまかなう。木材と大工たちの労賃は鎌倉の支出だった。もっとも、鎌倉の支出は塩の売り上げ増だけですぐに元が取れる筈だ。


 賦役の動員時期と人数をまとめているところに、屋敷の雑色がやってきて、アキラに紙を渡した。

 これは歌か。


 五月雨の匂ひにあらじ梅の露うぐいすの声きこゆことなし


 国司の奥さんに献じた諸々、石鹸と小桶、縫い針に和ばさみ、そして試作した香油のお礼状らしい。

 香油は松の精油の揮発性の高さに刺激を受けて開発したものだった。


 松の精油は松の枝や幹から得られるもので、松根油とは特性がかなり違う。揮発性があると言ってもテンペラ油みたいな臭いで、アキラはこれに墨の元である煤を溶かして少量の膠を入れて、少しとろみの有る液体としてみた。つまり油性の墨だ。

 印刷用のインクとして開発したものだったが、通常のインクとしても勿論使える。但し筆との相性はあまり良くなく、売ったり配ったりするのは今のところ考えていない。


 松の精油の匂いは正直あまり快いモノではなかったが、これに別の匂いをつけられないかとアキラは考えた。

 まず試したのはヒノキの精油で、しかしこれは不快ではないがヒノキの匂いでしかない。

 時期的に採れたのは梅の花ばかりで、まずはヒノキの精油に直接漬けてみたが匂いが移るようなことは無く、梅の花を蒸留して得た香水を混ぜることでようやく匂い付けに成功した。香水だけで良いのではないかとも思ったが、ヒノキの精油と混ぜることで長持ちするものが得られたため、製法としてこれで行く事にしたのだ。

 容器は小さなガラス瓶だ。緑色でひどくいびつだったが、最近はこれを多めに作っていた。都でも好評らしい。これは抜群の唐物だろう。


 もしかすると、しばらく前に献じた蚊帳の礼も含まれていたのかも知れない。そろそろ蚊の飛び始める頃だ。

 蚊帳は、新しい飛び杼を使う三尺麻織機で安く量産できるようになっていた。

 飛び杼は思ったよりずっと簡単に実現する事が出来た。万能材料、竹のお陰かも知れない。竹の弾力で杼を弾いて、反対側では竹の弾力で杼を受け止める。その竹ですぐに弾けば杼の高速移動が実現する。竹ばねを元の位置に戻す紐を追加して完成だ。

