#77:1020年8月 木工寮
二条の大路を西に歩き、堀河を超えたところに木工寮があるという。
今日はアキラは一人である。手には荷物が一杯だ。
六条の源頼信殿の屋敷からだと、二条大路はかなり遠い。
軒を接して家の並ぶ五条を歩き、藤原能信の屋敷のある四条を過ぎ、巨大な屋敷の間を通る。片方は焼けたのか多少煤けている気がする。ここまで 2キロくらいか。
ひたすら幅の広い二条大路を西へ折れ、巨大だが陰気な屋敷の向こうを流れる堀河を渡ると、それらしき場所が見えた。
木工寮は内匠寮の別所であると聞いた。別所とは要するに作業場のようなものだろう。アキラは内匠大允だから正式にはそこに所属する官人なのだ。
という訳で、2年遅れの職場挨拶となる。
敷地は道に面しては築地塀で囲まれていた。小路に折れると門がある。
門に扉は無い。くぐると、胡乱な目つきが幾つかアキラに注がれる。
「内匠大允、藤永のアキラである」
知った顔がいてくれれば楽なのだが。
二年前に頼信殿の屋敷に来てくれた大工たちは木工寮の工人ではなかったが、この隣の長屋には都の大工の大半が住んでいる。しかし長屋を一軒一軒覗いて廻るというのは流石にはばかられた。
「二年ほど前、六条の前上野守のところで働いたものを知らぬか」
大声で呼びかけながら、連なる作業小屋、掘っ立て小屋のあいだへと踏み入る。
幾人か姿を現したが、ちょっと少ない気がする。皆袴の上ははだけて、日陰から出てこない。
そりゃ夏のさなかである。アキラだって暑い。紺の水干は風が有ればなんとか耐えられるが、今日のように風が無いときつい。
うまいこと、木工寮に彼らを知る者がいてくれれば。しかし、そもそも頼信殿とその屋敷について知る者がいないようだ。
仕方がない。当初の目的を果たそう。
「ところで鐘鋳るに詳しき者おるか」
「ここでは鐘は鋳ておらぬ」
一人出てきた。アキラはそちらの軒下の影に移動した。
日に焼けた壮年の男だ。
「どの位なら銅鋳ておる」
「せいぜいが印の幾つかよ」
つまり、規模は違えど経験者だ。
「ふむ、物知りと見込んで聞きたき。鐘ひとつ鋳るに、銅はいかほど要るか」
男は顔をしかめた。
「呆れるほど要るのは確かぞ」
アキラは銅銭を一枚取り出して、渡した。
「これが三十万ほどあれば、作ること叶うか」
「三十、万」
男はしばし絶句した。
やがて、答える。
「鐘は近くは他所の鐘を鋳潰して使いよる。古き鏡も御仏の為にと鋳潰し、それでもうまく出来よらん。
この春に何処の寺の鐘、御堂関白の御声掛かりて鋳た所あったようだが、出来たものは割れておったと聞く。良く湯流れぬは、銅が良くなかったのであろう」
男は銅銭を日差しの中に突き出した。まぶしい。
「これほどの銅は見た事無き」
そしてアキラに向き合う。
「三十万あれば出来おろう。かつて銭二十三万枚で鐘作ったと聞いた。いかほどの大きさかは知らぬ。しかし、間違いなく出来おる」
アキラは手に持った酒壺を相手に押し付けた。
「暑処見舞いぞ。皆で分けよ」
・
木工寮の建物の殆どは壁のない貯木場だった。雨晒しで積んである丸太もある。
ただ、貯木場のほとんどは空っぽだった。
広い屋敷と同じくらいの面積のある木工寮には、今は10人程しかいないように見えた。
「この木は何に使う」
アキラは盃を取りに歩く職人を呼び止めて訊いた。
「わからんよ」
酒を飲みに行きたそうだったので引き留めず、男が酒をせしめた後で更に聞く。
「ここでは色々作る。あれはそのための料分ぞ」
ここでは貴族のさまざまな注文に応じて什器などを作るらしく、その時の為の資材という事らしい。そのうち酒で口が軽くなって、ここの本当の仕組みを漏らす奴も出てくる。
「余った分はここで分けて色々作りおるが、それも給のうちぞ」
材木は年に何本と決まった数が納入される。その年に使いきれなかった材木は木工寮の官人の判断で、職人が処分することができる。
