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#75:1020年7月 海上 (地図有)

航海の行程です。

挿絵(By みてみん)

 用意した五斗箱は2つ、これにぎゅうぎゅうに都への荷物を詰め込んだ。

 実は更にもう一つ、利根川の渡しで麻の袋を受け取る。これはずしりと重い。偽造宋貨およそ二貫、二千枚だ。この作業が10回繰り返された。


 足尾の偽造宋貨の生産は、最近ようやく五日で二貫のペースになったばかりだった。

 既に足尾の鉱山の者達も接種を済ませている。花輪村では感染者が出たそうだが、幸い先に足尾の山中に入っていた連中は無事だった。


 この二十貫は現在の生産量ほぼ全てに等しい。将来的には一日二貫の生産量を達成する予定だったが、そのためには生産施設の拡充と、労働力の大幅な増強が必要だった。

 アキラの将来構想では、毎年一万貫という莫大な生産量が目標となっていた。日本全土に貨幣経済を実現するための流通量として試算した値だったが、自分で考えておいて何だがこの将来構想は無理があり過ぎる。


 竹芝で船は待っていた。

 全長三間、10メートルほどの全長と、同じほどの高さの帆柱を持つ、堂々とした船躯の、要するにヨットだ。

 船の名を聞くと、


信田(しのだ)


 多聞はそう答えた。

 鎌倉で建造された船だ。船底は深く尖っていて、川を遡るのには向かないが、左右の揺れは随分と小さいと多聞は言う。更に船底に石がバラスト代わりに積まれており、これに偽造宋貨を積んだので多少重心は低く安定したのでは無いだろうか。

 この船の画期的な点は、密閉された甲板があることだ。この船で一度、転覆しかかったことがあって、その時思いついたのだと多聞は語った。


「箱のごとく閉じ作れば、ひっくり返ろうが水の入ることの無きゆえ」


 その分荷物を積むのは面倒だ。甲板に作られた戸は、五斗箱がぎりぎり入る大きさに作られてはいたが、本当にぎりぎりで作っていやがった。箱に掛けた綱が引っかかって、箱を積むのはひと騒動となった。

 更に調整用バラストとなる石を積み、水と食料を積む。


 多聞は既にこの船で伊豆の先までは何度か往復したそうだが、更にその先となると全くの未知数だ。


 帆は足利製の叩き麻糸の布を縫い繋いだものだ。麻布とは思えぬ艶のある見た目で、しかも撥水性がある。しかし繋ぎ目が見た目によろしくない。布の幅が三尺しかないせいだ。おかげで遠目には帆は縦縞模様に見えた。

 縦横に張られた麻縄には滑車が使われていた。これで面積の広い帆も一人で御せおる、とは多聞の弁だ。


 錨は鉄製で、刀五本分の鉄を使って叩き作らせたものだ。石の錨しか知らなかった多聞だが、アキラが持ってきたこの錨の性能にすぐに夢中になった。重く返しついた鉄の錨は、海の底に木の根を持つごとき、と多聞の称賛することことなった。

 しかし、これほどの鉄は唐物ぞ、と多聞は言う。盗まれてはいかぬ。

 錨を上げると、船庫に放り込む。もやいを解き、桟橋をオールで押して離れる。二人でオールを漕ぐ。


 そろそろ海へ、南へ吹く風が出る。


    ・


 陽が落ちてしまう前に沖へ出る。多聞は巧みに帆を操って舟を西に向けていた。アキラは舵に掴まって、多聞の指示で舵を動かす。というより動かさないようにじっとしている事が仕事だ。縄でうまく舵を固定できれば良いが、忙しいときにはなかなかそうはいかない。


 アキラは試作した六分儀もどきを試す。銅板で作ったもので、水平面からの仰角をおよそ一度単位で割り出せる。

 この角度割り出しはひと苦労だった。作りかけの水車の輪の上に円を描き、円周を360分の1の長さで等分して刻みを付けた、それをゲージにして銅板に角度を刻んだのだ。少なくともおよそ10分の1度の精度は確実にある筈だ。


