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#79:1020年9月 騎行

 下野から、ようやく頼んでいたものが届いた。

 鋼の細長い薄板およそ12枚。車弓こと板バネだ。

 元は二輪馬車用にと作っていた物だ。二台分を、今回四輪馬車一台に全て使う。


 馬車の車輪も車軸も、そして車体も既にあらかた出来上がっていた。木工寮の工人を雇って作らせたものだが見事な出来映えだ。

 設計はアキラの知っている欧米の馬車をベースに考えていたのだが、まず乗り降りの出入り口に問題があった。


 この時代のスタンダード、牛車は屋敷の縁側にその後端を直に付けて、そのまま乗り降りが出来た。足を地面に付ける必要が無いのだ。

 同じように出来なければいけないと、平直方殿から注文が付いた。対応するため、一般的な縁側の高さまで馬車の車高を調整する。


 乗客は最初、車内では椅子に座らせる事を考えていた。宮中では椅子に座ることもあると聞いていたのでどうかと思ったのだ。しかし不評だった為、畳敷きに変更だ。

 車体の上構は壁の無い軽量な東屋(あずまや)仕立てだった。柱は黒く漆を塗り、壁の代わりに御簾が掛かっている。屋根は薄いこけら葺きだ。


 進行方向側にだけ風除けを兼ねた木の扉はあって、小さな窓が開口している。つまり前からも乗り降りできる。牛車では後ろから乗り、前から降りるのだ。

 これも平直方殿の注文だ。


「何事も先例と同じこと出来ねば、悪しきと言いおる者が出ようぞ」


 新規モノへのクレームは千年経っても変わらない。旧バージョンと全く同じことが出来なければ全否定する奴が必ずいるのだ。

 同じく平直方殿の強い要望のため、馬は頸木のところで(ながえ)、馬車と馬を繋ぐアームから簡単に外せるようにした。

 これで馬車の前から本当に人を降ろせるようになった。

 その上左右からも降りることができる。左右にはステップを付けていたから、できれば左右から使ってもらいたい。


 馬車は二頭立てだった。

 その当初から源頼義殿と平直方殿がその御者を買って出てくれたのが最後の調整を容易にした。二人は交代で馬車を走らせ、細かい注文をアキラに浴びせた。


「家の走るごとき」


 平直方殿はべた褒め、一方源頼義殿は厳しい。


「都で馬車使うこと増えれば、東でも車使い易くなるというのは良い。

 だが、一度出た令は変わらぬ。車使いたくば、もう一つ考えの要ろう」


 完成した馬車を藤原能信の屋敷に納品すると、そこから更に細部に改造が施された。五色の綾が室内を飾り、透かし彫りの手摺が車体の外部を飾る。

 着飾って目見麗しい二人の童子が御者として訓練された。双子のように背格好の似た二人だったが、馬車の説明をするアキラには目もくれない。


 ひととおり説明を終えると、そこから先はアキラは関知していない。


  ・


 頼義殿は下野行きの準備で忙しく、藤原能信への都を辞する挨拶はアキラ一人でとなった。


「良き奉仕であった。院の喜ばれること限りなき。暫くは何の憂いも晴れよう」


 べたぼめついでに、書付を一つ、ぽんとアキラに投げてきた。


「院の宣下印可よ。頼義とそれの命じるものは、上野下野で馬と車使うこと自由となる。

 院は馬車をいたく気に入られた。馬車よく使うは東にては良しとの仰せよ」


 望外の成果だ。とはいえこれは主に頼義殿の働きかけによるものだ。

 お願いしてみるものだなぁ。


「東に下るとなると寂しきかな。

 ちと、そこに烏滸(おこ)絵でも描き残しゆけ」


 藤原能信は背後の屏風を指差した。

 えっ、もう帰ろうかと、これから木工寮のほうに廻ろうと思っていたのですが。


    ・


 何を描こうか。

 烏滸絵とは即興で描く、要するに落書きの事だ。

 ロボとか戦車とか描きたいところだが、それは駄目だ。人物画も、今いきなりは難しい。やはり風景か。

 無難に富士か。いや、期待されているのはパースの効いた絵だろう。

 文机を借りて、陽が落ちる頃まで庭先でスケッチをあれこれやった後、屏風に向かうと、アキラは一気に仕上げた。

 水墨画でもやっていれば良かった。しかしそういう機会は無かったので、墨の濃淡、微妙な筆致は捨てて、逆にベタ塗りでどうにかすることにした。

 夕暮れ時の影の濃い頃、屋敷の軒の重なる様を陰影で描く。コントラストの強い感じにすることで細部の描写を省く。時間無いし。


「面白き烏滸絵ぞ」


 出来た頃にやって来た藤原能信は言う。


「東より絵描いて送れば、貢ぐの多少は免ぜようか」


 マジだろうか。


   ・


 翌日、朝暗いうちに木工寮へ行き荷物を回収して戻ると、ちょうど下野行きの面々が屋敷を出てくるところだった。


「置いていくかと考えておったぞ」


 頼義殿に挨拶すると、工具箱を馬に急いで載せる。

 武者たちは屋敷前の小路で馬に乗り、隊列をつくっていく。小路とは言っても幅は10メートルくらいあり、隊列を組むにも充分な余裕がある。

 武者たちの後ろに荷物を積んだ馬が並ぶ。最大の荷物は鎧だ。武者三十騎分の大鎧が、馬十五頭で運ばれるのだ。