その木材で職人たちは什器や様々な道具を作り、これが市に流れる。実のところは完成品よりも部材の方が流れる分量は多い。そしてここから部材を仕入れた連中が更に様々なものを作るのだ。
「この先に扇子作りおる職人が住む」
この辺りに職人たちが固まって住んでいるらしい。
思った通り、木工寮は大工や木工職人たちのサロンのようになっていた。民間の材木屋が無いのだから、材木を手に入れようとすれば木工寮に来るしかないし、下請け仕事も木工寮に来ればあるかもしれない。
何故に今頃の用事か、と聞かれて、下野の住人である旨を話すと、貞松なる匠は知らぬかと更に聞かれた。
「その貞松は二年前に吾が下野に連れ行った者ぞ」
そう聞くと、大方の反応は、やはりそうか、というものらしい。
「東では小事何事も大事のごとき。青虫の作りし六間ほどの小さき橋で匠と呼ばれるとは、東の文物というものは皆劣りおる」
むかっときた。
「その六間、間に柱立てておらぬ。橋の幅は一間、車通しおるぞ」
「いかほど太き材使いしか」
「あれ程ぞ」
アキラは貯木場の丸太を指さした。
「おかしな事言いおる」
喧嘩腰で無理だと言ってくる工人たちにアキラもむきになった。
「見ておれ」
・
「アキラ殿、何をしておられようぞ」
端材で作った小さなトラスフレームを囲んで大勢で議論している最中に、背後から声がした。
「いや、これが弱きはただ縄で結びおるだけにて、結び直せば」
話している途中で振り向くと、知った顔があった。
二年前、頼信殿の屋敷に来た三人のうちの一人だ。
・
一人は春先に疱瘡で死んだらしい。
貞松もまた疱瘡で死んだことを告げる。
「若くして匠と呼ばれおると聞いておったのだが」
しんみりした空気になる。
当の本人は今どうしているのかと聞くと、法成寺に付属する僧坊の建築に通っているという。若手の下っ端だったのも昔の話、今や立派な指図の一人だ。
「この頃は都に板屋ばかり増えおる」
大鋸のインパクトは最近ようやく浸透し始めたところだという。なんとかコピーした鋸も最初はうまくいかず、しかし二つ目でなんとか使えるものが出来た、と。
探すと、この木工寮にも真新しい大鋸がある。
「この方こそ大鋸の祖、まことの匠ぞ」
こう大げさに褒められるとこそばゆい。
鉋を下げ渡して貰えぬかと相談される。今は使うたびに六条の頼信殿の屋敷まで借りに行っているらしい。
世間話の合間に、作りたいものを説明してゆく。
「また車作られるか」
今度は更に大きなものを作る。その為には、準備が、治具が要る。
新しいやりかたで車輪を作るには、蒸し釜が要る。アキラは地面に図を描いた。
竈作るなら陰陽が要るぞという意見に、我がその陰陽ぞ、アキラはそう言い返す。土運ぶのに猫車も作るか。
「木を蒸すに板組みにて箱作る、これに一枚、車の輪作るに大き木挽き轆轤作る、これに一枚……」
やることをそれぞれ説明し、棒銭から銅貨を一枚一枚取り出し、地面に描いた図のそれぞれに置くと、大工たちは競うようにそれを取っていった。監督は知り合いの大工に任せた。
銅貨一枚で終日喜んで作業してくれるとは、銅の価値は今どのくらいまで高騰しているのだろうか。
気を付けないといけない。まるで銅貨が通貨のように流通しているように見えなくもないが、これは木工寮が銅鋳物も扱っていて、銅地金の価値を熟知しているからこそ、なのだ。
・
帰りに藤原能信の屋敷に寄る。
裏手の通用口から入れてもらって、家司の誰かに藤原能信へ伝えてもらうよう頼まなければならない。
三百貫、三十万枚の銭で、梵鐘を作ることができる、と。
さて、問題は、この屋敷の家司について、実際のところ誰も知らないという事だった。
藤原能信ほど偉くなると、傍にはあれこれと手先になって働く、五位くらいの貴族がいる。それが家司だ。