 雲があるが見慣れた星は空にある。酔いそうだ。しばらく試した後、アキラは六分儀での観測をあきらめた。船の上では水平を維持できない。

 舟はゆっくりと南下して、恐らくは三浦半島の先の辺りで碇を降ろして二人は寝た。

 翌朝、起きてみると既に多聞に操られた帆は風を孕んで沖へと走り出していた。浦賀水道を抜けると海面は一段と荒れるようになった。

 しばらくすると多聞はアキラに帆の扱いを任せた。交代で船を動かせるようにするのだ。

 指図のままにアキラは帆を動かす。おだやかな東南の風に乗って船は進む。

 途中から帆と舵を一人で動かせるか試す。二人交代で夜間も走ることも考えていたが、これは流石にきつい。長距離帆走はもっと人数が要る。


 岸伝いに進み、夕方に伊豆半島の先にある入り江に錨を落とした。

 人家が見えるが、上陸はしない。


「さて、ここより先は初めてぞ」


 多聞は強飯の粥に干魚を刻んだものをアキラに渡しながら告げた。


「この二日、良いいなさであった。しかし、帰りはどうしたものか」


 いなさ。季節風の名前か。今は良いが、南東からの風ばかり吹くなら東への帰路は難しくなる。


「沖に流れがあると聞いたことはあるか」


「沖に流さる、あの流れか。浜から遠ざかるだけであろう」


「この南の沖に、西から東へ流れる流れがある」


 多聞は箸の手をとめて、


「その大流れも、沖へ出るのは変わるまい」


「上総の辺りではそうだ。しかしその西では、九州からずっと東へ流れてきて、そして上総で沖に向きを変える。

 その名を、黒潮という」


「ふむ、黒いから黒潮か。では続きおるのだな」


 多聞は黒潮を既に見たことがあるらしい。


「ああ、遥か南から、そして上総から更に、一万五千里、続きおる」


 一万五千里、と聞いて多聞は目を廻して見せた。


「俄か法師の説法より信じられぬ」


    ・


 翌朝起きてみると、小舟が船に横付けていた。現地の漁村の住人か。既に多聞が応対中だ。釣ったばかりの魚を買う。

 魚をさばいて、熾した火であぶって食う。朝飯を作る間に船は錨を上げて沖へと進んでいく。

 朝食が済むと、しばらく寝ると多聞は言った。


「伊勢に着きし頃起こされよ」


 勿論冗談だ。


 昨日より風が強い。帆は一杯に風を孕んで、荒々しい波を超えて船は飛ぶように進んでいった。

 素晴らしい速度と、素晴らしい景色だ。富士山が見える。

 

    ・


「船ができたら、一緒に海にいこう。

 船に乗って、暖かな南に行こう。そうだな、都にも一緒に行こう」


 蛸を食わせる約束をしていたんだった。


    ・


 あっという間に駿河湾を渡ってしまう。昨日までなら一日がかりの距離ではないだろうか。

 正午をいくらか廻った頃、多聞が起き出した。


「あれは、富士の峰か」


 富士山はもう背後の向きだ。


「いくら進みおった」


 恐らくは百里程か、と答えると、まことかと多聞は小声で漏らしたが、しかし今の船の速度をみれば信じるだろう。操船を交代する。


「これは、船壊れるのではなきや」


 いや、船の構造は大丈夫だ。重心が低く箱構造の船体は充分に頑丈だ。

 しかし古い舟から受け継いだ部分、例えば四角ばった舳先は弱点だろう。


「舳先が波割るよう尖らせねばならぬ」


 陽の落ちたが、錨を降ろす場所は無い。闇の中を西へと進む。

 星の見えるうちは方角は明瞭だったが、雲が出てくると磁石だけが頼りとなった。

 浜に近づき過ぎないか、常に注意は怠ることができない。この船は浜に乗り上げることができないのだ。


 夜が明ける頃、伊勢湾の入り口と思しき島々が見えてきた。

 島影に錨を落とす。二人は疲れ切っていた。

 そのまま二人は寝てしまった。


 昼頃二人は起き出すと、火を熾して強飯をうるかして食事にした。

 そうして船を湾内に進める。

 伊勢湾は波も穏やかで、曇り空の南からの微風で船はなめらかに進んだ。


「どこが何処やらわからんな」


 沖から漁村らしき影を見て多聞がつぶやく。


 アキラの計画では、21世紀の三重県の津の辺りにあるらしい、安濃津(あのつ)という港で船から荷降ろしして、そこから鈴鹿超えで都に入ることになる。すばやく、信用できる馬借と契約できるかが肝になる。

 それがどこが安濃津なのかも分からない。

 いざとなれば伊勢で下ろして、伊勢参りの道筋を逆に辿るという方法もあったが、伊勢もまた武者が多くて面倒な土地なのだ。出来るだけ早く踏破したい。


 陽が落ちる頃、湾内奥深くて見つけた河口の港の前に錨を降ろした。

 暗くなって、舟がやってきた。


「なぜ浜に着けぬ」


「この船は浜に着けられぬ」


 アキラは交渉し、明日の朝馬借を呼んで貰えることとなった。ここが安濃津で間違いないらしい。良かった。


    ・


 翌朝、頼んでいた馬借の人足に混じって、武者が一人舟に混じっていた。日に焼けた腰巻一丁どもの中に紺の直垂姿は目立つ。


「いかな舟ぞ。唐人か」


 船に乗り込んできた武者に、武蔵から来た船である事を告げたが、当然簡単には信じて貰えない。

 下野国司の申し送り状を出してようやく信じてもらえたが、今は疫病の蔓延中、しばらくこちらを沖に留めて隔離すると武者は言い出した。

 疱瘡避けの印付けは、


「怪しげなる知らぬまじない、何の効き目があろうぞ」


 取りつくしまもない。

 押し問答が続き、その間に馬借に頼んで帰路のための水と食糧だけは補充することが出来た。

 陽が落ちる頃、上半身裸で涼んでいたアキラたちの元に、朝とは違う武者が来た。


「馳走致したきゆえ、屋敷に参られよ」


 安濃の荘代、平正度(たいらのまさのり)が屋敷に招待するという。

 その名前は事前に調べたリストの中にあった。こいつの父親は今の常陸の国司で、かつては下野の国司だった。但し遙任だ。藤原兼光とそれなりに近しい関係だった筈で、そして常陸の連中にも血筋は近い。