 その後ろに雑多なものを積んだ馬が並ぶ。最大のものは布と糧秣だ。長い旅路になるのだ。

 アキラも馬に乗る。アキラはこの秋の除目でめでたく正六位下、内匠助となった。本来ならば都で仕事をしなければいけない職位だったが、正六位というのは地方に行ったままとかそういうのが許されるぎりぎりの官位だと聞いた。

 六位までは官人、五位からは貴族だ。


 歩きで随行する雑色も数人いる。更にアキラの供を二人加えて一行は総勢45名、馬は60頭にのぼった。これだけの馬を揃えるとなると、半数は借りものとなる。


 陽が高く昇る頃、一行は出発した。


  ・


 賀茂川には真新しい死体が漬かっていた。

 五条の橋を渡る。


 武者たちが八坂神社に参るために隊列は一時休止した。アキラは隊列の留守番だ。


 粟田口を東に超える。山科の野に真新しい卒塔婆がぽつぽつと見える。

 遭坂の関を超え、瀬田の唐橋を渡り、野路の宿に投宿する。

 次の日は雨だった。ぬかるみの中を進む。


   ・


 人数が多いと旅路はゆっくりにならざるを得ない。台風が更に足止めしてくる。

 渡河は丸一日がかりの大仕事で、それが三本連続してあると、流石に苛立ってくる。とはいえ台風で水量が増しており、慎重にならざるを得ない。

 随行する武者たちも雑色も皆種痘の接種済みで、御蔭でさまざまな事に無頓着でいられたが、離れた小屋から漂う死臭、河原の野犬に食われる死体はいやでも目についた。


 アキラの供二人は、アキラの世話をしてくれる訳では無かった。逆だ。アキラは何かにかけて二人の面倒を見た。

 一人は木工寮の工人見習いだ。できるだけ若くて学習意欲のありそうな奴をスカウトした。下野の貞松らの噂のまことのところと称して、アキラは話を聞きに来る若い大工たちに色々吹き込んだのが功を奏してのことだった。名前は山辺の高丸という。 

 もう一人は陰陽法師。蘆屋次郎法師と聞いて、何か有名な人かと思ったが、有名なのは兄だそうだ。この人は石川次郎、意外にも暦づくりに飛びついてきた。

 

「まじないなぞより余程良き」


 アキラが考えているのは太陽暦ベースの農時歴だ。紙一枚にまとめて木版で刷ろうと考えていた。当初はその考えに難色を示した石川次郎だったが、太陽観測の話をすると案外に食いつきが良い。そのうち測量も仕込んでみたい。


 一行が進む間にも日々は過ぎてゆく。

 北美濃の田は稲穂の実りもばらばらで、明らかに今年の収穫は少ないだろう。


 アキラと頼義殿は事あるごとに話し合った。


「騎馬武者を三百は欲しいが、難しきか」


 アキラは少し考えると答えた。


「どれほど他所から勢を集める事できるか、足利だけなら百より上は難しきかと」


 難しいのは鎧だ。充分な防御力のある革鎧を作るには牛革が要る。

 アキラは鹿革に鉄の小札の組み合わせを考えていた。

 足尾産の鋼は圧延が効く。鉄板を薄く作ることができるだろう。そうすればいくらか軽くできる。

 しかし、高くつくのは変わらない。

 他の兵で補いましょう、とアキラは提案した。

 北郷党の一部を中核に弩使いを編成したい。その数およそ百人。


「使い様では千騎に値いしましょう」


 一行は木曽道を北上する。

 木曽道に宿は無い。暗くなるまで進んだのはいいものの、暗くなってから民家に無理やりお邪魔、というより押し入って、奪うように食事と寝床を求めたが、食事は足りる訳が無く、しかも馬に秣を与えるために、出発は昼頃になってしまった。

 いかん。

 頼義殿は兵站が苦手とみた。


「少し先を行き、今日の宿早めに見繕い置きたき」


 アキラは頼義殿に断って先行した。


   ・


 木曽路はすべて山の中である。

 耕地は谷のそばに小さなものが散在するのみで、多くは麦畑だった。道はしっかりしており、恐らくは行商人が行き来しているのだろう。

 集落は道から遠く、向こうの山腹にへばりついている。アキラはうち幾件か尋ねて米と山菜をいくらか得た。

 境の神社と思しき所で、アキラはここを宿にすると決めた。

 境内の草を刈り秣に当てる。薪を集めて竈をつくる。


 谷の陽の落ちるのは早い。

 一行がやってくる。


「ここか」


 更に進めぬかと頼義殿は不満げだったが、武者たちは全員に食事が行き渡るのに喜びの声を上げた。


    ・


 翌日はもう一人人手を借りて手分けし、民家数軒に分かれて泊ることが出来た。

 結局、木曽路は三日かけて踏破した。


 信濃に入ると宿を求めたが、支払いの布を渡すのを見た頼義殿は、さほど布積んでおったか、と呟いた。


「足りぬと思い、布一倍積み増しております」


 答えると、頼義殿は深刻な顔で聞いてきた。


「アキラよ、人馬動かすに要る算はいかなものか」


 兵站とは、まずは計算、そしてマージン、最後に想像力だ。


「人が四十五、馬が六十、旅路が十八日。食べて寝て、疲れれば休む。旅の前にここまで考えた上で、更に河渡る時の都合、遅れなど考え、その上で旅の是非を決めなければなりません。

