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#74:1020年6月 末摘花

 足利に帰ったアキラは、貞松が死んだこと、既に火葬にされたことを知った。


 そこでアキラは、自分が貞松の死に直面することから逃げていた事に気がついた。

 妻を失い、新たな英雄を失い、未来の技術の最大の理解者を失い、

 立っていられない。


    ・


 今は、今だけは、全てから目をそらしていたい。

 アキラはできるだけ事務的に物事をこなそうと思った。

 


 どうやら足利では疫病は沈静化に向かっているようだった。

 産院を医院とするアキラの提案はすぐに受け入れられた。


 池原殿の懇願により上野へ派遣された種痘の班は、その道筋で疱瘡避けの印の噂をばらまいていったようだ。但し、既に疱瘡に罹った者には効果がないと云うくだりはどうも無視される傾向があるようだった。

 さみだれのように疱瘡避けの印を求める人々が足利を訪れるようになっていた。発症者も発症していない者もみな、屋敷の門を叩いた。


 アキラ達は、発症していないと思える者にとにかく接種した。しかしこのままでは、足利に押しかける行動そのものが疫病を広げてしまうだろう。

 とりあえず、付き合いの有る郡司と在庁宛てに、読み書きの出来るものを選別して足利に寄越し、疱瘡避けの印付けの法を学ばせるよう手紙を書いた。


 疱瘡の治療を求めて足利へやって来た筈が、そのまま居つく住人も既に現れ始めていた。

 疫病で減った人口をここから補完しようと、彼らに一応の住処と労務先が与えられることになった。

 この新しい住人たちは用水路、堀川開削の第一段階を終わらせる好機となった。勿論食料の備蓄には限度があるから受け入れ人口にも制限はある。しかし今はまだ充分余裕があった。


 勿論、死ぬものも多い。死体は毎日のように清水川の河原で焼かれた。

 感情を殺さねば、こんな地獄に耐えることはできまい。


    ・


 そんな状態だったので、あずさ殿を迎える準備など全く整っていなかった。

 屋根つき馬車は前後を警護の武者に固められていた。先頭は頼季様だ。


 屋敷の者が皆膝をついて、その中をあずさ殿は足利の屋敷に迎えられた。

 顔を隠すように薄布を被っている。

 尼女御が手を引いて案内する。


「兼光が所の郎党と(いさか)いあったわ」


 頼季様は馬を降りてアキラの傍へ来ると、難事であった、と息を吐いた。


 足利荘では、逃げてしまった雑色や女房の代わりに、測量で訓練した子供のうちから2名を稚児として、また産屋で訓練した子供のうちから2名を女房役として国庁屋敷に派遣することになった。これは本人たちにとっては破格の好待遇となる。

 更に武者を一人交代で付け、屋敷の体裁は極めて少人数ながら一応整った。


 この人数であずさ殿の引っ越しの準備をしているうちに、ようやく藤原兼光の郎党や雑色たちがやって来たという。

 散所遅参を詫びるという話だったが、その当の本人である藤原兼光が来ておらず、ぐだぐだしい話になった所で敷地に入ってもらい、入れ替わりに馬車を出してしまったのだという。

 そうして藤原兼光の郎党を国庁屋敷内に案内し、そこで連中は、さっき見送った馬車の乗客があずさ殿だと遅ればせ気がついたらしい。


 藤原兼光側としては、まず乳母が死んだとは把握しておらず、あずさ殿の所替えというのがそもそも想定外の話だろう。

 国司に対する支配力は大幅に減じた訳だが、しかしその国司は任期終了間際である。藤原兼光はこのまま放置すると頼季様は見ていた。問題は次の国司だ。


 次の国司はなぜか春の除目で決まっていなかった。

 下野は小一条院の院分となったと聞いた。何もかも聞き覚えの無い単語だったし、誰に聞いても要領を得ない話だったが、頼季様が都に説明してくれるよう手紙を書いて、その返事でようやく分かった。

 小一条院とは東宮を降りられた皇太子、敦明親王だ。天皇になられる筈だった方であったが皇太子を降りられた。これはしばらく前の事で、その後の待遇をどうするか、特に受領任を与えるとの約束をどうするか、その辺りが国司の任期切れを契機にはっきりした、という事らしい。

