#76:1020年7月 調銭
「下野の者が、渡辺津から、ふ、ふはは、やってきおる」
笑われた。
源頼光殿は見るからに高齢で貴族然とした紺の直衣を着ていて、狩衣姿の弟、源頼信とは大きく雰囲気が違って見えたが、これはやはり兄弟、武者であることは間違いない。それは板張りの広間の隅にいるアキラにも感じられた。
「聞いた事なきつわものぞ、これは。
武蔵から10日、馬走らせても難しかろう。それが荷積みて来おる」
安濃津に寄り道して二日無駄にしていたから、実際はもっと早く着けた筈だ。
都の頼光殿の屋敷は都の条里の北の端にあった。受領を色々していただけあって邸宅は広いが、更に北の馬場の更に北、人家の無い林の中に広い厩舎を抱えていた。
源頼光は、無視できない規模の常駐戦力を都に維持していた。これこそが、彼ら源氏が時の権力者に頼られる、その能力の源泉なのだ。
荷箱の中身が皆の前に広げられていた。
「これは何ぞ」
頼光殿の郎党の一人が一つ手に取る。
「南北を指す針、磁石にあります」
アキラは答えた。
郎党は小箱をしばらく眺めた後床に置き、しばらくして、北はこちらであるか、と聞いた。そっちは南だ。幸いすぐにツッコミが周りから入る。
「これは」
「レンズにあります」
その郎党はしばらく眺めたあと、源頼信殿に手渡す。
「瑠璃か」
この時代、瑠璃、つまりガラスと水晶は区別されていない。
「そのレンズ通して向こう見られよ」
頼信殿は顔の前にレンズを持ってきて、そしてあからさまに顔をしかめた。
「これは何ぞしておる」
「試しに己が掌でも見られるが良き。レンズは向こうを大きく見せる、そういう石にて」
頼信殿はしばらく手の甲や服の生地などをレンズで眺めたあと、郎党に頼光殿に届けさせた。
「蓮珠なる宝珠、いかな唐物ぞ」
「レンズとはただの形に過ぎませぬ。透き通るものをその形にすれば、例え氷であってもレンズとなります」
「つまり、その形にすれば、いくらでも作れると」
「然り」
「逆さになりおる」
頼光殿の声だ。
光学の説明はすまい。
「レンズとはそういう石にて」
但し、最低限の説明はしておこう。
「レンズはひとところに光を集める物。
そのレンズで陽を見らるるな。目が焼けまする」
郎党の一人が庭を指さす。
「あの兎は」
九品津で急いで調達した兎二匹のうちの一匹だ。
足利で摘出して、石鹸づくりの際に出たグリセリンに漬けておいた兎の睾丸は、10日経った後も何とか感染力を維持してくれていた。接種した二匹のうち一匹が発症したのだ。
「疱瘡避けの印付ける汁取る為のものにて」
「印を見せよ」
頼信殿が言う。アキラは直垂の袖をめくりあげて、肩の接種痕を示した。
「見えぬ」
郎党の一人が見に来る。確かにある、小さき、と言う。
頼光殿が訝し気に頼信殿を見やる。頼信殿が答える。
「疱瘡に罹っておらぬ者に、疱瘡にならぬ印をつける、と。
足利より文にて伝えあった事だが、果たして」
「足利では確かめておらぬか」
「足利では既に試して、お陰で疱瘡は流行り過ぎておると言う。印付けたる者に疱瘡罹る者無し、と」
「その印付け、ここで為せるか」
「然に」
アキラが答えると、頼光殿はふむ、と鷹揚にうなづいた。
「なるほど、下衆を幾人か集めて試せばよろしかろう」
この家の者は怪しきものには慣れおる、と頼光殿は付け加えた。
・
「薬師、陰陽、それに法師」
頼義殿は指を折って、疱瘡避けの印付けに難癖を付けてくるであろう勢力を数え上げた。
アキラは若い雑色たちへの接種を終えて、道具を片付けているところだ。
「何か考えの要るな」
「慣れれば弓引くのと変わらぬ只の術、そしてただ効くだけなれば」
「祈祷の効き目と変わりなきと云う者もおろう。病に罹らぬというだけなら誰でも言える。そして確かめるのは難しき。
これが、病治すものであったなら違うておったろうがな」
暫くは吹聴せぬ事よ、と頼義殿はアキラに釘を刺した。うまく行くことが確かめられたなら、まずは河内国にある領地の住人から種痘は行われるという。