 旅に無理ありとして行かぬも、また正しきかと。

 人馬動かす算は、動かす前に全て済ませておかねばなりません。布足りぬと思いしも、これゆえ」


 もう一点、追加だ。


(かたき)もまた人馬動かすに算をしております。此れ破らば、敵は戦わずして負けましょう」


   ・


 碓氷峠に差し掛かった頃、頼義殿はようやく予期していた質問をアキラにした。


「吾子は何を望みおる」


 どう答えたものか、ずっと考えていた。見えていないものを、どうやったら見せられるのか。


「官位得ることは望みではありませぬ。

 武功立てる事も、料地得る事も望んではおりませぬ。富得る事も望みではありませぬ。

 吾が望みは百姓衆生皆を豊かにし、良き暮らしさせることにて」


「ふむ。何ぞの寺の供養のごとく聞こえる。出家が望みか」


「仏僧はその口で言う本願を決して果たしておりません。


 吾の望み果たす法は、出家に非ず。

 田を広げ、土を良く変え、水を引き、稲穂より米粒取るを助ける物を作りました。これで百姓の夏飢える事無きようになりましょう。

 そして道を作り、炭粉を塩作りに送りて塩を安くし、桶を作り、美濃瀬戸のごとき焼き物を作り、これらは皆百姓が作り売り買いして財持つようにとしたものにて」


 言葉を切って、そして続ける。


「冬は皆暖かく暮らし、病に苦しむ事無く、読み書きの出来、飢える事無き民。これらは決して夢の如き空事ではありません。

 吾はすでにその半ばを果たしております」


 アキラは世界が少しづつ変わるのを楽しんでいた。

 とことん地味なシム系シミュレーションのようなものだ。手掛けたものが何らかの実を結んだのか、ごく僅かだったがそれでも反応はある。

 じんわりとした楽しさが、地獄の中に未来に繋がる暖かさが、そこにはある。


「わからぬ」


 頼義殿が口を挟む。


「心地悪しき事言いおる。銅銭作りしは何のためぞ」


「富を望んでおらずとも、富の要ることがあります。

 例えば、官位の欲しき者はまず富を得て、これを献じましょう。


 常陸の武者は田を荒らし百姓を苦しめ、ゆえに(いくさ)せねばなりませんでした。

 そして川に橋を架け、堤作り、道を作ろうとすれば、国司の権の多くが要ります。

 勿論、橋一つ架けるに、誰が財投じなければならぬ事。

 弓も富も権も、吾が望みには要るのです」


 頼義殿は首を振って言う。


「もっと何ぞ無いのか。女は、恨みは、

 我欲は、妄執は如何にあるか」


 ある。妄執なら自覚している奴が一つある。


「あと一つ望みは、吾が妻の敵を討つことにて。

 この(あずま)のどこか、吾の敵のいずこかに妻の敵もおりますれば、片端から討ちて片付けましょうぞ」

#79 乗馬と車輌利用の制限について


 平安時代を通じて、牛車の利用を制限しようという試みが何度も行なわれましたが、多くの場合大して効果は無かったようです。

 9世紀の初めには四位以上の乗り物だったものが、9世紀終わりには誰もが乗るからと一切の利用を禁じる事になりました。その後身分の有る女子のみが乗車を許され、しかし暫くすると男子も乗ることが許され、そして結局また誰もが乗るようになりました。

 長保元年つまり999年の宣旨で六位以下が車に乗ることが禁じられました。いわゆる長保元年令のうちの一つです。これは法曹至要抄の禁制条十二に詳細が載っていますが、違反は検非違使によって杖打ち80回から鞭打ち40回までの罰が与えられるとあります。

 牛車の制限は、その車格や従者の人数に対しても存在しました。代表的な牛車である網代車は四位から、その下は莚張り、六位は板、床は塗るべからずとその材質にも制限が課せられるようになります。

 長保三年には牛車だけではなく、乗馬に対しても規制は拡大されます。諸司諸衛番、官人以下の乗馬を禁じたのです。長保元年令は以降も取り消されること無く、微修正と再施行を繰り返して永く効力を発揮しました。但し、それがどこまで厳密に施行されたかというと怪しいものでした。

 馬車の使用は遂に見られることがありませんでした。漢籍には馬車は頻繁に出てきますから日本でも知られていた筈ですが、使われなかったのは不思議です。

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