 その受領任というのは、ある国に限った国司の任命権らしい。

 この、ある国と言うのが、下野だというのが確定したのだ。

 それだけでは何の実利も無い権利で、これは任命された受領が見返りに貢ぐことが前提の利権だ。

 で、その任命が遅れているらしい。


 アキラとしては、次の国司が面倒が少ない人だったら良いなぁ、くらいにしか思っていなかった訳だが、今回アキラが都に行く理由、それはそういうドロドロした局面にアキラを抛り込むためらしい。


「アキラよ、都行き急がねばなるまい」


 まぁ、その通りだろう。

 ふとアキラは、気が付いた。


「ところで御息女(あずさ殿)は疱瘡の印付け済みましたか」


「……要らぬ」


 しばらく経ってから、アキラはその意味に気づいた。


    ・


 アキラは紙に種痘法の説明を下書きすると、裏返して板に水張りして、字が滲むのに構わず針で文字の輪郭を板に刻んだ。以前作った彫刻刀で文字の周りを掘ると、木版画の仕上げは桐生五郎に任せた。


「まこと細かい字ぞ」


 実家から戻った桐生五郎は貞松の死に驚き嘆く間もなく、木工講師に任命されていた。桐生五郎は今頃になってこの職が、アキラの雑用手伝いの別名であることを悟り始めたようだ。


「都へ行くゆえ、おらぬ間守らせる事、多く書かねばならぬ。これでも字減らしたのだが」


 文面の最後には仕掛けがあった。


 ”もかさよけ法習いしに札あたえる 札のものは源三郎の令にしたがへ”


 アキラがいない時、アキラが死んだ時の統制を取る為の保険だ。

 種痘技能者の統率は、強力な権力となる可能性がある。いざとなれば頼季様にそれは託されることになる。


「木使うてはこれより細かい字は難しかろう」


 銅版画でも考えるべきやも知れない。



 旅の準備をしているうちに、アキラを巡る雲行きはどんどん怪しいものとなっていた。

 この東国を西へと急ぐ旅人は例年になく多かった。この疫病の年に関わらず、だ。

 そのうちのどの位が、都へ讒訴の訴状を持って旅しているのやら。アキラに対するものも二三通は混じっている筈だ。


 うち一通は中身も分かっている。藤原兼光による、疫病に乗じて民心を惑わすまじない使いについてのものだ。どうやら前に都で讒訴された時も元は藤原兼光によるものだったらしい。この辺りは平良衡が教えてくれた。


「見え難いところにいたせ」


 平良衡の接種の部位はできるだけ見え難い箇所、肩の背中側になった。

 現在、平兼光の配下で、もさかよけの印狩りが行なわれているという。足利側に通じた証だというのだ。そんな事をやっている場合では無いだろうに。


 平良衡は更に、遠江あたりでどこぞの郎党がアキラを待ち構えているらしいと警告してくれた。ではそれを避けて山の中の東山道を通るかといえば、多分それも危ないだろう。


   ・


 小さな足音が聞こえた。タヅコか。漢字も少しは読めるようになったこの郷村の少女は、今はあずさ殿付きとなっていた筈だ。


「目代よ、下野守の姫が呼んでおる」

 