五位と言うと、およそ国司がその辺りだ。つまり偉いし権力がある。それが使い走りに甘んじているのだから、これを下っ端であるアキラが呼びつけるとなると問題が生じる。
実際には雑色に、どなたか家司へ取次ぎを、と頼んだのだが、さてどなたが来るか。
アキラは誰も知らないのだから、まぁ誰が来ても同じなのだが。
直垂姿の若い、アキラと同じくらいか少し若いくらいの年頃の男が二人現れた。
二人とは。
手振りで促されるままに屋敷の奥へと進む。
まさかこの小屋に入れと命令されているのか。振り向くと更に二人。
アキラは囲まれていた。
「何を……」
そこで蹴られた。
息が詰まる。
くそ、これはリンチだ。
それほど生意気にでも見えたか。
帯刀していなかったのが悔やまれる。が、こうなっては仕方がない。
要は四対一ではなく、一対一で一人づつ潰すことだ。
素早く動く。アキラは手近な一人の袖を掴むと思い切り引っ張った。
よし、一人釣れた。烏帽子を落として慌てている。
アキラは勿論、烏帽子が落ちるのに構わない。
袂の後ろを掴む。
そこで、柔道をそれほど正確には覚えていないのに気が付いた。大外刈りとか、体が覚えているのを期待していたのだが。
両手で。腰を落とし蹴り上げる。
奇麗に決まった。流石に巴投げは覚えている。投げ飛ばされた男は背後で小屋を揺らして大きな音を立てた。
アキラは転がるとそのまま這いずって動いて距離を取った。
落ち着け。
こいつら、北郷党の連中と最初に相撲やった時に比べれば、たいしたことは無い。
立ちあがると中腰で低く構える。
厄介そうな奴、あいつに決めた。きっと蹴ってくる。
腰を低く落としたまま突進し、相手の蹴りを掴んだ。
そのまま崩し倒して蹴りを入れる。もう一発。
こいつらは子供みたいなものだ。アキラとは体格がそれくらい違う。
棒を持ち出した奴に土を掴んで投げる。怯むところに懐に飛び込む。
なんか、思い出した。内股は奇麗に決まった。
高等教育万歳。
残り一人は逃げたようだ。そこにわらわらと屋敷の者たちが集まってくる。
落とした烏帽子についた土を払い、被る。
・
「四人で掛かりて、この在り様か」
板敷きに四人座って並ぶ前で、藤原能信は扇子を手に打ち付けて鳴らした。
うち二人は直垂の裂けたまま、一人はひどく顔が腫れている。一人は胡坐もかけぬ様子だ。
「これが往来なれば、他所の屋敷であれば、吾子らは検非違使に捕縛され、吾は御堂に頭を下げに参っておった」
そしてこの様は笑いものとなったであろう。そう言ってアキラのほうを向いた。
「この屋敷の中で良うあった。目代よ、ここで有りし事言われるな」
「こちら取り立てて言うべき仕打ち被らざるゆえ、申す事もありません」
アキラは答える。藤原能信は噴き出した。
「まことか。何やら傷でも負っておらぬか。後より言い立てる事無きや」
「まことは、どなたかより良い蹴りを一つ頂き、それが少し痛くあります」
「正直よの」
ほれ、下がれ、と藤原能信は手を叩いて四人に促した。
さっきの喧嘩で噴出したアドレナリンが抜けてきた頃合で、アキラは今とにかくおそろしくキツいし眠たい。
だが、まだ、もうちょっとシャキっとしていないといけない。
「銭三十万で鐘作る事出来ると、木工寮の者共に確かめました」
アキラが言うと、ふむ、では半分ではどうか、と聞いてくる。
「かつて、銭二十三万で鐘作ったと聞きました」
藤原能信は少し考えて、
「三十万で良き鐘作るが良いか。下野は遙任させよう。
それと、三十万より増やせぬか」
「東は疱瘡の流行りにより、民の働きが弱うあります。この二年は三十万より多くは出来ぬかと」
「疱瘡除けの法の有ってもか」
「有りて三十万、邪魔あればそれも危うきかと」
「二年ののちは」
「民数次第にて。下野ではそれが限りと」
藤原能信は扇子をアキラの烏帽子に当てた。
「上野も遙任とすれば、如何にする」