 つまり、危険だ。


「されば支度有るゆえ」


 舟の武者はそのまま待っているようだったので、


「荘代に差し上げたき品には、その舟は小さき。更に大きな舟で来られよ」


 武者の舟が岸に去っていくと、アキラは多聞にそっと声をかけた。


「船出すぞ」


「馳走は」


 多聞の答える声は鈍い。さっきまで寝ていたのだ。


「その馳走の肴は吾が首ぞ」


 錨を引き揚げるうちに多聞が帆を広げる。折から吹いてきた弱い陸風に乗って、船は静かに沖へと滑り出していく。


「布四反」


 多聞がぼそりとつぶやく。馬借に先払いした労賃、麻布四反は無駄になってしまった。


「さて、この後如何にする」


 こうなっては仕方がない。大阪までぐるっと遠廻りだ。


「難波か和泉に行こうぞ」


「待て待て」


 多聞はぎょっとした声で答える。


「そもそも、行けるのか」


「勿論」


 アキラは努めて明るく答えた。


    ・


 月明かりを助けに、伊勢湾口の小島の影に錨を下ろすことができた。

 そこから先へは、今は難しかった。満ち潮なのだ。湾内に流れ込む潮流に逆らえるほど風は強くない。


 夜中のうちに潮流は反転していたようだ。アキラが起き出すと既に船は朝の光の中、外洋に出ていた。岸は西に遠く離れて見えた。

 アキラは多聞と交代して、ひたすら船を西南に走らせた。風は相変わらず東南からの安定した強風で、船は何度も間切って進み、その度に大きく操帆を忙しくおこなった。


 どのくらい進めばいいのだろうか。

 富士山のようなランドマークが見えない分、その航海は不安でしかたない。

 確か、紀伊半島の南の端が潮岬だったっけ。

 黒潮がすぐそばを通っていた、筈だ。海の色を見れば良いのか。


 多聞と交代すると、アキラは改めて六分儀を使ってみた。

 鎌倉から更に緯度で一度以上南に来ている筈だ。


 夕方に船は小さな湾内に錨を投じた。近くには漁村も無いようだ。


 翌朝、慎重に南下してゆく。波が荒くなってゆく。

 天気は悪くない。なのにこの荒れ模様はなんだ。波を割り、乗り越え、波しぶきを被る。船体が密閉構造で良かった。

 ただそれは、船体の表面にへばりついて舵を流されないように掴み続けるアキラにとってはあまり助けにはならない。

 多聞の奴は波を乗り越える毎に、うっはぁ!とか、おっほぉ!等と歓声を上げてやがる。ちくしょう、そりゃ楽しいだろうな。

 船は飛ぶように、岬の先をかすめて西へと走った。


 北西へ、やがて北へと舵を切る。

 この辺りは夕方に錨を下ろす浦には事欠かなかった。


 翌日、海峡、恐らくは淡路島と和歌山の間の水道を北へ超える。

 鳴門の渦潮ってどこだったっけ。


 錨を下ろした浦の漁民から、瓜を分けてもらう。タダでくれるっていうのは良い。


 翌日、大阪湾の北東の端、河口を少し遡ったところにある港、九品津に辿り着いた。

 漁民に詳しい位置を聞けて良かった。今のところ川の深さは十分だが、例によって岸には付けることができない。

 アキラはやってきた舟に乗って上陸した。


 九品津は別名を渡辺津、源頼光の部下、渡辺の綱の支配する地である。

#75 灘について


 日本近海の海域名称につく修飾語として、灘という言葉があります。灘は多くは波の荒い航海が困難な海域を指しています。例えば静岡沖の遠州灘は強風で波が荒く、紀伊半島南部沖の熊野灘は黒潮に接して海流が複雑になっています。相模湾の相模灘も黒潮の影響を受けて海流が複雑です。

 山口より東の日本海側、鹿島灘より北の日本海側に灘と付く海域はありません。

 ただ、関西より西側の灘とつく海域にはさほど航海困難なものは少なく、これは海域命名時の航海能力を反映したものだと思われます。東海地方の太平洋岸の航海は、中世に中国から新たな航海技術がもたらされて初めて可能になったのです。

 それまでは近畿以東の海運は伊勢湾や霞ヶ浦のような内海のなかに限られていました。三重県津市にあった安濃津の港は当時、参河や尾張からの伊勢湾内の水運で栄えました。都へは陸路をとると幾つも大河を渡る必要があり、これは合理的な交通路だったのです。

 太平洋岸の水上交通が可能になると、安濃津は更に盛んになります。ただ、それでもさらに東、東北への水運は閉ざされていました。最も東の灘、鹿島灘を超えることは極めて困難だったのです。

 鹿島灘で黒潮ははるか太平洋の彼方へと流れを変え、その少し北ではこれにぶつかる親潮が存在します。極めて強い海流が混乱した流れを作るこの海域を安全に超えられるようになるのは江戸時代になってからです。

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