 あまり難しい事を考えないのが実現のコツだとアキラは悟っていた。

 蚊帳は麻糸の使用量が少ないので生産現場では歓迎されていた。蚊帳は布を縫い繋ぐのが面倒だ。三尺織機は蚊帳の縫い代を半分以下にした。

 そして杼の動作は動力化できる。今はまだ人が織機の横に付いて杼を飛ばすタイミングを取る必要があったが、水車で動く動力織機は安価な蚊帳の生産を可能にしていた。

 とはいえ、今はまだ有力者への貢物に過ぎない。

 今作り溜めている大量の蚊帳の出荷先はほとんどが都になるだろう。


 アキラの他の一同は和歌を見てたじろく。


「そもそもくねくねした字読めぬ」


 風流事は大変よの。桐生五郎はそう言ってアキラを可哀想な目で見た。

 ちくしょう、お前達いずれ和歌も授業科目にしてやるぞ。


 ここの国司の奥さんはすごく大事なのだ。何せ源頼光殿の養女である。頼光殿系の武者で構成される鎌倉と国司の間を取り持つのが奥さんなのだ。

 相模国の政治的、軍事的バランスはこういう所でも維持されていた。


 紙を取り、最近なんとか様になってきた筆でさらさら。


 五月雨にさみしき露の山里の匂ひばかりの春のよすがと


 返歌をしたためる。


 最近はめっきりこういう事が多くなっていた。


 頼季様の歌の師匠をやっているのだが、最近ではほとんどアキラが代筆するばかりである。相手は勿論キヌメ殿で、内容はこれも勿論恋の歌。

 返歌に合わせた内容を詠まないといけない訳だが、なかなかに少女趣味で難しい。

 最近タヅコに聞いたところによると、キヌメ殿も代筆をあずさ殿に頼んでいるとか。もう茶番である。

 こう、恋愛の絡まない風流な奴ならパッと詠めるのになぁ。


     ・


 相模の国情は冬のうちに比べれば随分と改善したのではなかろうか。

 用事を済ませてアキラは犬丸と相模川沿いの自然堤防の上を北上する。


「この辺り盗賊出るらしきと聞く」


 犬丸は心細そうに言う。しかし農繁期だ。耕地を持っているタイプの盗賊、つまり盗賊を装った武者たちは今頃は出てこないだろう。

 田植えの様子は相模川の西側と東側で違う様相を見せていた。東側の苗の並びは整っており隙間も見えない。対して今歩いている西側の苗の並びは隙間が多い。


 天然痘は春になってまた各国で流行の兆しを見せていた。

 ここ相模では鎌倉の支配地では種痘が積極的に進められ、住民も武者たちも疱瘡を恐れてはいなかった。勿論死者は多かったが、今や疱瘡は克服されたという機運が満ちていた。

 対して相模川の西側、鎌倉の影響の外では春から再び疱瘡が流行していた。

 鎌倉方、平直方殿の名のもとに臣従し名表を提出した武者たちは、臣従のあかしとして種痘を受け入れていたが、まだその数は少なかった。

 住民たちは郷を閉ざして、そして多くが飢えていた。飢えによる体力の低下は天然痘に罹った時の死亡率にダイレクトに結びつく。

 恐らく流行の程度は今年の方が小さい筈だが、死亡率は今年の方が高くなるだろう。


 相模川の中流で川を渡る。馬に乗ったまま渡河すると、集落とその先に東へ延びる道が見つかった。

 まばらな灌木の生えた野を、細い道が横断していた。


      ・


 陽が傾いた頃、言葉も無く二人荒れ野を横断していると、矢の風切り音がふいに聞こえた。

 矢は躱す必要もなく外れる。わざと外したのか。

 どっから飛んできたのか、ああ、道の向こうに騎馬の武者が二人ほど見える。

 身を隠す場所は無く、アキラに武器は太刀しかない。


「盗人は弓下手よの」


 アキラは太刀を抜いて振りかざし、煽った。

 もう一本飛んできた。当たり前だ。


「弓貸されよ。吾の方が上手き」


 大声でどなる。


「何者ぞ」


「六位内匠助アキラなるぞ」


 武者たちが近づいてくる。一人は弓を構えたままだが、アキラが刀を収めるとその弓も降ろされた。


「まこと坂東別当なるか」


 坂東別当。アキラは顔をしかめた。

 坂東とは碓氷、足柄の二つの坂、つまり峠の東を指す。

 あまり言われない言葉だったが、南北の往来が増して関東が一体として捉えられることが多くなって、この言葉の出番が増えたようだ。

 そして別当だが、春先に坂東四ヶ国別当、と誰からか呼ばれるようになって、今や四ヶ国を省略しての大身扱いである。


「従者下郎はいずこぞ。いち早く逃げたか」