「調銭をお認め頂ければ、同じように、別に三十万」
「……下衆が大きい事を言いおる」
・
痛めつけられたところが熱を持ち、次の日アキラは半日寝込んでしまった。起きてみると、顔の青痣の酷きと皆が言う。その日は静かに養生することにした。
翌日は淀川を下って九品津へ行く。
上野、下野の国司への挨拶が予定されていたが、それはまだ、今日や明日ではない。
夏の暑い最中だったが川辺は涼しく、雨が少し降ったこともあって過ごしやすかった。おとといの騒動でへばっていたアキラも、舟の上ではのんびりできる。
陽がまだそこそこ高いうちに九品津に着く。
岸から新たに造られた桟橋が伸びて、その先に多聞の船が繋がれていた。
港は閑散としていた。港は疫病の広がる場所として避けられているのだ。
多聞は渡辺の屋敷にいた。
「顔いかがした」
権中納言の家人と喧嘩した、と言うと笑われた。
この九品津で船を動かす人手を一人得たという。そいつは鎌倉で舟作り学ぶのだそうだ。手紙を渡す。磁石は既に渡している。準備が有るから出発は明日の夕方になる。
「あと、新しき白酒買いて持ち行け」
「誰ぞに与えるのか」
違う。ここの清酒は殺菌していない。酵母が入ったままだ。コウジカビは望めないにしろ、清酒の酵母があれば東国の酒も随分と違ってくるだろう。
あと、パンも。酵母と言うからにはきっとパンを膨らませることも出来る筈だ。
説明すると、食わせてくれと言う。勿論だ。
「ふわふわ、とな。餅のごときか」
楽しみにしていろ。
#77 邸宅等の位置について
作中時期の源頼信の邸宅については左京六条、後の六条堀川の屋敷の近くかその位置かという辺りに設定しています。現在の東本願寺の北西辺りです。源頼光の邸宅は遠く離れて北辺の一条戻り橋近くにありました。
藤原能信の邸宅は「大鏡」によると四条坊門小路と西洞院大路の辻にあったとされています。現在の蛸薬師通りの辺りです。
木工寮への道で、廃墟らしき屋敷は東三条院、面積二町に及ぶ巨大邸宅で摂関家の儀礼上の本拠でしたが1017年に焼けており、再建されるのは1025年になってからになります。
その手前の屋敷が高松殿、小一条院の邸宅があるのですが、アキラは気づいていません。小一条院という地名も屋敷も別にあり小一条院が所有しているのですが、住んでいたのはこちら、高松殿でした。
二条大路を西に折れるとまずは閑院、これも二町の巨大邸宅で、内大臣藤原公季の邸宅です。その西が堀河殿、これも二町の巨大邸宅、左大臣藤原顕光の邸宅で、もとは小一条院、敦明親王の東宮御所があった場所です。藤原顕光は翌1021年に没しますが、前から結構荒れ放題だったようです。
これら大邸宅は東西にのみ門を開いていて、二条大路に面した北側には門を持っていませんでした。
堀河殿のすぐ隣を堀川が流れています。その向こうが木工寮です。木材の運搬はこの堀川を用いて行われました。隣接して工人の長屋や様々な職人の住居があり、後世にはここが材木座として京都の木工業の中心となります。現在の丸太町、二条城前の辺りです。
木工寮の門がどちらに面して開いていたかは不明です。しかし、低位の邸宅が大路に面して門を開くのは禁止されていました。という訳で、木工寮の門は西側、猪隈小路に面していたとしています。
面白いのは更に西にあった禁苑、神泉苑の門が北側、二条大路に面して開いていたことです。これは陰陽上の理由で、門も開かれたままでした。ここからは不浄は勿論、赤色の物も持ち込み禁止とされていました。
禁苑、つまり住民の入れない公園だった訳ですが、神泉苑はこの時代、御霊会などの様々な祈祷の為に頻繁に公開され、作中時期辺りでは藤原道長の建立した法成寺に部材を取っていかれたりしました。少し時代を下ると疫病の死者が勝手に捨てられていたことが記録されています。更に時代が下ると勝手に田畑にされたりもしていました。