#81:1020年11月 武蔵
「あれはいかがか」
「息災にて」
詳しくはこちらに手紙預かりますれば、と差し出す。
武蔵の国司屋敷、平光衡殿への挨拶もそこそこに、あずさ殿の状況報告が始まった。
最近だと、あずさ殿は馬に乗れるようになっていた。但し単独外出は厳禁である。今のところまだ鞍の付け方を教えていないから勝手に出歩くことは難しい。
「都で文選手に入れ、読まれるようお勧め致したが……」
一緒に手に入れた伊勢物語ばかり読んでいるようだ。約束してしまったアキラ作の物語はまだ読ませていない。
「伊勢はあまりよろしくなきと聞く」
実際の伊勢地方の話かと一瞬思ったが、勿論伊勢物語の話だ。確か伊勢斎宮との密会のくだりが問題だとか。とはいえお話だ。
話題を変える。
「給仕の童子共の仕事の様はいかがか」
「あ、ああ、よき働きぞ」
平光衡殿は手紙に夢中で、アキラには生返事で返した。
まぁ、働きが悪いという訳では無いだろう。足利荘の準備した手伝いの子供たちはフタロウによってしっかり掌握されていた。
アキラが育てた測量生たちの中でもフタロウは別格だった。速成の礼儀講座もほぼ完璧にマスターし、リーダーとしての素質も備えていた。
今フタロウは光衡殿の脇に静かに控えている。
アキラの後ろに控えているのは犬丸、いつだったか板橋を盗んで小金部岩丸のもとで働いていた少年だ。ようやく自分の名前が書けるようになったという程度だったが、機転が利くので伝令役として重宝している。
武蔵国府を訪れたときは源頼義殿と一緒だったが、頼義殿は挨拶などを済ませると鎌倉へと向かい、しかしアキラはこの後も武蔵で目代仕事だ。
・
翌日は武蔵の在庁たちに挨拶だ。
武蔵の国府には多くの官衙が揃っていて、直ぐ近くには五重塔の聳える国分寺まで現役だ。ただ、都の碁盤の目のような条里は見えない。国府の正門は南に開いていたがそっちには崖しかない。普段は皆出入りには北門を使っているらしい。
武蔵介、藤原の真枝殿に挨拶する。確かいつぞや千葉の寺で武蔵の国司代だった人だ。つまり地元代表という立場か。あと二人の大目にもアキラは挨拶した。
目代というのは元々は目の職位の代理の事だった。つまりそんなに偉くないのだ。
彼ら在庁もそう思っているに違いなかった。
昨日のうちに読んだ武蔵の昔の書類には、およそ干支六十年を二回は遡ったあたりで大きな変化が見えた。
郡司の名前が変わり、馬を飼う牧場の管理が国営から現地住人の世襲になる。そして、国庁から見た武蔵国の運営の大半を、馬の飼育が占めるようになるのだ。
書類で見る限り武蔵は牧司に牛耳られていたが、在庁は古くからの地元の人間の家系らしい。つまり田畑の事がわかる。
「川に堤作られるとの事、土侵すは不吉ではなかろうか」
藤原真枝殿はこの時代の人間として当然の認識を示した。アキラは近頃の記録にある水害の被害記録を示した。
「今年川暴れるをそのままにすれば二百町は作失せよう。つまり米四百石ぞ。土盛りは四百石の田作りと同じ事。
武蔵国中合わせておよそ四里ほど土盛り、堀つくりたき。
そもそも疱瘡により今年の作は少なきゆえ、来年の夏には救民の要があろう。賦役を春夏に課して救民としたき」
堤防工事の労賃として米を分配するという理屈だ。
武蔵は大国である。郡の数は21、郷の数は95ほどにもなる。郡の数は下野の倍以上だが郷の数が倍も無いのは、広大な武蔵の殆どの土地がそもそも耕作に適していないからだ。
つまりそれほど豊かではないのだ。
その理由の大半は、川にある。
「次には豊島のあたり、佃から水抜く堀作ろうぞ」
佃とは収穫の少ない湿田のことだ。腰まで泥に使って働いても一段あたり一斗も収穫が得られない悪田だが、ここ武蔵ではそんな田ばかりだった。
武蔵を縦横に分断する利根川、荒川、多摩川はいずれも洪水のたびに中流も下流も暴れまくっていた。台地のすぐ下の湧水のある辺りにしか耕地は存在せず、つまり台地の上と下流は全くの不毛の地である。
まずは佃を排水して乾田に変換したい。更に沼地も乾田にしたい。洪水さえなければ下流は全て耕作適地なのだ。
その後で、未来の東京都全域を占める台地、武蔵野に手を掛けることになる。
やがて話は農政策から各地の事情へと逸れていった。藤原真枝殿は秩父のあたりが本拠らしい。
「銅採れるというのは昔の昔の話ぞ」
鉱山を掘りたいというアキラの話に藤原真枝殿はそう答えた。和同なんて言葉が出てきたが、奈良時代か。
アキラが興味を持っているのは石灰だ。藤原兼光との関係がこう険悪になっては、安蘇郡から石灰を掘るのもそろそろ限界だろう。