淀川を遡る舟から見た光景を思い出す。
河原の白い骨。流れてゆく青白い死体。
冬のうちから疱瘡は流行りはじめ、今はもう随分と落ち着いたのだという。
いや、今でも充分に流行っているだろ、あれは死後それほど経つ死体じゃない。
現状ではまず受け入れられないだろうとは判っていても、救える命がどのくらいあるのかを考えると腹立たしくもなる。
「調銭の話もあまり良く無き事よ。難しき」
アキラと平良衡による調銭、税金の貨幣による納入の企てには、その一部に不確定要素があった。
元々のアイデアはこうだ。
都に送られる税である調と庸、この運搬を新しい国司に掛け合って足利勢に任せる事とする。そして中身を銅銭とそっくり入れ替える。絹八百反はこっちの懐の中だ。
あとは調銭として都の庁に納めても良いし、国司が鋳潰した上で、それで調と庸の相当分を都で買って納め、残りの銅を着服しても良い。
後者だと国司は遙任になる。遙任にしたほうが国司は儲かるというのがこのアイディアの面白い所だ。
「調運ぶは兼光が家の代々の仕事よ。代々と言うのは強き。旧例は何にも増して強き。しかるに更に強きで当たらねばならぬ」
そう言って頼義殿はアキラの背を叩いた。
「さて、出仕の支度致せ。陽のあるうちに行くという事ゆえ」
・
牛車の後ろ、騎馬の後ろをアキラは歩きでついてゆく。具体的に言うと頼義殿の騎馬のすぐ斜め後ろだ。
「吾子が馬の車で来ておったら大事であった」
そりゃ、手紙で念入りに指図がありましたから。
聞けば、アキラが下野に帰った後、六位以下が車に乗ることを禁止する令が出されたという。牛車に限らず車は全部だ。
更に、馬に乗ることも六位以下の者は禁止されたという。
「吾子の馬車のせいであろう」
こんな令、守られているのですか?
「守られるものか。そこら走る車の中に官位持ちたる女房などいくらも居るまい。しかし、誰が簾を捲って確かめようか」
しかし、令は令ぞ、と頼義殿は言う。二位殿の女房ならともかく、只の六位では令を曲げること叶わぬ。
馬車の使用が禁じられたのは痛い。都の内外でしか適用を意図していないかもしれないが、特に場所を限った令ではない。讒訴されればたとえ関東の事であっても罪とされるだろう。
馬車による流通の活性化は、ここに頓挫したのか。
目的地は条里のひと区画、一町四方を占める大きな邸宅だった。
門の手前で、牛車から源頼信殿が下りるのが見えた。牛車で乗り付けることが出来ないのか。
「礼失う事無きよう門の前で降りるのよ」
門前を通り過ぎる時も降りるのだと頼義殿は言う。
まさか、この都に山ほどある屋敷の門の前、それぞれで牛車を降りてやり過ごさないといけないのか。面倒そうな話だ。
「ここは」
「権中納言能信様の屋敷だ」
前に上野で教えたであろう、と。
ああ、思い出した。上野国司、いや前国司か、藤原定輔殿の仕える人物だ。御堂関白藤原道長殿の四男、藤原兼光の長男も仕えているのだったか。
レイパーの元締め、ろくでもない逸話まみれの人物だという印象が蘇る。
屋敷の雑色たちも何となくヤバげに見えてくる。
廊下を歩き、周り縁を巡り、母屋の広間に通される。
夏の夕暮れの光が斜めに、部屋の奥まで届いていた。
アキラは頼義殿の後ろに座った。しかし、屋敷の家司らしき狩衣を着た男が誰かを探している。
「七位は何処か」
吾子にて。答えると、更に前に座れと言う。
蘇芳色の直衣の男がやってくる。後ろに何人か引き連れており、恐らくは屋敷の主なのだろう。
そいつは、アキラのすぐ前に立ち止まった。頭を上げることが出来ない。
「面見せよ」
そういわれて、顔を上げた。
見覚えがある。
土御門邸の池の傍、風景スケッチを持って行ってしまった、
「見覚えある顔ぞ」
藤原能信は手に持った扇子らしきもので、アキラの烏帽子を軽く叩く。
・
「定輔がこの者を目代にと次の国司に推しておった」