「従者はそこの童一人ぞ」


 逃げていた犬丸が戻ってくるのを指さす。武者は今度はあからさまに疑いの声で聞いてくる。


「まこと坂東別当なるか」


     ・


 犬丸がやってきて言う。


「そもそも何故に逃げられぬか」


「吾子が居るからであろう」


 アキラはそう答えた。一人なら藪にでも入って逃げ隠れすることもできるだろうが、二人となるとそうはいかない。

 犬丸は自分のせいだと聞いて腹を立てた。


「吾なら素早く逃げおおせる。危なきは目代ぞ」


 まぁ、そうかもな。


 武者たちは武蔵小野牧の横山良兼と光兼の兄弟だという。矢を射かけたのは盗賊の手下かと思っての事だそうだ。


「田の忙しき時に豊かな屋敷など見計らって、後に賊ども呼んで来おる」


 それで普通の行商人が狙われてはたまったもんじゃない。


「吾子こそおかしき。坂東別当ほどの大身なれば、武者の十騎も付けよ」


 自分がそんな大物なものか。

 しばらく道を行くと、見覚えのある武蔵国府までの道に出た。

 せっかくなので、今晩は武者たちの家に泊めてもらう。


 武蔵の丘陵地帯の谷間に牧司たちは小さな田を開拓し、山の方に牧を開いていた。そんな谷が至る所に隠れていた。

 牧司たちは水を巡って、徒党を組んで対立していた。西部劇のようだが、実際のところここ武蔵も荒れ野なのだ。


     ・


 翌日、武蔵国府に辿り着く。


 思ってもみない顔に出会った。古部三郎だ。足尾にいつまで経っても帰ってこないと思ったら、何故かこんなところにいる。

 既に石灰の採掘は順調に進んでいた。毎日のように荷馬の列が足尾に向かっている。


 で、何をしていたのかと聞くと、古部三郎は風呂に入っていない真っ黒に汚れた顔を輝かせて、手のひらを開いて見せた。


「金ぞ」


 一体どこを掘っていたのか。


「喜ばぬか」


 分量が問題だろう。あと採掘しやすさも。

 話を聞く。秩父の奥地、金だけでなく銀も出る。


「鉛も錫も出よう」


 錫は嬉しい。ついでに亜鉛が出れば真鍮が作れる。さて金はいかほど出ようか。


「人足次第で有ろう」


 年に一人三両というところか、と古部三郎は言う。一両とは重さの単位、わずか銅貨三枚分ほどに過ぎない。そして、陸奥の調税が一年確か金百三十両だ。

 これは、思わぬところで陸奥の件、解決するかもしれない。

相模国司大江公資の奥さんは歌人、相模です。そして陸奥国司橘則光の前の奥さんは清少納言でした。

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#84 香りについて


 作中時代、香りを楽しむ文化は様々なレシピを生み出し、組み合わせで人物、季節、ふさわしい環境を作り出すものとなっていました。

 使われたのは練香、薫物(たきもの)と呼ばれるお香です。日本では香木を使う文化が先行して入っていましたが、鑑真和上が日本にもたらしたものの一つに、香料を粉にして練り固め、焼くなど加熱して芳香成分を出す練香がありました。平安時代の香文化はこの練香が作ります。

 源氏物語には、薫物合わせという、薫物二種類のペアを作ることを知り合いに求めるシーンが出てきます。この場に出てくる薫物レシピは6種類、梅花、荷葉、侍従、菊花、落葉、黒方、実際のところこの時代に知られていたのはこの程度のようで、更に侍従と黒方の薫物合わせ、紫の上の出したものが後の世にも多用されたことが知られています。紫の上は侍従と黒方の薫物合わせに、更に梅花を少量加えています。

 例えば黒方のレシピですが、沈香二両二分、丁子二分、白檀二分、薫陸二分、甲香二分、麝香二分、(一両=37グラム、一分=10グラム)これを清酒にしばらく浸した後練り、甘蔓の汁を表面に塗って保護したうえ、火にあぶって表面が変色するまで乾燥させて出来上がりです。

 黒方に限らず他の香も少しづつ違うレシピが伝わっており、その上侍従と黒方は仁明天皇が調合を男に伝える事を禁止したという禁制が伝わっています。

 梅花も梅の花の匂いがする訳ではなく、これも沈香や丁子、甲香(貝香)、甘松や白檀の組み合わせに過ぎません。これら香料はほぼ全てが輸入品でした。

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