石灰には幅広い用途がある。シンプルに肥料に使うのが多分一番賢い。つまり大量に欲しいのだ。
秩父セメントという言葉をアキラは覚えていた。セメントといえば石灰だ。そのくらいの認識でアキラは秩父に興味を持っていた。
「ただの白き石にて。銅でなく」
焼いて砕いて水に漬けた石灰を黒ボク土に混ぜる話をしたが、あまり興味は持ってくれないようだ。だが、三和土と漆喰の話になって、
「ああ、あれか、あるぞ」
あるのか。
・
宿舎に戻るとフタロウが待っていた。算木について教えると約束していたのだ。
紙の上に桁線を引いて算木を並べ、六ケタの足し算をさせる。結果を紙に書く。紙はいくらあっても足りない。この先幾何も教えるとなったら大変だ。増産を考えねば。
掛け算も教える。小数も教えたいがどうしたものか。まずは分数か。
ひととおり教えると、練習問題をやらせる。
そろそろ、自分で人を育てられるようになって欲しい。
「吾子はここで人を見て雇い、文字や算も教えねばならぬ。
測量は早めに取り掛からねばならぬ。国司在庁に話通したゆえ、会いに来た者のうち良いと思いしを育てよ」
大変な仕事だが、フタロウならやるだろう。
フタロウら年長組も来年辺りから元服する者が出てくる。それまでは給田を与えることもできないから、必要経費の中から給与は捻出する必要がある。
アキラの懐具合は相変わらず厳しかったが、人は絶対に増やさないといけない。
「大変と思いしなら、人をもう一人二人寄こされよ」
ふむ、誰が欲しいか。
「アサマルが良き」
あほうめ。誰が手放すか。アサマルは今、足利の測量講座を一人でまとめていた。
アキラは測量機材と共に、読み書きのできる手伝いを一人寄越すことを約束した。
手持ち無沙汰になると、宿舎の外がなにやら騒がしいのに気づく。
「あれは何ぞ」
裸足の人々が歩いてゆく。
「あれは疫座ぞ」
フタロウが言う。
疱瘡の防ぐ法があるという噂は、接種技能者を郷に呼ぶために財を出し合う一座の結成をここ武蔵で促していたらしい。一座は他にも疫病退散のために様々な修法を主催するとフタロウは言う。
「下野長者明神とやらを祭るとか」
結局神頼みか。もうちょっと医療技能者が育って欲しいのだが。
・
今年の収穫をまとめて光衡殿に報告して、今月の目代仕事は終わりだ。この後は相模に行かねばならないが、その前に遠回りしてやるべき用事があった。
北へとぼとぼと馬で進む。
風景にひと気が無いのは、何も寒々とした冬景色のせいだけでは無いだろう。
道沿いに小さな盛り土が並ぶのに何度も出くわした。大抵はそれは郷が近いことの印だった。住人たちは郷のはずれに死体を埋めているのだ。
安楽寺という真言宗の寺に泊めさせてもらう。寄進物を収めて僧侶一人に出張法要をお願いする。法師様を馬に乗せ、アキラは馬を曳いて更に北に歩く。
・
村岡は古い郷ではなく、交通の要衝に出来た新しい村だ。
足利から南に利根川を渡り荒川に接続する新道の、その荒川の向こう岸の村で、アキラは何度もその姿を見ていたが実のところ足を踏み入れたことは無かった。
村岡は更に南の多摩川への近道の起点でもあり、往時は多くの行商人で賑わうと聞く。但し今は賑わっているとは言いがたい。
道を挟んで家が並ぶ。
アキラは一軒一軒訪ねてまわって、そして行商人タキジロウの生家を突き止めた。
タキジロウは種痘の恩人だ。種痘の膿は彼から採ったものだ。
妻と年老いた老婆、子供が一人。子供はこの疱瘡で三人が死んだという。アキラは遺族に、タキジロウの最後を看取ったことを報告した。
呆然とする妻に、絹五反を手渡し、法会を行いたき旨を告げる。
家の周囲に人が増える。こんなに人が居たのか。
人垣をかきわけて、若武者が現れる。
「誰ぞ」
アキラの名乗りを聞いて、若武者の表情がわずかに歪んだのが見えた。
若武者は村岡の将恒と名乗った。
なんと平忠常の弟だという。いや、年齢的におかしいだろ。若すぎる。
法会は村岡の将恒の屋敷に場を移して行う事になった。
庭に蓆を敷き、小さな護摩壇に火が点けられ、経が読まれる。法師の後ろにアキラと若武者が並び、その後ろに遺族が並び、更にその後ろに村人たちが座る。
柴垣の御蔭で寒風はさほど厳しくなく、短い法会は終わった。
若武者は屋敷で饗応したいと言う。アキラは先を急ぎたかったが、法師は饗応と聞いて目の色が変わっている。僧侶にとって寺の外で饗応にありつくことは大事な役得なのだ。アキラは招きに応じて一晩屋敷に留まることとした。