ええと、下野、相模、光衡殿の武蔵、そして藤原定輔殿が次の国司に推す上野か。四カ国の目代って、それは出来るのだろうか。
「平の光衡も推しておったな」
下野については、相応しきものを小一条院に推すことになっておる、と藤原能信は言う。推すと言うのは勿論国司を指すのだろう。小一条院と言うのは、くだんの元皇太子か。
「院の別当ゆえ、諸々任されおるが、下野についてはよくわからぬ」
藤原能信の向いた方向には、源頼信殿がいた。
「はじめ頼行を充てようと思っておったが、定輔が良しとせぬ。文行も良しとせぬのがよく判らぬ」
頼行の姓はなんだ。下野絡みと言うことは藤原か。藤原頼行、ああ、レイプ事件の当事者の一人だ。で藤原定輔殿の従者と合戦に至ったという話だったっけ。文行のほうは判らない。
「下野守の解文ときては全く神妙不思議と言うしか無い」
いつ戦などしおった、常陸の在庁死なせおる信田小太郎とは誰ぞ。
当然の疑問に、源頼信殿は明瞭な声で説明していく。
「信田小太郎とは、平の将門の末孫にて。東の難事の多くは将門の乱に遡ります。
まず俵の藤太将軍の末孫が下野介兼光、高望王の末孫が常陸の在庁、同じく上総下総の在庁忠常も、そもそも将門も高望王の血筋にて。
これらは将門の乱以来の宿怨多く今まで抱えおります」
・
「よいか、東の在庁ども盟結びたるとは言うても、叛くこと無く税忘れぬなら、それも別に良いのだぞ」
藤原能信は源頼信殿と差し向かいで座っていた。
「其方の思案、御堂には告げ申したか」
「かつて、御文にて」
ふむ、と藤原能信はわずかに思案した。
「御堂はそれに何と答えた」
「何も」
「それが答えであろうよ。其方の思案まことであろうと、何もしてはならぬ」
但し、起こりし時に備えるは勝手ぞ、と付け加える。
「つまるところ、下野は誰ぞでも良いのだ」
結局誰の貢が多いか、それだけの事、と藤原能信は独り言のように結んだ。
言わねばならない。
アキラは発言を禁じられていた。全ては頼信殿が話すことになっていた。
しかし、肝心の話が、まだ全く出ていない。
頭を下げて、言う。
「御願いございます」
すぐ背後から、物凄い圧力を感じる。頼義殿だ。
ダ・マ・レ。この言葉が皮膚で感じられる。
構わず続ける。
「下野の税、調と庸、これを調銭にて納めたく。
出来ますれば、同じ分をまた銭にて貢ぎたく」
国司レベルじゃない。ここまでの権力者に話が付けられるなら。
ならば、さらに場にチップを積もう。
アキラは隠し持って来ていた、銅銭100枚の穴に縄を通してひとまとめにしたものを取り出した。目の前の床に置く。
頭を下げたまま続ける。
「かような、唐の銭でありますれば、渡島の蝦夷との商いにて入ります。
これを、税となれば正丁およそ一万、調は正丁一人に付き十文、庸は五文、あわせて百五十貫になります」
棒銭、つまり銅銭百枚を十本、つまり銅銭千枚まとめて一貫と数える。一貫は大体3キログラムくらいだ。百五十貫だとおよそ500キロぐらいだろう。
この税と同じ額を貢ぐ訳で、つまりは年1トン産出して都に届けることになる。
「合わせて三百貫、鋳潰して仏作られるも結構かと」
誰かが目の前の棒銭を持って行った。暫くして、
「銅の色強いな。これはまことに商いで得たものか」
「国で採れた銅ならば、国のものとなっておりましょう」
つまり、察せ、とアキラは言ったのだ。
横腹を蹴られた。
烏帽子が落ちる。
「下衆が大きい事を言いおる」
ゲスとはお前のことだ、とは思っても言わない。下衆とは高貴な血筋の流れない庶民の事だ。この時代それだけで卑しき奴だとされるのだ。
這いつくばったまま、耐える。
背中に誰かが腰を下ろす。
「汝には様々に悪訴が来ておる。外法にて民を惑わす悪人とか、信田小太郎に連なる賊徒とか。これらはまことか」
上にいるのは藤原能信本人か。アキラは黙っている。
「ふむ、外法なんたらは前にも訴えあったようだな。しかしこの訴えは取り下げおる。信田小太郎の事は先ほど分かったので良い。さて」