 敬語が無いとまったく偉そうに呼びつけるように聞こえる。慣れた筈だが、年端もいかない少女に言われるとまた別の感覚も沸く。

 まぁ、行かねば。


 母屋の西に廊下で繋がった建物である西殿は、うって変わって几帳に錦の掛かった華やかな空間になっていた。いまや西殿は女の園だ。おかげで頼季様は新殿に移られた。

 そういえば信田小太郎の妻子はどこに置けばいいか。西殿に住まわせたいが、どうだろうか。

 信田小太郎の子は源頼信殿にとって今も庇護の対象である筈だ。当然母親もそれに準じることになる。足利荘の都合から言えば、あずさ殿のほうが優先度は低いのだ。


 ぎしぎし鳴る床も以前のように音を立てて歩く訳にはいかない。

 静かに、新たに架けられた御簾の前に座り侍る。


「アキラはこれに」


 タヅコは無作法に御簾を潜って中に入る。これは一度作法の講義をしたほうが良いかもしれない。


「いつ都へ登るか」


 あずさ殿の、御簾の向こうの声に変わりはない。


「半月ほど先に」


「都はどこを廻られる」


 遊びに行くとでも思っているのだろうか。


「何処とも判っておりませぬ」


「せいぜい楽しんで参られよ。

 ところで目代殿よ、申すべき由あるのではなきや」


 思い当たるものは無い。


「目代は疱瘡除けのまじない使いおると聞く」


「まじないではありませぬ」


「吾子は受領の目代であろう。なぜ直ぐに受領にまじない行わぬ」


「疱瘡除けの印は、疱瘡の膿から作りますが、これに半月かかります」


 少しあって、


「目代は申し訳言いおる。誰のせいぞ。悪しきは誰ぞ。目代であろう。

 タヅコ、目代を打て」


 タヅコがもそもそと御簾から出てきて、アキラの前に経つが、腕を上げたらいいのかどうしたものか、迷っているようだ。


「タヅコよ。どのような人の命に従いし時も、行うのがタヅコなら、その責をまず問われるもタヅコぞ」


 そう言うと、タヅコはすっかり手を降ろしてしまった。


「但し、今はこの目代を打ってよい」


 アキラはそう言い、傍のタヅコを見やるが、ぶるぶると首を振るばかりだ。

 御簾の向こうに呼びかける。


「直に打ち据えれば、気持ち晴れるやもしれませぬ」


 ドン、と地団太を踏むような音がして、


「タヅコよ、目代打たずともよい」


「何ぞ騒々しい物言いしおるか」


 そこに尼女御がやってきた。ずいぶん騒いだから当然だろう。


「この目代打って何ぞ気の晴れようか。奥に籠れば気も滞ろう。屋敷の表に出られよ。山や川眺めれば少しは気も晴れよう」


「表と」


 再び地団太だ。


「軽く申されるな」


 あずさ殿は直に御簾を掻き上げると、アキラの前に立った。


「この面相を見よ!」


 顔の片側、眼の下から首筋に掛けて、疱瘡の痕が並んでいた。

 ごく軽いものだ。しかし、それだけに、目立つ。


「ほんの少しのあばたぞ」


 尼女御は何でそんな、気持ちを逆なでするような事を言ってしまうのだろう。

 これではただの無神経なおばちゃんだ。尼女御の合理的な考え方には感心する事の多いアキラだったが、流石にこれは無いと思う。武家の風で繊細な女子の心をお忘れになったのか。


「思うより軽くありましたな。まるで目立ちませぬ。見る向きによってはまるで分らぬ事かと」


 化粧をすれば隠せるのでは、とも思ったが、あいにくアキラはそちら詳しくない。


「空事を!!」


 あずさ殿のそれは叫びだった。


「さりとも末摘花(すえつむはな)の様がましであったろう!

 鼻の赤い程で済んでおれば。

 ああ、これで終わりぞ。この先々、何も無き」


 その叫びの少女らしい悲痛さに、アキラの感情はわずかに揺り動かされた。

 だから、言う。


「嘆き給う事無かれ。けして、これ終わりにあらじ」


 アキラは断言した。

 大きなことを言ってしまおう。経済に火を着ける準備は整ったのだ。


「心憂く事無き様、ここに現しましょうぞ。

 この足利こそ、都に勝る都となりましょう。今にご覧じられよ」

#74 末摘花について


 末摘花は「源氏物語」に登場するヒロインの一人です。故常陸宮の姫君、つまり親王任国である常陸の国司であった親王の娘ですが、父親が死ねば給も無く、家は零落しています。

 末摘花は本名ではなく、本名は出てきません。末摘花とは紅花のことで、彼女の鼻が赤いのを紅花に例えて揶揄して光源氏が詠んだ歌から渾名となり、以後作中で使用されます。

 末摘花は鼻が赤いのはともかく、鼻は長くて先が垂れ曲がっている、顔色は青白く、デコが広く、あごも長く、肩はいかつく胴は長く、と極めて不細工であると描写されています。光源氏は彼女の鼻を「普賢菩薩の乗り物とおぼゆ」と例えていますが、これは象のことで、つまり象の鼻のようだと言っています。

 それに加えて彼女は歌もうまく詠めず、機知に富んだ対応はおろか常識的な対応も出来ず、服のセンスも絶望的と、とことんひどい描写がされますが、光源氏はしっかり関係を持っています。

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