差し出された杯を断ることはできない。しかし思ったよりずっと濁り酒は美味かった。製法でこれほど美味くなるのか。
村岡の将恒が自分の領地の村の、その商業的意味を熟知していることは明らかだった。ここ数年で荒川に増えた船の数、馬貸の数を挙げて、最近の東国の交通の変化を論じる。
「今では陸奥まで物売りに行きおる。これは陸奥が近うなったと考えるべきや。道は国を近うしおる」
会話は他愛のない話で弾んだ。
「武蔵を南北に二百里、真っすぐの道を作りたき」
アキラは従来からの構想を披露した。足利から鎌倉まで、南北にまっすぐ二百里を馬車の走る道で繋ぐ。人々は二百里を一日で移動するようになるだろう。
朝に海で獲れた魚を、上野や下野で夕餉にそのまま食べることができるようになる。
「荒川に橋、と」
まさか、と若武者は言う。しかし、橋が出来れば、
「勿論、利根川も多摩川も」
川の中に安定した支柱を立てる方法を研究しなければならないが、勿論できるとも。
アキラは更に、利根川と荒川の流れを付け替える構想を語った。
こっちはまだぼうっとしたものだ。しかし21世紀の川の流れに利点があるなら、今そうしても利点はある筈だ。
「大きなこと言いおる」
吾子はそのうち空飛ぶ話でも致すやも知れぬ、そう若武者はアキラを揶揄した。
・
朝になって、冷静になった頭で昨日のことを思い返す。
冬の日の朝、法師様はもう起きているようだ。
上掛けを跳ねのける。
まずい。
ここ村岡は要衝に過ぎる。
ここが平忠常の親族の手の中にあるという事はどういう事か。
以前、栗橋が封鎖されたとき、その手前から荒川を経由した迂回輸送路を利用した。あの時、荒川の向かいにあったのが村岡だ。
村岡での荒川の封鎖は、関東の水上交通にとって致命的になりうる。せっかく作った道路も意味を無くす。
板張りに足音がする。
村岡将恒がやってきて声をかけてくる。
「ようやく起きられたか」
アキラは何か言葉を言おうとして、飲み込む。
やってきた若武者の裏表の無さそうな明るい顔が恨めしくなった。
#81 武蔵国について
古代において武蔵国の耕作地帯は、台地の崖下の湧水を利用できる地域に限られていました。武蔵野台地の縁に耕地と住居は点在していたのです。
七世紀、高い技術を持った渡来人たちは郡司として北武蔵の各地に寺院を造営しました。例えば郡内に2つしか郷が無い高麗郡には3つも寺院が創建されています。しかしこれら寺院は九世紀には皆廃絶することになります。
代わりに武蔵には馬を飼う牧場が広がることになります。それまでにも牛馬を飼う諸国牧はあったのですが武蔵にはありませんでした。それが八世紀に軍馬供給を目的とした勅旨牧が武蔵にも開かれることになります。延喜式には武蔵に4牧、毎年計50頭を税として納めるよう書かれています。
平将門の乱の数年前、宇多法皇の経営する牧2つが、宇多法皇の死によって新たに勅旨牧として加えられました。これは国司源経基の戦力として即座に編入されたことでしょう。
武蔵の武士団、武蔵七党の多くは牧司をその出目としています。多摩川と荒川の上流の山あいの入り組んだ谷地に彼らは耕作地を広げ、更にその奥に牧場を開設しました。
彼らの出目には様々な説があります。受領の郎党としてやってきた下級官人をその祖とするのが主流の説となっていますが、例えば日奉氏の祖として該当する貴族は見当たりませんし、横山党の祖が小野篁だというのも論外でしょう。一方日奉氏の祖は太陽崇拝に関わった古代の日祀部に関係すると言う説もあります。
現実的な論から言うと、新規に開墾された牧場は他の牧場から人員を移入して運営された筈です。この関係で明確に判るのが宇多法皇の運営していた阿久原牧、小野牧の二つで、宇多法皇は近畿摂津の近都牧である鳥養牧に遊行したことが知られています。恐らくは人員の多くはこの牧から移動されたと思われます。阿久原牧は武蔵七党の児玉党、小野牧は横山党、猪俣党と密接に関連しています。
それ以前の古い牧は日奉氏を祖とする西党の経営していたものと思われます。各党の各苗字は彼らが開墾した私領私牧の名前でもありました。
武蔵七党の残り、丹党は秩父の、野与党は埼玉の土着勢力だと考えられています。野与党の祖には足立郡司武蔵武芝がいるとされ、足立郡司の家系と考えることが出来ます。村山党は時代が下がった頃の新興武士団です。
興味深い点として、武蔵は他の関東諸国と比べると俘囚の移入が少なかったことが挙げられます。上野や常陸と比べると一桁少ない移入数で、武蔵の武士の祖として他国と違い俘囚は大きな要素とはならなかったであろうことが推測されます。