背中から荷重が消えた。
「此度の悪訴にある外法、疱瘡の印とやらは何ぞ」
少し置いて、頼信殿の声がした。
「そこの者が申すは、疱瘡にまだ罹っておらぬ者に印付ければ、疱瘡を避けるというもの。まじないではなく、弓馬の如き技なれば、正しきかどうか、河内にて試しおります」
「ふむ。思うより空事で無きや。面白うある」
扇子がアキラの顎の下に当てられ、顔を上げるよう促される。
頭に烏帽子が載せられる。
「銅堀り、疱瘡除け、絵描き、他に何が出来る?」
・
夏の遅い陽が落ちて、しかしアキラはまだ藤原能信の屋敷にいた。
源頼光の屋敷に置いていた荷物の一部がここに届けられ、アキラはそれを組み立てていた。
時計だ。高さ五尺、勿論その高さは振り子のためにある。時計の骨組みは木だったが、心臓部の脱進機と歯車は銅製だ。歯車の噛み合う片方はピン歯車を採用することによって歯車のインボリュート歯形を削りだす面倒を半分にしていた。
他の部分は以前作った試作機とさほど変わらない。
振り子には飛び立つ水鳥とそれを追う狐が彫刻であしらわれていた。振り子が揺れると、狐は永遠に左右に水鳥を追い続けることになる。
小さく、遠くから鐘の音が聞こえる。五回。定時法で午後八時の鐘だ。内裏にあると云う漏刻、水時計で計測された時刻らしい。
それに合わせて、アキラは針の位置を合わせた。
振り子が動き、その度に錘がほんのほんの僅かずつ下がる。
「造作の安いな。しかし、このふらふら揺れおる物はよい」
すぐ横にウンコ座りで藤原能信がアキラの手元を覗き込み、振り子を突く。
説明する。
「漏刻が水使うように、この時計は錘の落ちるを使います。
一日に一度、錘に付きし紐を巻き上げる役を一人お付けなされよ。またこの時計、できれば一日に一度、正しき刻に合わせる事をその者にお申しつけなされよ」
「宇治の別業に置きたきものぞ。鐘鳴るのが聞こえぬ所で使うが良かろう」
確かにそうだろう。しかし時刻合わせをどうするか。
勿論準備がある。
「正午頃、陽が出ておる頃にこれを使われれば、正しき刻に合わせる事できましょう」
取り出して置く。
小さい日時計だ。吊るした磁石を収めた枠を嵌め込んでいて、それで南北を出すことが出来る。
「このふらふらしおるのは何ぞ」
「南北を指す石、磁石にて」
藤原能信は呆れた顔で言う。
「見たこと無き唐物がそろりと出てきおる。吾子は他に何が出来ようぞ」
#76 調銭について
租庸調の税のうち調、布などの物納の代わりに銭で納める調銭の制度は都と近畿諸国に施行されたものの、やがて銅の枯渇と共に利用されなくなります。
延喜式には、調一丁輸銭随時増減、つまり正丁一人あたりの調銭額は時価で決まるとありますが、庸は十日の労役の代わりに正丁一人当たり布二丈六尺を納めるというもので、一方、銭五文を以って布一丈に替えるという調銭の古い制が存在しました。つまり庸は正丁一人当たり銭十三文です。調の負担はおよそ庸の倍程度だったので、調銭額は正丁一人当たり四十銭程度になったかと思われます。
ただこれは古い制度が生きていた時代の負担額の推測に過ぎません。作中時代ではもはや銅銭と財物の交換が安定して成立していませんでした。銅銭は実際には銅を多少含んだ鉛に過ぎず、銅はその地金の価値で流通していたのです。
作中時代は銅地金の価値が最も高騰していた頃で、金との重量比で120対1程にまで価値が膨らんでいました。勿論金1kgに対して銅120kgが等価だという意味です。
作中でアキラの言った、調銭の額、正丁一人あたり調十文庸五文、合わせて銭十五文というのは根拠となる過去の記録事例を無視したものですが、延喜式の頃に比べると銅の価値は十倍以上に貴騰しているため、この申し出は全くの儲け話であり、過去の故実を無視するには十分すぎる理由となるでしょう。
しかしアキラは、この地金価値の貴騰が長く続かないことを理解しています。そして経済学の知識というものはこの時代、基本的には存在していません。